2024年7月28日日曜日

2024.7.28 牧師室便り

  ~ 朝露のように ~

「朝露」   

        詩:金 敏基

長い夜を明かし 草葉に宿る

真珠より美しい 朝露のように

心に悲しみが みのるとき

朝の丘に立ち 微笑を学ぶ

太陽は墓地の上に 赤く昇り

真昼の暑さは 私の試練か

私は行く、荒れ果てた荒野へ

悲しみ振り捨て私は行く

この曲は、1970~80年代の韓国の民主化運動を支え、長い間韓国の民衆に最も愛された歌であり、今もなお大きな影響を与えている歌です。思えば、一曲の歌が国を変え、また人々の人生を変えるということは素晴らしいことです。先日、この歌を作った金敏基(キム・ミンギ)という人が召天しました。詩人、歌手、偉大な芸術家でした。享年73歳。…彼は、大学生の時から常に韓国社会の労働者、農民、女性、子どもなどの弱者たちに目を向け、生涯を献げました。軍部独裁の時代には彼が作った歌を歌うことが禁止され、時には拷問を受け、何度も警察に捕まりながらも正義と平和のため、子どものために働くことを貫き通した人でした。

私も小学生の時から彼が作った「朝露」という曲に親しんで成長しましたし、大学時代には、彼が作った歌を歌いながら心に感動と刺激を受け、韓国社会の不義に抵抗できたと思います。私にしてみれば、金敏基という人は時代の預言者、世の光、地の塩のような人でした。

願わくは、神の家族の皆さんが朝露のように、闇を照らし、宝石のようにそれぞれの場所で輝く働き人として歩みますように…。シャローム!



2024.7.28 本日の宣教(証し)

 『 24年ぶりの信仰告白 』          

24年前の2000年8月20日に私は、この小泉町キリスト教会で、当時牧師をしておられた本多英一郎先生によってバプテスマを授けられました。その日、兄弟姉妹の前で読ませて頂いた信仰告白を24年後の7月28日の証し礼拝で、再び読ませて頂きます。

なぜ今、24年も前の信仰告白を、皆さんの前で読むのかと言いますと、きっかけは数か月前に閔先生が「皆さんの信仰告白が出てきましたので、今から配りますね。読んでみてください。」と、突然目の前に自分のクリスチャンの原点を渡されたからです。そして、久し振りに読んだ自分の信仰告白で、その当時まだ見えてなかったことに気が付き、そのことを24年後の今日、証ししようと思ったのです。本人も忘れかけていた信仰告白を、2024年7月28日、共に礼拝をお捧げしている兄弟姉妹の皆さんに共有して頂き、イエスさまによっていかに救われたか、いかに多くの方々の祈りによって今の自分があるという事実を、また24年後に気付いたことが何であったかを、たくさんの感謝を込めて、今日この同じ場所で聞いて頂ける幸いを思います。

イエス様を救い主と信じる私たち一人一人に、主が与えて下さった聖霊様によって導き、助けられながらさせて頂く証しが、皆様の心に届きますように祈ります。

➀ 何事にも時があり天の下の出来事にはすべて定められた時がある。

⑪ 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。   (コヘレトの言葉3章1節、3章11節)

㉓ 主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。

㉔ 人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。        (詩編37編23~24節)

                            S.Y.執事


2024.7.28 小さな泉の恵み

 「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 ヨハネ7:38

わたしは小、中学生のころ、土曜半ドンで帰ってきてから昼寝してしまい、そのまま延々と寝続けて(親も起こさない)、やっと起きたらもう日曜の夕方、ということがよくありました。寝る子は育つといいますが、だから背が伸びたんでしょう。

日曜、せっかくの休みだというのに、いつまでも眠っていたくて、まどろみながらボーッとガラス窓の切子の模様を眺めて、何となく虚しいような、ぽかんと心の中に空虚な穴があいているようなそんな感覚に「なんでだろう?」と思ったりしてました。

高校生の頃、なんのために生きているのかわからなくなり、生きる意味を求めて、高校卒業後ひとり暮らしを始めてから教会に行くようになって、日曜は礼拝を守る日になりました。

