『 知恵と信仰と祈りの関係 』
ヤコブの手紙1章5~8節
歴史家ヨセフスによると、主の兄弟ヤコブは紀元62年頃、大祭司のアンナスによって石打ち刑で殉教したとされています。エルサレム教会の指導者であったヤコブは、伝承によると、深い霊性の持ち主で、御言葉に堅く立ち、実践的信仰を強く宣べ伝えていたそうです。また、彼は祈りの人であって、常にひざまずいて祈る習慣を身につけており、彼の膝はラクダの膝のように固かったと伝えられています。神の家族の皆さんの祈りの膝は鍛えられているでしょうか。
前回、試練をこの上ない喜びとし、忍耐を学ぶことによって何一つ欠けたところのない信仰者になることを勧めたヤコブは、試練の中にいる人に対して「知恵と信仰によって祈ること」で試練を乗り越えるようにと教えます。
キリスト者が様々な試練に打ち勝つためには、神に知恵を求めなければなりません。ここでヤコブが用いている「知恵」とは、知識や情報を指すのではなく、正しい判断力と識別力を意味します。聖書が教える知恵は、私たちが直面する様々な試練の状況において、自分の意見や固執をあきらめ、神の御言葉と御心に従うことが命です。とりわけ試練に遭うときほど、真の知恵を求めなければならないのはそのためです。そこでヤコブは、知恵の欠けている人がいれば、「神に願いなさい。」と勧めます。より正確な訳は、「願い続けなさい!」(現在進行命令形)ということであり、これは単なる勧めではなく、命令であることを忘れてはなりません。
そしてヤコブは、「願い続けるべき理由」として、私たちの神は「だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる方」であるからだと教えます。神は知恵の源であられ、神がもっておられる知恵は無限大です。だから神は、神の知恵を求めるすべての者に惜しみなく与えられることを望まれ、そのような人を喜ばれることを聖書を通して繰り返し教えてくださいます(例: ソロモンの祈り、主イエスの勧め)。
ここでヤコブは知恵を求める上での重要な原則について教えます。まず知恵とは、神が与えてくださるという「信仰をもって願う」べきであって、「いささかでも疑う」者は神の知恵を得ることはできないと断言します。「疑いと信仰」は人の心の中に同時に根ざすことができません。信じる人の心には疑いはなく、疑う人の心には信仰がありません。そこで、ガリラヤ湖のナザレで育ったヤコブは、疑う者の姿を「風に吹かれて揺れ動く海の波」(6節)に例えながら、「心が定まらず、生活の安定を欠く」と教えます。そのような人は、「主から何もいただけない」と警告します。
この世を生きる間は、試練や苦難を避けることはできません。その試練を乗り越えるために求められるのが、「知恵と信仰をもって祈り続ける」ことです。その人は風に吹かれて揺れ動く海の波ではなく、知恵と信仰の祈りによって聖霊の風に後押しされながら、試練の波を楽しむでしょう。ハレルヤ!
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