2021年2月16日火曜日

2021.1.31 本日の宣教

 『 聖なる公同の教会を信じます 』 エフェソの信徒への手紙1:2223)    

人には誰でも、自分が身を置くための理想的共同体に対する渇きがあります。とりわけクリスチャンの場合、理想的教会に対する飢え渇きがあります。ですから、理想的な教会を見つけるためにいろいろと探し求めます。神の家族の皆さんの中にも、またこの映像をご覧になる方の中にも理想的教会を探して来られた方は多いと思います。しかし、どうでしょうか。頭の中で描いていた理想的教会を見つけ出せたでしょうか。実に、理想的教会を探すということは至難の業ですし、恐らく一生のうち見つけ出すことはできないのではないでしょうか。そこで、本日は、「私は聖なる公同の教会を信じます」という使徒信条の告白を分かち合いたいと思います。この告白は、「私は聖霊を信じます」という告白の中で位置づけられています。それは、教会の誕生が聖霊なる神の御業であって、教会のすべてが聖霊の御手の業として受け止められ信じられるからです。

「エクレシア」というギリシャ語の「教会」という言葉の意味は、建物を指しているわけではありません。多くの人は教会というと、まず建物としての教会を連想してしまいますが、もともとのエクレシアは、「呼び出された者の集まり」という意味です。そこに建物があってもなくても、イエス・キリストを主と信じ、創造者なる神の子どもとして神を礼拝するために呼び集められた人々がいたら、それが教会なのです。そしてその群れを誕生させ、交わりを与え、日々救われた民を与えられ、養い育ててくださるお方が聖霊であって、聖霊なる神の働きによって教会は生き生きと成長していくことができるのです。

まず、使徒信条は、教会を指して「聖なる教会」と告白します。しかしいかがでしょうか。実際、私たちの周りに見える教会、いや全世界に存在している地上の教会に対して「聖なる」という言葉をつけてもいい教会はどれくらいあるでしょうか。むしろ「聖なる教会」とすると、納得のいかないところがたくさんあるでしょう。それにも関わらず、使徒信条は「聖なる教会だ」と、記しています。なぜでしょうか。それは何よりも、教会を聖なる神御自らが立てられたから聖なると言えるのです。また、聖なる神の独り子イエス・キリストの体として存在しているため「聖なる」という言葉がつけられるわけです。聖書の中の「聖なる(ヘブライ語):カドーシュ」は、「聖別する、取り分けられる」という意味をもっています。すなわち、「聖なる教会」とは、聖なる神により「区別され、選ばれ、取り分けられた群れ(共同体)との意味です。それは何か優れた点があったとか、私たち選ばれた側に特別に、区別され選ばれるための根拠があるのではなく、聖なる神ご自身による一方的な恵みであり、神ご自身が御心のままに、罪ある世界から選び取ってくださったということになるのです。

続いて、「公同の教会(カトリック)」とはどういう意味でしょうか。この言葉は、「普遍的、一般的、宇宙的」という意味をもっています。ところで、この「カトリック」という言葉が多くの問題を引き起こします。なぜなら、「カトリック」という言葉がローマカトリック教会の代名詞のように使われているからです。普遍的教会というのは、ある個人の所有物でもなければ、限られた集団の所有物でもないわけです。普遍的な教会(カトリック)とは、「全世界を治めておられる神の教会であり、世界中のキリスト者がイエスを救い主として告白し、神に感謝の賛美と礼拝を献げるために集まる共同体」であるため、教会は「普遍的」教会というわけです。私たちが生きている世界において、聖霊の力の中にある教会は、神を愛し、人を愛するために奉仕する教会です。

願わくは、今新型コロナウイルスにより、暗闇の中に生きる人々に希望の光を照らし、また、罪や争いの中で疲れはてている人々を新たにし、力づけ、神の国を今味わわせる塩のような生きた教会として、聖なる公同の普遍的教会への信仰告白をもって成長していく神の群れでありますように…。ハレルヤ!

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