虚しい思いには囚われなくなったので、心の穴が神さまからの生きた水に満たされるようになったんだろうな、と思います。

                              S.M.姉


2024.7.21 牧師室便り

  ~ 混乱な世の中で平和の福音を ~

先週、最も衝撃的だったニュースは、アメリカの大統領候補であるトランプ氏に対する殺人未遂の報道でした。本当に混乱を極める今のアメリカの大統領選挙ですが、あるニュースではイランがトランプ大統領の暗殺を企てていたと報じられました。また、一部のニュースでは今回の襲撃事件が自作自演であるという話も出ています。そんな中、トランプが再びアメリカの大統領に返り咲くと予想されている現状です。飛び交うニュースの洪水の中、真実は定かになっていません。

ところが、依然としてイスラエルとパレスチナ(ハマス)の戦争の最中、ガザ地区では病院や学校への爆撃が続き多くの犠牲者が出ています。また、ウクライナとロシアの戦争も激しさを増している状況です。日本国内ではコロナウイルスの感染者数が再び増加していると報道されています。本当にどこを見ても良いニュースを見出すのが難しい今の世界です。

こういう時に私たちに求められることは何でしょうか。何より、キリスト者としてしっかりと世界に目を向けて、神の御心が何であるか、何が善で何が悪であるか、そしてどのようにして神の国を広げることができるかを常に心がけることです。聖書が示しているように、私たちキリスト者こそ平和の良い知らせを告げ知らせるべき存在であることを心に刻みつつ、私たちにできることを日々の生活の中で一つ一つ実行していくことが求められています。

今週、私たちは初めての被災地支援活動を始めます。この活動がどのような方向に進み、どのような実を結ぶかはわかりませんが、すべてを神に委ね、できる限りの奉仕をしたいと思います。この支援活動が限られた人々の奉仕にとどまらず、神の家族の積極的な祈りと協力によって進められることを願っています。

働き手が少ない現状です。新しい働き手をくださるように祈りつつ、私たちの周りの人々を誘いましょう。また、しばらく教会から離れて寂しく過ごしている神の家族の帰りを求めましょう。厳しい暑さの中で行われる小泉町教会の歩みが主に喜ばれ祝福されますように。シャローム!



2024.7.21 本日の宣教

 『 知恵と信仰と祈りの関係 』  

              ヤコブの手紙1章5~8節

歴史家ヨセフスによると、主の兄弟ヤコブは紀元62年頃、大祭司のアンナスによって石打ち刑で殉教したとされています。エルサレム教会の指導者であったヤコブは、伝承によると、深い霊性の持ち主で、御言葉に堅く立ち、実践的信仰を強く宣べ伝えていたそうです。また、彼は祈りの人であって、常にひざまずいて祈る習慣を身につけており、彼の膝はラクダの膝のように固かったと伝えられています。神の家族の皆さんの祈りの膝は鍛えられているでしょうか。

前回、試練をこの上ない喜びとし、忍耐を学ぶことによって何一つ欠けたところのない信仰者になることを勧めたヤコブは、試練の中にいる人に対して「知恵と信仰によって祈ること」で試練を乗り越えるようにと教えます。

  キリスト者が様々な試練に打ち勝つためには、神に知恵を求めなければなりません。ここでヤコブが用いている「知恵」とは、知識や情報を指すのではなく、正しい判断力と識別力を意味します。聖書が教える知恵は、私たちが直面する様々な試練の状況において、自分の意見や固執をあきらめ、神の御言葉と御心に従うことが命です。とりわけ試練に遭うときほど、真の知恵を求めなければならないのはそのためです。そこでヤコブは、知恵の欠けている人がいれば、「神に願いなさい。」と勧めます。より正確な訳は、「願い続けなさい!」(現在進行命令形)ということであり、これは単なる勧めではなく、命令であることを忘れてはなりません。

そしてヤコブは、「願い続けるべき理由」として、私たちの神は「だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる方」であるからだと教えます。神は知恵の源であられ、神がもっておられる知恵は無限大です。だから神は、神の知恵を求めるすべての者に惜しみなく与えられることを望まれ、そのような人を喜ばれることを聖書を通して繰り返し教えてくださいます(例: ソロモンの祈り、主イエスの勧め)。

