2021年12月21日火曜日

2021.12.19 牧師室便り

 ~ あなたのスターは誰ですか ~

今年の流行語大賞に「リアル二刀流/ショータイム」が選ばれました。この言葉は、メージャーリーグで活躍している大谷翔平選手の姿から作られたものです。打者か投手のうち、どっちかだけを選んで鍛えて行く中で一流を目指すのが一般的なプロ野球選手の姿でしたが、大谷翔平さんが打者と投手両方を、しかも世界最高レベルのメージャーリーグで成し遂げたということは日本のみならず、世界においても特別なことでした。しかも両方ともに一流の成績を残し、その活躍が認められ、アメリカン・リーグの年間MVPも受賞することになったのです。驚きです。まさしくコロナ時代に暗いニュースで覆われ落ち込んだ日本の人々にとって一筋の光でしたね。

暗闇がますます深まっているアドベントの日々です。主イエスが光としてお生まれになるクリスマスを待ち望みつつ、 今、神の家族の歩みを照らす光は確かでしょうか。「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」(詩編119:105)コロナという闇に覆われて神の家族の道を照らす光を失ってはいませんか。皆さんを取り囲む様々な闇の力に何もできず、自分の内側にとどまり、光り輝く恵みの世界に足を運ぶ勇気を失ってはいませんか。スターとしての大谷選手の放つ光は一瞬のものであり、いつその放つ光を失うか分かりません。

聖書は永遠に変わらず輝き続ける光こそ、イエス・キリストであると教えます。そして、その光に照らされる者も、再び光輝く者となるようにと勧めます。イスラエルの歴史上、最も厳しい闇に包まれていた預言者ダニエルは、その暗闇に呑み込まれることはありませんでした。彼は闇が深ければ深いほど、真の光なる神の方に方向を固定します。その光に照らされて、自らがスターとしての役割を果たします。今こそ、暗闇の人々を照らすスターが求められます。あなたが主イエスの光に照らされ、暗闇に住む人々のスターになりませんか。シャローム!


2021.12.19 本日の宣教

『 闇の中に光が輝く 』 (イザヤ8:23~9:6)

世界が暗闇に包まれています。気になるのは、その暗闇が日に日に増しているということでしょう。コロナパンデミックが終息どころか次々と変異株が出現し、世界をパニック状態に陥れたこの二年間でした。最近は、コロナだけではありません。いつ大地震が起きても不思議でないような状況が日本各地に続いていますし、世界規模で地震、火山噴火、地球温暖化による異常気象が頻繁に起きています。少しずつ良くなってきているようであればいいのですが、日に日に悪くなるばかり…。このまま終末を迎えるような気がする近頃です。

本日のイザヤが描くユダの民は暗闇と死の陰に覆われた地で生きていました。イスラエルの北部にあるガリラヤは、アッシリアとバビロンのような北方民族に侵攻されたときに、一番先に踏みにじられた地域でした。それでガリラヤはユダの人々からさえ蔑視と差別を受けていた地域でした。まさに、ガリラヤは暗闇の地だったのです。

しかし預言者イザヤは、その暗闇の場所からメシヤの働きが始まり、暗闇の地に光が照らされることを宣言します。政治と宗教の中心地であったエルサレムではなく、異邦人の地ガリラヤでメシヤが働かれるということは、当時の人々にとって非常に衝撃的な内容でした。実際、主イエスはガリラヤ地域を中心に働かれ、ガリラヤの疎外されていた民を訪ねられ、彼らを癒し、彼らの友となられました。主イエスは、マタイ4:14~16でイザヤを引用し、預言が成就したことを告げられました。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ9:1)…今も主イエスは罪と死の陰に覆われている暗闇の世界に来られ、命の光を照らしてくださいます。罪の中にいる人々の希望こそ、メシヤなる主イエスの光を受けることで、その光を受けた者は一人の例外もなく救いに加えられるのです。

イザヤが預言したメシヤは、みどりごとして生まれると紹介されています。しかし、みどりごとしては想像できないような特別な存在であることが記されています。「彼の肩には権威があり、驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」として来られるという。最も弱く小さなみどりごが成し遂げられる驚くべき御業です。さらにイザヤは、神がこの世に人として来られることを「万軍の主の熱意」によるものだと告げます。ここで「熱意」をより正確に訳すると、「嫉妬、ねたみ」になります。罪と死に満ちた暗闇の世界に光を照らし、メシヤをみどりごとして遣わされた理由こそ、神のねたみのゆえだったのです。すなわち、私たち人類を愛するゆえ、ご自身の民が暗闇を愛し、暗闇にご自身の民らを奪われることを許されません。私たちの神は、神の民に向かってねたまれるお方であることを覚えましょう。

本日、M兄のバプテスマ式が執り行われます。M兄の人生は生まれた時から暗闇でした。そのため暗闇を照らす光をずっと待っていたことでしょう。主イエスはM兄の願いに答え、光の子の恵みを与えられたのです。ハレルヤ!


