『 信仰が試されるとき 』
ヤコブの手紙1章1~4節
ヤコブの手紙が書かれた当時、初代教会は外部からの迫害や苦しみ、また内部からの葛藤や混乱という試練によって、絶えず危機的状況に追い込まれていました。もちろん、このような試練は初代教会の時に限ったものではありません。すべての歴史における教会や信徒たちにも等しく起きてきたことですし、今もなお変わらず訪れています。大切なことは、迫ってくる試練をどう受け止めるかということを忘れてはならないでしょう。
主イエスの実の弟であったヤコブは「離散している十二部族の人たち」(ディアスポラー)を励ますために本書簡を書きました。彼はまず、「いろいろな試練に出会うときは」(2節)という言葉を用いることで、宛先の当時のディアスポラーのキリスト者たちがいろいろな試練に遭遇していたことを示しています。「試練」(ギリシャ語:ペイラスモス)には二つの意味があります。①外側からやってくる試練 ②内側からやってくる誘惑です。とりわけ本文の御言葉では、外からやってくる試練(テスト)を意味しています。キリスト者は、外部からの様々な試練を受ける時に、御言葉にすがり、信仰によって試練を乗り越えようと努めます。そのような中で、忍耐が養われ、強められていくのです。
だからヤコブは、試練に直面する人々に向けて「この上ない喜びと思いなさい」(2節)と勧めています。これは「試練そのものを喜びなさい」という意味ではありません。「試練の中にあって喜びなさい」、つまり「試練を喜びの土台としなさい」という意味なのです。この教えは、主イエスの御言葉と一致することが分かるでしょう(マタイ5:10~12 山上の説教)。
それでは、なぜキリスト者は、試練に遭う時に喜ばなければならないのでしょうか。その理由は、「信仰が試されることで忍耐が生じる」(3節)からです。「忍耐」という言葉は、ヤコブの手紙で強調されている重要な概念の一つです。試練はキリスト者の信仰を試します。これは、金が炉の中で精錬されて純金になることと同じです。私たちは、試練の中で忍耐を学び、その過程を通して完全な者となるのです。「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」(1:4)…「完全で申し分ない者にする」は、あらゆる部分で充実し完全であるという意味です。これは神に供えられるにふさわしい動物のことや、神に奉仕するに適切な祭司を表す時に用いられる言葉です。その通り、神は、神の子どもを「何一つ欠けたところのない人」とするために、様々な試練(テスト)を用いられます。
ですから、私たちにやってくる試練について、神が神の子どもたちの信仰を何一つ欠けたところのない人にするために許されたテスト、すなわち信仰が試されるときであることを知り、日々イエス・キリストに近づくことを心がけながら過ごすべきです。ハレルヤ!
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