2021年2月26日金曜日

2021.2.21 牧師室便り

~ 真剣に地球の環境回復に動き出しましょう ~

「そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。(ルカによる福音書2111)」                                       
 

先月の歴史的大雪を経験してから、もう二度とこのような大雪は味わいたくない、この冬にはこれ以上大雪はないだろうと思っていた矢先に、再び襲ってきた大雪に驚きながら慌ただしく過ごした先週の日々でした。神の家族の皆さんも驚いたことでしょう。アメリカでは国の面積の70%以上が歴史的寒波と大雪と竜巻に覆われ、人も、動物も命の危機に追い込まれるような先週でした。人間の欲望がもたらした地球温暖化による世界規模の異常気候は人間の予測をあざ笑うかのように程度を増してきています。
 

それだけではなく、日本の国は東日本大震災の後、最も大きな地震に襲われました。10年前の大地震の余震と言われていますが、定かではなく大地震の前兆と言う声もあります。また富士山の噴火が近いという噂も広がっています。本当にいつ、どこで、どのような自然災害が起きてもおかしくないような現状です。
 

自然災害の前には常に受け身になっている人間側です。いろいろと準備を整えているとしても、人の予測と準備をはるかに超える出来事が、次々と襲ってきている地球村です。しかし、地震や火山の噴火などは、人間側の努力とは程遠いことですが、地球温暖化やウイルスなどの災難には、皆が知恵と力を合わせることで、ある程度は対処できるでしょう。まずは、ゴミをなくし、エネルギー節約、CO2排出を減らすことなど、自然を守るための一歩を踏み出すことです。

近頃、明日何が起こるか全く知らない弱い存在であることを痛いほど知らされる私たちです。それでも、私たちはこの冬の厳しい力も、必ず春の暖かい風と共に終わりを迎えることを知っています。マラナ・タ、主よ、来たりませ!


2021.2.21 本日の宣教

 『 受難節はひとりで退かれる時 』マタイによる福音書1412142225)

 私たちは受難節の時を過ごしています。父なる神が私たち罪人たちを救うために独り子をこの世界に贈られ、その独り子が、罪人たちが背負うべきありとあらゆる苦しみを味わわれ、やがては十字架の上で死なれ陰府にまで下られるという驚くべき愛が示された40日間です。その40日間を私たち赦された罪人たち、イエス・キリストの苦難の道を黙想し、共に加わりながら過ごすことは大いなる恵みです。

 とりわけ今年の受難節は、新型コロナウイルスという未曾有の試練と共に訪れたため、さらに意味深く迫ってくるのではないでしょうか。いつか自分自身もコロナにかかるかもしれない、そうなったらどうすればいいだろうか、また、コロナによって苦しんでいる感染者の方々、その感染者の家族の苦しみ、感染者の治療にすべてを尽くしている医療従事者の方々のご苦労・・・、しかしいつ終わるか分からない状況の中で、私たちはどのように歩むべきだろうか。

 そんな中、示されたリビングライフのイエス・キリストの姿を黙想していると、今私たちに必要とされる御姿に目がとまりました。その姿こそ、「ひとり人里離れた所に退かれ祈られる」ことでした。とりわけ先週のテキストには「祈るためにただひとりになられる主イエス」の姿が際立って示されています。

 まず、主イエスは、親戚であり、信仰における同労者でもあったバプテスマのヨハネが暴君ヘロデ王に殺されたことを知らされた時、人里離れた所に退かれます。その時の主イエスの心境はいかがだったでしょうか。恐らく従兄であったヨハネが亡くなったことへの悲しみに覆われたことでしょう。それにヘロデ王への憤りも抑えきれないほどであったと思われます。尊敬し愛していた人が、不義の力によって殺されるということは耐えがたい悲しみですし、抑えきれない苦しみに陥るはずです。