ここでヤコブは知恵を求める上での重要な原則について教えます。まず知恵とは、神が与えてくださるという「信仰をもって願う」べきであって、「いささかでも疑う」者は神の知恵を得ることはできないと断言します。「疑いと信仰」は人の心の中に同時に根ざすことができません。信じる人の心には疑いはなく、疑う人の心には信仰がありません。そこで、ガリラヤ湖のナザレで育ったヤコブは、疑う者の姿を「風に吹かれて揺れ動く海の波」(6節)に例えながら、「心が定まらず、生活の安定を欠く」と教えます。そのような人は、「主から何もいただけない」と警告します。

この世を生きる間は、試練や苦難を避けることはできません。その試練を乗り越えるために求められるのが、「知恵と信仰をもって祈り続ける」ことです。その人は風に吹かれて揺れ動く海の波ではなく、知恵と信仰の祈りによって聖霊の風に後押しされながら、試練の波を楽しむでしょう。ハレルヤ!



2024.7.14 牧師室便り

 ~ 主が起こされる波に乗って ~

本日はもともと、夏のファミリーキャンプに行く予定でした。ファミリーキャンプを楽しみにしていた方々には申し訳ない話ですが、多くの方が体調不良や諸事情により行けなくなり、やむを得ず中止することになりました。大自然の中で、できるだけ多くの方が共に集い、神の家族が互いに学び、豊かな交わりを築き上げることを望んでのファミリーキャンプでしたので、それが果たされず、残念に思っています。

考えてみると、一年間を通して教会は多くの行事を行います。イースターやクリスマスといった、必ず行うべき行事もあれば、突発的に訪れる行事もあり、連盟や連合関係の行事も続きます。私たちは今まで願っていても諸事情によって行えなかった行事もありました。また、多くの方々が望まなくても少数のために行ってきたこともありました。それらの働きの基準となったのは、「神の御心なのかどうか」というところでしょう。神の教会は、この世における価値観である多数決、能力主義、収益優先、個人主義などによって動かされるのではなく、ただ「神の国と義」を求めつつ、聖霊の導きに従う共同体です。例え、多くの人が望まなくても、共同体にとって益にならないことがあっても御心である確信と同意があれば前に進むわけですし、その反対に皆が望んでも、共同体の益になるようなことでも御心でなければ、勇気をもって諦めることもあるでしょう。

 まさに神の教会は、神が起こされる波に乗って身を任せることを第一とする共同体です。神の波に逆らって進もうとすると海に溺れてしまうだけです。願わくは、小泉町教会の群れが常に神の起こされる恵みの波に乗って身を任せながら、備えられている御業のために励みますように…。さらなる神の祝福を期待しつつ、これからも積極的な奉仕と交わりをお願いします。シャローム!



2024.7.14 本日の宣教

   『 信仰が試されるとき 』          

                                                     ヤコブの手紙1章1~4節

ヤコブの手紙が書かれた当時、初代教会は外部からの迫害や苦しみ、また内部からの葛藤や混乱という試練によって、絶えず危機的状況に追い込まれていました。もちろん、このような試練は初代教会の時に限ったものではありません。すべての歴史における教会や信徒たちにも等しく起きてきたことですし、今もなお変わらず訪れています。大切なことは、迫ってくる試練をどう受け止めるかということを忘れてはならないでしょう。

主イエスの実の弟であったヤコブは「離散している十二部族の人たち」(ディアスポラー)を励ますために本書簡を書きました。彼はまず、「いろいろな試練に出会うときは」(2節)という言葉を用いることで、宛先の当時のディアスポラーのキリスト者たちがいろいろな試練に遭遇していたことを示しています。「試練」(ギリシャ語:ペイラスモス)には二つの意味があります。①外側からやってくる試練 ②内側からやってくる誘惑です。とりわけ本文の御言葉では、外からやってくる試練(テスト)を意味しています。キリスト者は、外部からの様々な試練を受ける時に、御言葉にすがり、信仰によって試練を乗り越えようと努めます。そのような中で、忍耐が養われ、強められていくのです。

だからヤコブは、試練に直面する人々に向けて「この上ない喜びと思いなさい」(2節)と勧めています。これは「試練そのものを喜びなさい」という意味ではありません。「試練の中にあって喜びなさい」、つまり「試練を喜びの土台としなさい」という意味なのです。この教えは、主イエスの御言葉と一致することが分かるでしょう(マタイ5:10~12 山上の説教)。