2021.12.19 小さな泉の恵み

 

 12日の礼拝後、愛する村上隆兄が所属する富山ハンドベルの会「ブルー・リンガー」のサロンコンサートに行きました。「きよしこの夜」や「星に願いを」などアンコールを含め全九曲が披露されました。素晴らしい演奏で、透き通るような音色に大いに癒され満たされました。16人(17名?)のメンバーが息を合わせる為に、大変な練習を積まれたことでしょう。
 
「一度しか産まれたことのない人は二度死に、二度産まれた人は一度死ぬ」村上隆兄の2度目の誕生日バプテスマを共に喜び祝福します。医師から二十歳まで生きられないだろうと言われた隆兄を主は五十歳を超える今日まで育み護られ、更に永遠の命へと導きいれられました。主に感謝を捧げ褒め称えます。クリスチャン生活は決して平穏な道ばかりでは有りません。かえって主の道は棘の道、涙を流す日もあるでしょう。しかし如何なる時も主は共におられ導き支えて下さるので主を信頼し歩んでいきましょう。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイによる福音書28:20)」村上隆兄と御家族、周りの全ての皆様に豊かな祝福がありますように。
                           S.Y.兄

2021.12.12 牧師室便り

 ~民全体に与えられる大きな喜び~

最近、なかなか天候が落ち着かなく荒れた日が続いてきたため、クリスマスの装飾の諸作業を、一人で行うことが多くなってきました。コロナが来る前までは、大人と子どもがワイワイと騒ぎながら、ツリーを綺麗に飾ったり、礼拝堂を綺麗に掃除したり、礼拝堂の外のイルミネーション作業を行ったりしていました。しかし、コロナに覆われるようになってからは、教会に遅くまで残ることも、みんなで触れ合いながら楽しく奉仕することも難しくなってしまったため、異様に静かなクリスマスの季節を過ごしている私たちです。さらに、クリスマス諸集会に誘うことも、ままならない状況ですし、周りの人々に、「クリスマスは教会で!」という言葉をかけることも、あきらめてしまっている私たちかもしれません。

それでは、いつまでこのような無気力な信仰生活をすればよいのでしょうか。コロナが終わる時まででいいでしょうか。 コロナが終わらなければ、伝道することから手を放してもよいのでしょうか。もしかしたらコロナということを言い訳にして、私たちの姿勢を正当化しようとする試みに、呑み込まれているのかもしれません。…しかし、聖書ははっきりと命じています。「折が良くても悪くても伝道に励みなさい」ということを!…折が悪い時に、コロナは例外だ!という人がいるかもしれません。しかし、闇が深ければ深いほど、小さな灯の存在が大切にされるはずです。今だからこそ、「民全体に与えられる大きな喜び」が示されたクリスマスの恵みを、宣べ伝えるべきなのです。神の家族の皆さん、ぜひ周りの方々に「神の独り子がお生まれになりましたよ!あなたを救うための神からの最高のプレゼントを受け取ってください!」と声をかけませんか。シャローム!


2021.12.12 本日の宣教

 『 愛が冷えている世界で 』  (Ⅰヨハネの手紙4:7~12)

「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(Ⅰヨハネ4:12)

“愛の使徒”という呼び名をもっていたヨハネは、その呼び名通り、本日の御言葉の中だけで「愛する者」、「愛する」、「愛は」など、愛と関わる言葉を15回も用いて手紙を書いています。とりわけヨハネは、愛の根源が神にあることを伝えます。そして神の愛については、その創造された人々が知っているはずだと断言します。

なるほど、聖書は、人間について神の似姿に造られ、神の目には値高く尊いと記しています。しかし、神の愛に満たされながらも神に反逆の罪を犯してしまい滅びの道を辿るしかなかった人類を救うために、神は御自分の独り子を反逆の世界へ遣わされ贖われるという愛の極めを示されました。

そしてヨハネは、神の愛をいただいた者は、神を愛する者であり、神を愛する者は神を知っていると断言します。そしてもう一歩進んで、神の愛を知っている者であると言いながら、隣人を愛さない者は神を知らない者だと厳しく迫っていきます。その理由は、「神は愛」だからです。愛である神を知っていると言いながら互いに愛し合わなければ、それは矛盾であり、実は神を知らない者に他ならないことになります。私たちの信仰と愛は切り離せないもので、信仰は愛によって証明され、愛によって完成されることを忘れてはなりません。

ヨハネが語る愛とは、口の言葉や概念ではありません。真の愛とは、目に見えることであり、実践することで定義されるものであることが分かります。ヨハネは、罪人たちのために独り子をお与えになったことから、「ここに、愛があります」(10節)と宣言します。まさしく、人間の罪は、神の御子を十字架につけて殺すほど大きかったのですが、そのために独り子を犠牲にする神の愛は、その罪を覆い清めるほど大きかったのです。その愛によって、私たちの罪が赦され、神の国と永遠の命をいただいたのです。すなわち私たちが先に神を愛したのではなく、愛なる神が先に私たちを愛されたと認めることで、独り子イエス・キリストの十字架の愛の意味が分かるようになります。