 次に、五つのパンと二匹の魚で数万の人を満腹させるという奇跡を成し、人々から崇められ、王にしようとする群衆を後にして「ひとりで山に退かれる」主イエスの姿です。主イエスにとって最も人気と名声が高まっていた時点であったと思われます。主イエスがどこにいようと追いかけてくる群衆。霊的に、また肉的に渇きを覚え求めてくる群衆の姿を深く憐れまれ、必要を満たしてくださる主イエスに群衆は歓声をあげ、待ち焦がれていたメシアとして崇められるその時、普通の人であれば、自分自身を誇ろうと群衆に囲まれながら興奮を極めたはずです。

 しかし、主イエスは悲しい時、憤りが爆発しそうな時、誰も成し得ないことを成し遂げ人気と名声が最高潮に達した時、…早速、ひとり人里離れた所に退かれる…。その姿は十字架にかかる直前のゲッセマネの園へと続きます。

 そうです。ひとりになることを決心することこそ、受難節を過ごす私たちに求められる姿なのです。神の家族の皆さん、ぜひ受難節リレー祈祷表を用いながら、毎日神の前に単独者として手を合わせることを心がけましょう。とりわけ、今苦しみのただ中にある人々のために神の前に退かれる神の家族でありますように…。ハレルヤ!

2021.2.21 小さな泉の恵み

 

~夕暮れ時に

光がある人に、人は感動する~

 

 人は夕方6時を過ぎると寂しくなる生き物です。

 昼間は、仕事をしていたり、用事で忙しくしていたり、みんなとお茶を飲みに行ったりしてワイワイガヤガヤ。一見華やいだ様子に思えますが、みんなと別れて一人になった途端寂しくなってしまう。

 日本人にはこのようなタイプの人が多いように感じます。

 太陽が沈み、多くの人がそこはかとないむなしさを感じる。そんな瞬間に心が充実している人はハッピーです。満ち足りた人生を送っているのでしょう。

 どれだけ表面が輝いていても、ひとりになると無性に寂しくなるのは、本当の生き方、本当の役割が見つかっていないからでしょう。

 どんな状況に置かれても、生き方がほほ笑ましく見える人がいます。夕暮れ時に光がある人に人は感動します。

 生きていることのすばらしさを感じさせてくれるからでしょう。

 

                         樋野興夫著

                        ~「病気は人生の夏休み」から~

2021年2月16日火曜日

2021.2.14 牧師室便り

 

~ 恵みになるか、災いになるか ~


「苦しみに遭ったのは私には良いことでした。あなたの掟を学ぶためでした。」(詩編11971                                       

最近、神の家族のみならず、周りの方々から体調を崩されたことをうかがっています。恐らくコロナ感染への心の不安とストレスがたまっていることと、外での活動がなくなりほとんどの時間を家の中で過ごしているため運動不足のもあると思います。家の中でゆっくりと休みながら暮らすことはいいことだと思う私たちですが、実際のところ運動不足による体の衰えと憂鬱に陥りやすいと言われているのが現状です。

 

 聖書には、人の生活の中で起きる様々な出来事をどう見るかによって、「災いになるか、恵みになるか」が分かれると教えます。この世の人々は多くの場合、目の前に現れる出来事のままを見て、すぐ災いだとか祝福だとか判断してしまいます。たとえば、病気になったら災いであって、宝くじに当たったら祝福だと、事故に遭ったら災いであって、道でお金でも拾ったら運がいいというでしょう。そのような見方からすれば、確かに新型コロナウイルスとそれに伴う危機も、災いでしか取ることはできないはずです。

 

 しかし、いかがでしょうか。聖書は病気になった人が、その病気を通して主イエスに出会い、幸いな人に変えられ、その病気によって人間的傲慢が打ち砕かれ、謙遜を学ぶようになったと告白する声を聞きます。また、事故にあったり、人間関係に躓いたりするような状況で、苦しみに遭ったのは、私には良いことであったと賛美する姿を見ます。何より、主イエス御自ら鞭打たれ、十字架にかかるという苦難に遭われながらも、その十字架を愛の印に変え、復活の約束を示す道具として用いられます。それでは、今私たちを苦しめているコロナ危機をどう見るべきでしょうか。大切なのは、コロナ危機をその人がどう見るかによって、恵みになるか、災いになるかが決まるということです。神の家族の皆さん、コロナ危機があなたにとって恵みになり、信仰が成長するチャンスに変えられることを祈ります。シャローム!