それでは、なぜキリスト者は、試練に遭う時に喜ばなければならないのでしょうか。その理由は、「信仰が試されることで忍耐が生じる」(3節)からです。「忍耐」という言葉は、ヤコブの手紙で強調されている重要な概念の一つです。試練はキリスト者の信仰を試します。これは、金が炉の中で精錬されて純金になることと同じです。私たちは、試練の中で忍耐を学び、その過程を通して完全な者となるのです。「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」(1:4)…「完全で申し分ない者にする」は、あらゆる部分で充実し完全であるという意味です。これは神に供えられるにふさわしい動物のことや、神に奉仕するに適切な祭司を表す時に用いられる言葉です。その通り、神は、神の子どもを「何一つ欠けたところのない人」とするために、様々な試練(テスト)を用いられます。

ですから、私たちにやってくる試練について、神が神の子どもたちの信仰を何一つ欠けたところのない人にするために許されたテスト、すなわち信仰が試されるときであることを知り、日々イエス・キリストに近づくことを心がけながら過ごすべきです。ハレルヤ!




2024.7.7 牧師室便り

  ~ 時に適った恵みに感謝を! ~

先週の水曜日の午後、電話が鳴りました。NCC(日本キリスト教協議会)のACTジャパンフォーラム(日本キリスト教協議会の人道支援組織)の方からでした。電話の内容は、小泉町教会が計画している能登半島地震被災地支援活動を財政的に支援したいということでした。本当に思いも寄らなかった話でしたので、驚きながら感謝の言葉を伝えました。

実は、私たち小泉町教会という小さな群れにとって、被災地支援という活動をすることは簡単なことではありません。何より財政的な面においては、教会内の活動だけで精一杯な状況で、被災地支援に回すほどの余力はなかったため、いろいろと悩みながら祈る近頃でした。

しかし、先週の交換講壇の時に、先に被災地支援活動を進めていた福井教会の平良民枝夫人に相談したところ、「NCCの方と交わる予定があるので一度話してみましょう」と言われましたが、それほど期待はしていなかったのも事実です。むしろ、「どうしようか、連盟に助けを求めるべきか、韓国の教会に支援を願うべきか…、もし、どこからも支援がなければ、私たちの教会だけでできるだろうか…」と祈りながら、様々な道を探っていたのも事実でした。

しかし、神は時に適って恵みを備えてくださるお方。先月の暗唱聖句を覚えていますか。「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。(コヘレトの言葉11章1節)」……まさに、小泉町教会の今までの小さな泉の村への働きや、弱いところへの僅かなパンを流したことを神は覚えてくださり、素晴らしい恵みをもって報われたのだと信じ主の御業を讃美します。

神の家族の皆さん、だから思い煩うことはやめましょう。恐れることもありません。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。(ルカ12:32)」と約束してくださる神の御言葉を信じ、与えられた神の国の福音伝道の働きにさらに励みましょう。これからも神様の時に適った助けと恵みを待ち望みつつ、私たちにできる最善の働きを続けていきたいと思います。シャローム!



2024.7.7 本日の宣教

  『 あなたがたに思い出させたい 』          

                                                ペトロの手紙二 1章12~15節

本書簡は、使徒ペトロが死を目前にして書いた遺言のような書物であると言えましょう。彼は死が近づいていることを知っていたため、この手紙を受け取る教会の信徒たちに愛と真心を込めて大切に残したい言葉を伝えています。

ペトロが伝えようとしたことこそ、「神の子どもとして召されていること、選ばれていること、そして永遠の神の御国への確信」(10節)でした。ペトロがこの手紙を書いていた当時はローマ帝国による迫害が最も厳しくなっていた時、試練の時でした。

だからこそ、神が私たちを召し選んでくださったという確信は、信仰の旅路で辛く苦しい時にも挫けずに信仰の歩みを続けさせ、あらゆる試練や苦しみを乗り越えるための力となります。しかし、その確信が確かでなければ、苦しみや試練が襲ってきた時に、砂の上に立てた家のように根こそぎ倒され、流されてしまうことになるでしょう。そこで使徒ペトロが宛先の信徒たちに強調して勧めたのが「思い出させたい」という言葉でした。

