『 受難節はひとりで退かれる時 』(マタイによる福音書14:12~14、22~25)
私たちは受難節の時を過ごしています。父なる神が私たち罪人たちを救うために独り子をこの世界に贈られ、その独り子が、罪人たちが背負うべきありとあらゆる苦しみを味わわれ、やがては十字架の上で死なれ陰府にまで下られるという驚くべき愛が示された40日間です。その40日間を私たち赦された罪人たち、イエス・キリストの苦難の道を黙想し、共に加わりながら過ごすことは大いなる恵みです。
とりわけ今年の受難節は、新型コロナウイルスという未曾有の試練と共に訪れたため、さらに意味深く迫ってくるのではないでしょうか。いつか自分自身もコロナにかかるかもしれない、そうなったらどうすればいいだろうか、また、コロナによって苦しんでいる感染者の方々、その感染者の家族の苦しみ、感染者の治療にすべてを尽くしている医療従事者の方々のご苦労・・・、しかしいつ終わるか分からない状況の中で、私たちはどのように歩むべきだろうか。
そんな中、示されたリビングライフのイエス・キリストの姿を黙想していると、今私たちに必要とされる御姿に目がとまりました。その姿こそ、「ひとり人里離れた所に退かれ祈られる」ことでした。とりわけ先週のテキストには「祈るためにただひとりになられる主イエス」の姿が際立って示されています。
まず、主イエスは、親戚であり、信仰における同労者でもあったバプテスマのヨハネが暴君ヘロデ王に殺されたことを知らされた時、人里離れた所に退かれます。その時の主イエスの心境はいかがだったでしょうか。恐らく従兄であったヨハネが亡くなったことへの悲しみに覆われたことでしょう。それにヘロデ王への憤りも抑えきれないほどであったと思われます。尊敬し愛していた人が、不義の力によって殺されるということは耐えがたい悲しみですし、抑えきれない苦しみに陥るはずです。
次に、五つのパンと二匹の魚で数万の人を満腹させるという奇跡を成し、人々から崇められ、王にしようとする群衆を後にして「ひとりで山に退かれる」主イエスの姿です。主イエスにとって最も人気と名声が高まっていた時点であったと思われます。主イエスがどこにいようと追いかけてくる群衆。霊的に、また肉的に渇きを覚え求めてくる群衆の姿を深く憐れまれ、必要を満たしてくださる主イエスに群衆は歓声をあげ、待ち焦がれていたメシアとして崇められるその時、普通の人であれば、自分自身を誇ろうと群衆に囲まれながら興奮を極めたはずです。
しかし、主イエスは悲しい時、憤りが爆発しそうな時、誰も成し得ないことを成し遂げ人気と名声が最高潮に達した時、…早速、ひとり人里離れた所に退かれる…。その姿は十字架にかかる直前のゲッセマネの園へと続きます。
そうです。ひとりになることを決心することこそ、受難節を過ごす私たちに求められる姿なのです。神の家族の皆さん、ぜひ受難節リレー祈祷表を用いながら、毎日神の前に単独者として手を合わせることを心がけましょう。とりわけ、今苦しみのただ中にある人々のために神の前に退かれる神の家族でありますように…。ハレルヤ!
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