 

2021.2.14 本日の宣教

 私は聖徒の交わりを信じます②  (一ペトロの手紙4:711)

 私たちクリスチャンを定義する言葉として、「赦された罪人」があると言えましょう。決して赦されることのない罪人であった私たちは、イエス・キリストが身代わりとなって、十字架にかかって死んでくださった贖いのゆえに罪赦され、神の子どもという新しい身分をいただいたのです。しかし、忘れてはならないのは、私たちが罪から解放され、神の子どもとされたのは、ただ一方的な主イエスの愛と赦しのおかげだということです。すなわち、主イエスの十字架の愛の血潮によって赦されてはいるけれども、私たちは依然として罪の中に生きている者、いつも弱く倒れやすい者、十字架の前に誇るべきものは何一つもっていない者が、私たちであるということです。

そのように、イエス・キリストによって罪赦された者たちが、主イエスの愛に感動し、主の御前に導かれ、礼拝するために集ったのが「教会」であるのです。だから、教会は、「赦された罪人たちの集い」であると言えるのです。すなわち、礼拝に集う私も、あなたも、あの人、この人、すべての人が主イエスに愛され、赦された者、しかし、まだまだ弱さをもっている存在であるということを、互いが認め合い分かち合うことです。ここにキリスト教会の命があり、聖徒の交わりの恵みの神秘があるわけです。

ユダヤ人たちが好んで使っている物語の中に、二つの頭をもつ子どもの話があります。あるお母さんが子どもを産んだのですが、その子どもは、体が一つで、頭が二つの姿で生まれたのでした。周りでは、この子を一人の子供に見るべきなのか、二人に見るべきなのかについて激しい議論が起こりました。その時、一人の賢いラビが次のような答えを出したのです。「お湯を片側の子どもの頭に注いだ時、他の頭の子どもが同時に泣くのであれば一人であって、もし泣かなければ、二人であると見るべきである」と。…この物語は、世界中に散らばっているユダヤ人たちは、どこにいても一つであることを確認するための喩えでした。たとえ散らばっていても、ある一人のユダヤ人が苦しんでいるとしたら、他のところにいるユダヤ人たちも、その痛みを共にしなければならないという、ユダヤ人としての交わりの豊かさを意味しているわけです。

私たちは、主にあって一つであると、神の家族だと、よく話し合っていますが、本当に主にあって一つでしょうか。隣人が喜ぶ時、共に喜び、泣く時に共に泣いているように過ごしているでしょうか。とりわけ終末を生きるキリスト教会における「聖徒の交わり」は、教会という枠を超えて、イエス・キリストが命じられた使命として、私たちの周りの疎外されている者、苦しんでいる者、また捕らわれている者、貧しい者、病気の者への交わりを広げることにあるでしょう。 

願わくは、「聖徒の交わり」を信じ期待する者として、主イエスが、「あなたの隣の最も小さい者のひとりにしたのが、わたしにしてくれたのだ」と言われたように、十字架を通して示された生きた交わりを、私たちの隣の最も小さい人々へと広げていく神の家族お一人お一人に変えられますように…。ハレルヤ!