「従って、わたしはいつも、これらのことをあなたがたに思い出させたいのです。あなたがたは既に知っているし、授かった真理に基づいて生活しているのですが。わたしは、自分がこの体を仮の宿としている間、あなたがたにこれらのことを思い出させて、奮起させるべきだと考えています。(Ⅱペトロ1:12~13)」

主イエスは公生涯を通して繰り返し弟子たちに教え、とりわけ愛弟子であったペトロに神の国の福音を示されました。主イエスが昇天された後、ペトロと弟子たちは、聖霊の助けをいただいて主の教えの御言葉を思い出しながら、キリストの十字架と復活の証人としての生涯を歩み続けることができたのです。

そして、いよいよ彼も天に召される日が近づいていることを知ってからは、自分自身が主イエスから教えられていた福音の御言葉を大切に信徒たちに思い出させ、彼らを奮起させる必要があることを感じていたわけです。

私たちもいつかはこの世を去ります。その時まで私たちが心を尽くして教会の霊的家族や肉の家族、また友人たちに残すべきことについて、悔いのないようにしたいものです。とりわけ常に思い出させるべきことこそ、主イエス・キリストによる福音、聖書の預言の御言葉への揺るがない信仰ではないでしょうか。

願わくは、神の家族の残された生涯が、日々霊の糧となる御言葉を大切に黙想する中で、大切な人々にいつまでも思い出させる最高のプレゼントを証しとして残すことができますように…。シャローム!




2024.6.30 本日の宣教

  『光の子らしく歩きなさい 』  

                     エフェソの信徒への手紙 5章8節

パウロは第3回の伝道旅行を終えて、エルサレム教会を支援する献金を携えて、ミレトスの港からエルサレムに向かって旅立つ時、エフェソの長老たちを呼び寄せて別れの時を持ちます。使徒言行録の20章にその時の様子が書かれています。使徒言行録20章36節からこのように記されています。

「このように話してから、パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した。特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しんだ。人々はパウロを船まで見送りに行った。」

この箇所から、エフェソの教会とパウロの関係がどれほど深かったかがわかります。パウロにとってエフェソの教会は最高の教会であったと言えると思います。このパウロがエフェソの教会に書いた手紙が、今日の説教のために与えられたエフェソの信徒への手紙です。

新生讃美歌の中に、「輝いて生きる」という讃美歌があります。
「輝いて生きる すばらしい いのち 与えられた。輝いて生きる 生かされているこの喜び」という歌詞です。(新生320)
神様が私にいのちを与えて下さり、生かしてくださっていること。神様のほうからわたしに関わり、離れないよといつも私を探して呼び戻しつづけていてくださること。このことを知り、神様に生かされていることを喜ぶこと。
これが「光の子らしく歩く」ことなのではないか。今回の聖書の箇所を読んで、わたしに与えられたメッセージです。
                
                          金沢キリスト教会
                             信徒執事 田口歩美   

2024.6.30 小さな泉の恵み

 ~病との共生~

私は二十代の頃から、精神科にかかっています。途中、症状の改善が、見られた時期もあったのですが、2年前から症状が悪化して、実際に一日の半分以上をベッドで横になって過ごしています。正直とても辛くて、耐えるしかない日々を送っています。 

こんなとき、聖書を読むこともできなかったのですが、詩編などを開いて、慰めを受けています。イエス様の存在がぼんやり見えてきたようにも思うし、自分自身の変化にも気付かされます。いつか、本当に身も心も回復して全てを恵みのうちに受け取れるようになりたいです。

そんななか、O教会のS姉との交流が私に恵みを与えてくれています。S姉、Y姉、K姉とのグループラインでの聖書の学び合いは日々喜びに満ちたものとなっているし、S姉と彼女の富山時代に毎朝小泉町教会で学びあったことも、良い思い出というだけではなくて、聖書の読み方の学びだったと感謝しています。

未だ、求道者として、教会に通っているに過ぎない私ですが、小泉町教会の皆さんにはとても感謝しているし、讃美歌を歌うと信仰を求める気持ちも湧いてきます。これからも、教会に関わっていきたいし、ご迷惑をおかけしているかもしれませんが、小泉町教会でキリスト教を学んでいきたいです。心から、求める気持は、永遠のもの。

                              S.N.姉