『 私は聖徒の交わりを信じます② 』 (一ペトロの手紙4:7~11)
私たちクリスチャンを定義する言葉として、「赦された罪人」があると言えましょう。決して赦されることのない罪人であった私たちは、イエス・キリストが身代わりとなって、十字架にかかって死んでくださった贖いのゆえに罪赦され、神の子どもという新しい身分をいただいたのです。しかし、忘れてはならないのは、私たちが罪から解放され、神の子どもとされたのは、ただ一方的な主イエスの愛と赦しのおかげだということです。すなわち、主イエスの十字架の愛の血潮によって赦されてはいるけれども、私たちは依然として罪の中に生きている者、いつも弱く倒れやすい者、十字架の前に誇るべきものは何一つもっていない者が、私たちであるということです。
そのように、イエス・キリストによって罪赦された者たちが、主イエスの愛に感動し、主の御前に導かれ、礼拝するために集ったのが「教会」であるのです。だから、教会は、「赦された罪人たちの集い」であると言えるのです。すなわち、礼拝に集う私も、あなたも、あの人、この人、すべての人が主イエスに愛され、赦された者、しかし、まだまだ弱さをもっている存在であるということを、互いが認め合い分かち合うことです。ここにキリスト教会の命があり、聖徒の交わりの恵みの神秘があるわけです。
ユダヤ人たちが好んで使っている物語の中に、二つの頭をもつ子どもの話があります。あるお母さんが子どもを産んだのですが、その子どもは、体が一つで、頭が二つの姿で生まれたのでした。周りでは、この子を一人の子供に見るべきなのか、二人に見るべきなのかについて激しい議論が起こりました。その時、一人の賢いラビが次のような答えを出したのです。「お湯を片側の子どもの頭に注いだ時、他の頭の子どもが同時に泣くのであれば一人であって、もし泣かなければ、二人であると見るべきである」と。…この物語は、世界中に散らばっているユダヤ人たちは、どこにいても一つであることを確認するための喩えでした。たとえ散らばっていても、ある一人のユダヤ人が苦しんでいるとしたら、他のところにいるユダヤ人たちも、その痛みを共にしなければならないという、ユダヤ人としての交わりの豊かさを意味しているわけです。
私たちは、主にあって一つであると、神の家族だと、よく話し合っていますが、本当に主にあって一つでしょうか。隣人が喜ぶ時、共に喜び、泣く時に共に泣いているように過ごしているでしょうか。とりわけ終末を生きるキリスト教会における「聖徒の交わり」は、教会という枠を超えて、イエス・キリストが命じられた使命として、私たちの周りの疎外されている者、苦しんでいる者、また捕らわれている者、貧しい者、病気の者への交わりを広げることにあるでしょう。
願わくは、「聖徒の交わり」を信じ期待する者として、主イエスが、「あなたの隣の最も小さい者のひとりにしたのが、わたしにしてくれたのだ」と言われたように、十字架を通して示された生きた交わりを、私たちの隣の最も小さい人々へと広げていく神の家族お一人お一人に変えられますように…。ハレルヤ!
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