2021.2.14 小さな泉の恵み

 

~解放~

 

イエスよ、わたしを解放してください。

 

愛されたいという思いから、

評価されたいという思いから、

重んじられたいという思いから、

ほめられたいという思いから、

好まれたいという思いから、

相談されたいという思いから、

認められたいという思いから、

有名になりたいという思いから、

 

侮辱されることへの恐れから、

見下されることへの恐れから、

非難される苦しみへの恐れから、

中傷されることへの恐れから、

忘れられることへの恐れから、

誤解されることへの恐れから、

からかわれることへの恐れから、

疑われることへの恐れから。

 

                          ~マザー・テレサの愛した祈り~

2021.2.7 牧師室便り

 ~ボンヘッファー牧師を思う~

 先週、韓国の母教会の後輩の姉妹からあるYoutube映像が届きました。その映像は私が尊敬してやまないドイツのボンヘッファー牧師が1945年ナチ政権によって殉教する前、処刑の約4ケ月前に婚約者のマリア宛に獄中から送られた詩でした。彼が書いた最後の詩として知られる「主の善き力に守られて」という詩にSiegfried Fietzが曲をつけた讃美歌でした。この映像が届けられた朝、その歌を聞きながら心の底から込み上げてくる感動を抑えることができませんでした。
 
 まさに、死を前にし暗闇と絶望に追い込まれながらも、神への揺るぎない信仰のもとで、人知を超えた平安と慰め、希望に満ちるキリスト者の姿を見ることができます。 
 
 実は、ちょうど本日の宣教の主題である「聖徒の交わりを信じます」という内容を準備しながら、ボンヘッファーの「共に生きる生活」という書籍を黙想していた私でしたので、不思議な神の導きというか、神の関わりを感じることができましたね。とりわけ今新型コロナウイルスによって疲れ果てている人々、また未来の見えない世界を生きる私たちに、何を希望とし歩むべきなのかについて勇気と知恵を与えるボンヘッファー牧師の言葉に心を合わせたいものです。シャローム!
 

2021.2.7 本日の宣教

 『 聖徒の交わりを信じます  (ヨハネの手紙一 1:13)

「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。(ヨハネの手紙一 1:3

本日は、先週の「私は聖なる公同の教会を信じます」に続いて、「私は聖徒の交わりを信じます」について分かち合いたいと思います。

「聖徒の交わり」はギリシャ語で「コイノニア・ハギオン」(聖なるコイノニア)と言います。「交わり」とは、ギリシャ語で「コイノニア」といいます。これは「共にあずかる、共に分かち合う」という意味として、新約聖書で19回使われています。

「聖徒」とは、聖別された群れを指します。その聖別されたキリスト者同士の交わりはキリスト者ではない人々との交わりとははっきりと区別されます。「聖徒の交わり」は、単に信じる人同士が集まって人間的な関係を深めることではありません。私たちが生きるこの世界に存在する共同体は、人が作ったもので、社会的イデオロギー、経済的利害、また、政治的思想、血のつながりなどによって絡み合っているわけです。そのため、いつでも葛藤が生じ、分裂し、相手に対する敵意を作ってしまいます。ですから、この世界における共同体は、その土台が非常に弱いのです。しかし、キリスト教会における交わりは、そのような社会的、人間的関係を超え、とても強いつながりを見せてくれます。とりわけ、教会における交わりは、一人一人の横の関係に止まらず、その二人の間を結ぶ神との縦の関係が存在するからです。それを表してくれるのが、イエス・キリストの十字架であると言えましょう。すなわち、この交わりとは、キリスト者すべてに与えられている神の子どもとしての聖さ、そして、イエス・キリストから注がれる恵み、そして聖霊なる神の働きに与ることです。…

それでは、「聖徒の交わり」とすると、その交わりの対象はどのような人でしょうか。                私たちの交わりは「霊的な交わり」であることを覚えましょう。ですから、「聖徒の交わり」は時間と空間に捕らわれないことを覚えましょう。すなわち、使徒信条に示されている「聖徒の交わり」は、先にこの世を去った信仰の先輩たちとの霊的な交わりです(ヘブライ12:1)。

次に、今、この時代を共に生きるキリスト者たち、国と民族、人種、文化、言葉、血のつながりなどを超え、イエス・キリストの十字架の血潮によって清められ、同じ信仰に結ばれている世界各国の聖徒たちとの交わりです。

そして「聖徒の交わり」は、教会という枠を超えて、イエス・キリストが命じられた使命として、私たちの周りの疎外されている者、苦しんでいる者、また捕らわれている者、貧しい者、病気の者への交わりを広げることです。まさにコロナ時代に求められることこそ、聖徒の交わりです。私たちは、主にあって一つであると、神の家族だと、よく話し合っていますが、本当に主にあって一つでしょうか。隣人が喜ぶ時共に喜び、泣く時に共に泣いているように過ごしているでしょうか(ローマ8:3839)

愛する神の家族の皆さん、「私たちは聖徒の交わりを信じます。」もちろん、今私たちが味わっている交わりは、完全なものでもなければ、赦された罪人たちの弱さが明らかにされている物足りないものであることを告白せざるを得ないでしょう。しかし、それにもかかわらず、私たちは主にあって約束され、神の国における「聖徒の交わり」の完成を夢見つつ、今ゆだねられている神の家族との交わりの神秘を深めていくべきです。そうする中で、「聖徒の交わり」の恵みはこの世の様々な壁を打ち破り神の国が拡がることを見ることになるでしょう。ハレルヤ!

 

2021.1.31 牧師室便り

 ~キリエ・エレイソン~

 隣の韓国ではキリスト教関係の宣教団体や教会などが新型コロナウイルスの感染源となっています。昨年1月、異端グループによる一次コロナ流行が始まってから、社会全体がよく頑張ってコロナを抑えたとほっとしていた矢先に、極右的思想をもつ教会が二次流行を起こし、三次流行では極端な伝道方法をもつ宣教団体が大型のクラスターとなって国民の憎しみの的となっています。

 ご存知の通り、韓国はキリスト教国家ともいえるほど、大きな社会的影響力をもっていて、政治、社会、文化…、ありとあらゆるところに既得権益としてのキリスト教会の影響が及んでいます。主イエスの愛の命の福音を伝えるために存在するはずの教会が、信仰の自由、自由民主主義を守るという旗のもと、政治化していき、権力化している状況です。そのため、あえてコロナ防疫を妨げようとする動きさえ見えている悲しい現実を目にしています。

 「地の塩、世の光」となるべき教会が、命を第一にし救いの福音を伝えるべき教会が、また周りから称賛されながら伝道すべき教会が、それらに反することを行うことで、神の栄光どころか、神を呪いの対象としてしまう現実です。キリエ・エレイソン(主よ、憐みたまえ)!

 キリスト教会として私たちは正しく立っているでしょうか。…

2021.1.31 本日の宣教

 『 聖なる公同の教会を信じます 』 エフェソの信徒への手紙1:2223)    

人には誰でも、自分が身を置くための理想的共同体に対する渇きがあります。とりわけクリスチャンの場合、理想的教会に対する飢え渇きがあります。ですから、理想的な教会を見つけるためにいろいろと探し求めます。神の家族の皆さんの中にも、またこの映像をご覧になる方の中にも理想的教会を探して来られた方は多いと思います。しかし、どうでしょうか。頭の中で描いていた理想的教会を見つけ出せたでしょうか。実に、理想的教会を探すということは至難の業ですし、恐らく一生のうち見つけ出すことはできないのではないでしょうか。そこで、本日は、「私は聖なる公同の教会を信じます」という使徒信条の告白を分かち合いたいと思います。この告白は、「私は聖霊を信じます」という告白の中で位置づけられています。それは、教会の誕生が聖霊なる神の御業であって、教会のすべてが聖霊の御手の業として受け止められ信じられるからです。

「エクレシア」というギリシャ語の「教会」という言葉の意味は、建物を指しているわけではありません。多くの人は教会というと、まず建物としての教会を連想してしまいますが、もともとのエクレシアは、「呼び出された者の集まり」という意味です。そこに建物があってもなくても、イエス・キリストを主と信じ、創造者なる神の子どもとして神を礼拝するために呼び集められた人々がいたら、それが教会なのです。そしてその群れを誕生させ、交わりを与え、日々救われた民を与えられ、養い育ててくださるお方が聖霊であって、聖霊なる神の働きによって教会は生き生きと成長していくことができるのです。

まず、使徒信条は、教会を指して「聖なる教会」と告白します。しかしいかがでしょうか。実際、私たちの周りに見える教会、いや全世界に存在している地上の教会に対して「聖なる」という言葉をつけてもいい教会はどれくらいあるでしょうか。むしろ「聖なる教会」とすると、納得のいかないところがたくさんあるでしょう。それにも関わらず、使徒信条は「聖なる教会だ」と、記しています。なぜでしょうか。それは何よりも、教会を聖なる神御自らが立てられたから聖なると言えるのです。また、聖なる神の独り子イエス・キリストの体として存在しているため「聖なる」という言葉がつけられるわけです。聖書の中の「聖なる(ヘブライ語):カドーシュ」は、「聖別する、取り分けられる」という意味をもっています。すなわち、「聖なる教会」とは、聖なる神により「区別され、選ばれ、取り分けられた群れ(共同体)との意味です。それは何か優れた点があったとか、私たち選ばれた側に特別に、区別され選ばれるための根拠があるのではなく、聖なる神ご自身による一方的な恵みであり、神ご自身が御心のままに、罪ある世界から選び取ってくださったということになるのです。

続いて、「公同の教会(カトリック)」とはどういう意味でしょうか。この言葉は、「普遍的、一般的、宇宙的」という意味をもっています。ところで、この「カトリック」という言葉が多くの問題を引き起こします。なぜなら、「カトリック」という言葉がローマカトリック教会の代名詞のように使われているからです。普遍的教会というのは、ある個人の所有物でもなければ、限られた集団の所有物でもないわけです。普遍的な教会(カトリック)とは、「全世界を治めておられる神の教会であり、世界中のキリスト者がイエスを救い主として告白し、神に感謝の賛美と礼拝を献げるために集まる共同体」であるため、教会は「普遍的」教会というわけです。私たちが生きている世界において、聖霊の力の中にある教会は、神を愛し、人を愛するために奉仕する教会です。

願わくは、今新型コロナウイルスにより、暗闇の中に生きる人々に希望の光を照らし、また、罪や争いの中で疲れはてている人々を新たにし、力づけ、神の国を今味わわせる塩のような生きた教会として、聖なる公同の普遍的教会への信仰告白をもって成長していく神の群れでありますように…。ハレルヤ!

2021.1.24 牧師室便り

 

「ともに生きることを学ぶ」

イエスの呼びかけによってすべてが始まる、そんな分岐点が

あります。「来て、わたしに従いなさい」。

あるいは、「今日あなたの家に行きたい」

とイエスはわたしたちに言われます。

その人への、イエスの個人的な呼びかけ、

そして、イエスとの、心と心の出会いによって、

すべてが始まるのです。

次に、二番目の段階として、

イエスが呼ばれた別の人たちに、会うようにと、

イエスはわたしたちを導かれます。

その人たちは皆異なり、皆呼ばれています。

そこで、コミュニティーの創造が行われるのです。・・・

            ~ジャン・バニエ「永遠の命」~

 毎日新しい人との出会いを楽しみにしていた私たちでしたが、コロナ時代になってからは出会いを避けたり積極性を失ったりしているのかもしれません。今こそ、あなたのやさしい声を、あなたの温かいメールを待っている人がいることを覚えましょう。シャローム!

2021.1.24 本日の宣教

 『 私は聖霊を信じます② 』     (使徒2:3839、ローマ8:2627)

私たちが常に心に刻み、揺るぎない信仰告白とすべき真理こそ、まず、「私は創造者なる神、すべてを治め支配される父なる神を信じます」という内容でしょう。私たちの世界が神の御計画の下、また大いなる愛に基づいた御手の業であるという確信が私たちに終末と言われる今日を生きる力と勇気を与えてくれるのです。続いて、「私は神の独り子イエス・キリストが、神と等しい身分を捨て、罪人たちを救うために人間として生まれ、罪人たちのすべての罪を背負い、十字架の上で命をかけて救いを完成され、死から復活され、永遠に生きる道を開いてくださり、やがて裁きの主として再びやって来られることを信じます」という福音のメッセージの上に立って生きることです。この二つの信仰告白が真心から出てこないのであれば、キリスト者の信仰の土台はなっていないものに過ぎず、絶えず、揺れ続け、崩れてしまうことになるでしょう。

 そこに、さらに本日分かち合う「私は聖霊を信じます」という信仰告白が加わることで、完全なる神様への信仰告白が完成するわけであります。

 私たちが、「私は聖霊を信じます」と告白した時、これは「聖霊は創造の霊であり、生命の霊、神の霊、キリストの霊として、すべてを新たにされる聖霊の働きを信じます」という意味になります。聖書が教える聖霊がなさることには、明らかな目標があります。それは、聖霊が向かわれる目標こそ、「神がなさろうとする新しい創造、新しい天と地、神と新しく創造された民との交わり」にあるのです。

 まず、聖霊が神の子どもたち一人ひとりにどのように関わり祝福してくださるのかを見てみましょう。

 その最初に、聖霊は私たち一人ひとりを神の御前に近づかせてくださり、そこで豊かに注がれる神の愛を味わわせてくださいます(エフェソ2:18、ローマ5:5)。また、その人に悔い改めと新生の恵みを与え、イエス・キリストを信じさせてくださいますコリント一 12:3-4)。それに加え、聖霊は私たちを命の道へと導き、いつも共におられる中で、私たちを慰め、助け、希望に満ち溢れさせてくださいます(ヨハネ14:1617)。そこからもう一歩進んで、聖霊は神の子どもたちの内に住んでおられ、一人一人を神の神殿となる光栄ある存在として呼ばれるのです(コリント一 3:16)。結論として、聖霊は私たちの人生の中で豊かで美しい実を結ばせてくださるお方であると聖書は教えています(ガラテヤ5:222325

 続けて、聖霊とキリストの教会との関係から考えてみましょう。

 まず、聖霊はキリストの体なる教会の上に望まれます。今から2000年前のペンテコステに臨まれた聖霊によって誕生したキリスト教会は、その後も聖霊によって常に刺激され、常に新しく造りかえられながら歩んできました(使徒2:3839)。そして、聖霊は「あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているもの」であることを教えます。これは時代と状況や環境を乗り越えて同じく働かれる聖霊による恵みの約束なのです。聖霊は常にイエス・キリストの血潮によって新しく誕生した神の民、またキリストの教会を作って行かれます。弱い人間の偏見、人間の利己心、人間の理解に捕らわれるのでなく、聖霊は風のように、聖霊はご自由に、御心が成し遂げられる方向へと歩まれるのです。願わくは、神の家族お一人お一人が聖霊に捉えられ、日々すべてを新しくされる命と希望の御業を体験しながら歩んでいきますように祝福を祈ります。ハレルヤ!

2021.1.17 牧師室便り

 ~大雪の中で得た恵み~

 先週、私は今回の大雪の間、2回もスタックに遭いました。スタックとは、「雪やぬかるみにタイヤがはまり、その場で空転してしまい、前にも後ろにも進まなくなる現象のこと」だそうです。一回目は、除雪機の部品を買いに行こうとしたところで、教会を出てすぐ十字路でタイヤがスタック状態になりました。その場から抜け出そうと必死でいろいろと試みたのですが、うまく行かず諦めかけたところ、ちょうどその辺で雪かきをしていた町内の方々に助けられ辛うじてその場を逃れることができました。それから3日後、今度は教会の真ん前の道路でスタック状態になりました。しかし不思議なことに今回もどこからか分かりませんが、一人、二人と人が集まり、最後は10人ほどの町内の方々の協力で3時間の死闘からやっと抜け出すことができました。その後、教会の前の道路で何台もスタック状態になりましたが、今度は私の方から近寄り助け合うことができましたね。

 今回の経験を通して、自分が困難に遭ったことにより、それまでなかなか交わることができなかった町内の方々に出会い、互いに助け合うことができたのは何よりの恵みでした。大雪がただ災いではなく、良き交わりの場となってくれたのです。神の家族の皆さんもスタックにくれぐれも注意しつつ、神の助けと新たな交わりを期待してくださいね。シャローム!

2021.1.17 本日の宣教

 『 コラムデオ(神の御前で) 』   (詩編139:112)

 ラテン語の「コラムデオ(Coram Deo)」という言葉をご存知ですか。コラムデオ、この言葉は「神の御前で」という意味で、常に神の前に立って生きるという信仰を表す言葉です。神の御前で、神の支配と権威の下で、神の栄光を表しながら生きるという信仰姿勢と言えるでしょう。生きておられる神を時間と空間の領域において感じつつ、その方と共に生きるという、キリスト者としての神様との親密な関係を表すことでもあります。マルティン・ルターをはじめ、宗教改革を成し遂げてきた信仰の先輩たちが常に交わしていた言葉でもあります。

 さて、このコラムデオ、神の御前に立つ者としての信仰姿勢が最もよく現れているのが、本日の「詩編139編」であると思います。詩人ダビデに迫ってくる神への信仰告白に耳を傾けましょう。

主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。」(139:13

詩編139編の詩人は、まず、創造者なる神が、私たちの考えや計画、行いをすべて知っておられる方であることを告白します。神の御目はいつも私たち、神の子どもたちに向けられ、すべてを知っておられます。ここで、「座るのも立つのも、歩くのも、伏すのも、前からも後ろからも」とは、詩人が動き働く生活全般を示します。さらに詩人は、「自分の舌がまだ一言も語らぬ先に、すべてを知っておられる」という言葉を通して、詩人の心の思いも、考えもすべて知っておられ、ご覧になっているのだと証しているのです。

ただし、いつも見られている、すべてが裸にされているような生活…とりわけ、私の弱さも、汚れも、ありとあらゆる罪が全部見られ、裁かれてしまうとすれば、私たちの信仰は小さくなり、不安と恐れに捕らわれることになるでしょう。しかし、ここで、詩人が告白しようとする神は、私たちを監視しながら、私たちの弱さ、問題などを責められるお方ではなく、愛する子どもを助けようとする親のようにいつも共にいて、私たちのあるがままを受け入れ、抱きしめてくださるお方、一時も子どもから目を離さない優しい父なる神であることを詩人は歌っているのです。時には、自分自身の弱さのゆえに神から逃れ、隠れようとしますが、天に昇っても、陰府に横たわっても、海のかなたにいても、神は時間と場所に関係なく、いつも存在され、御手をもって捉えてくださるお方であると告白しています。

2021年、新しい一年を始めようとする神の家族ですが、ぜひ、「コラムデオ」という言葉を心に刻みつつ、日々の歩みを始められるように。歴史の中の偉大なる神の人たちは、こぞって身につけていた姿勢が、「コラムデオ」でありました。彼らは常に神の御前で生きる生き方を貫くことを心がけていたのです。

新型コロナウイルスによって、すべてが変わってしまった世界です。まさしく先が見えない暗闇の世界と言っていいでしょう。とりわけ人々との親密な触れ合いを大切にしてきたキリスト教会にとっては、大変厳しい時でもあります。しかし、今の時こそ、コラムデオの信仰に立つべき時です。すべてを知っておられる神、またすべてを治めておられる神の御心が何であるかを尋ねつつ、神の臨在を感じながら、御手に触れていただくコラムデオの恵み豊かな2021年でありますように。ハレルヤ!