それでは、その愛を知った者たちはどう生きるべきでしょうか。ヨハネは神の愛について知っている者たちを「愛する者たち」と呼びかけます。そして、神の大いなる愛を受けたキリスト者たちに向けて、「互いに愛し合いましょう」と勧めます。その理由こそ、私たちが父なる神の独り子をいけにえとして与えるほどの犠牲的な愛を受けたからです。神の大きな愛を受けたならば、神を愛することと人を愛することを避けることはできないからです。続けてヨハネは、私たちが互いに愛し合うことによって起こる驚くべき奇跡を約束するわけですが、それは、誰も見たことのなかった神の姿が、愛し合う群れの中から現され、神の愛が愛し合う人々の内で全うされるという約束です。

神の家族の皆さん、皆さんは日々、神の姿を見出していますか。見えない神を見出すための道は見える兄弟を愛することにあります。それは神の愛を受けたキリスト者の使命であり、約束への応答です。「愛が冷えている世界」を生きる私たちですが、主イエスの御言葉に従い、「あなたがたが互いに愛し合うならば、あなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」という約束が成就するでしょう。ハレルヤ!   


2021.12.12 小さな泉の恵み

 ~クリスマスに向けて~

求道中である私の、家でのクリスマスは、イエス.キリストの誕生を祝う日ではありますが、家族のささやかな絆を確かめる日ともなっています。

私は、教会に通うようになって誰かのために祈ることが、とても素晴らしいなと思うようになりました。

今は、クリスマス礼拝や24日のイブ礼拝にはなかなか参加できませんが、今年も自宅で、小さな、でもとても大切な共同体である家族の為に祈り、自宅から教会に関わる全ての人のために祈りたいと思います。

今年自分が犯した過ちを、一つ一つ悔い改め、クリスマスに備えたいです。

                       S.N.姉


2021年12月11日土曜日

2021.12.5 牧師室便り

 ~世界祈祷週間を迎えて~

今年もアドベントと共に、日本バプテスト女性連合による世界祈祷週間を迎えました。とりわけ、コロナ下における厳しい状況の中、世界各地で伝道に励んでいる働き人を覚える時にしたいと思います。生涯を中国での福音伝道に励んだロティ・ムーン先生のことを思い起こしつつ、福音伝道の大切さを確かめる神の家族でありますように…。

インドネシアの野口日宇満宣教師・野口佳奈宣教師夫妻、カンボジアの嶋田和幸宣教師・嶋田薫宣教師夫妻、シンガポールの伊藤世里江師、ルワンダの佐々木和之師、プリ・キンダーガルテンスクールなど、世界に遣わされて各地の人々に仕えている皆さんのために執り成しつつ、喜んで大切な献金を献げましょう。

オミクロンというコロナの変異株が、再び猛威を振るっている状況の世界です。まだまだオミクロン株の感染力や危険度が定かになっていません。学者の中では、「感染力は強いけど症状は軽く済む」と言われているけれども、日本を始め、世界各国は厳しい感染防止対策を出している現状です。Withコロナが始まったこともあって、いよいよ終息かと期待していた人々は失望すると思いますが、もう一度気を引き締めながら、今回の流行を見守りたいと思います。

このような中で、もう一度確かめたいことがあります。私たちは、みんなが繋がっている地球村に住んでいるということです。だから、自分の国、自分の共同体だけがワクチン接種を終え、自分の国だけが食べ物で溢れるようになっていて、も解決にならないのです。世界のみんなにワクチンが行き渡り、飢える人を少なくするために働きかけていくことが求められています。そのために、世界のキリスト教会とキリスト者が、その運動の先頭に立つことを新たにしたいものです。

「受けるより与える方が幸いである」と言われたイエス様に従いつつ、アドベントを過ごしましょう。シャローム!


2021.12.5 本日の宣教

 『 やがて来られる王の王 』  (ヨハネ黙示録1:4~8)

 今私たちはアドベントの季節を過ごしています。約束された神の独り子を待ち望む信仰をもって過ごす時です。アドベントという言葉は「近づく」「到来する」という意味です。つまり、旧約聖書に預言されているメシア、救い主が、罪に覆われた地上に住むわたしたちの生活の真ん中に、力強く近づいてくださり、到来してくださることを心から待ち望む時期です。ですからクリスマスの季節とは、「メシアを待っている人間側の期待」と「人との交わりを待っておられる神の熱情」が一つとされた時であると言えましょう。

 前回私たちは、イエス・キリストからの恵みと平和の祝福を祈った後、王の王なるイエス・キリストが私たちを愛し、私たちのために十字架の上でご自分の血によって、すべての罪から解放してくださり、そして私たちを神の子ども、神に仕える祭司としてくださった神の栄光と力をほめたたえるようにと、勧めているヨハネの言葉を学びました。

 そしてヨハネは、黙示録を読む人々に、イエス・キリストが、再び来られる再臨の出来事を期待するようにと勧めます。「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。」(7節)

ここで「見よ」という言葉の意味は、“これから大切なことを語るので、注意を払ってよく聞いて心にとめなさい!”ということです。すなわち、「雲に乗って再び来られる」再臨のイエス・キリストに注意しながら、再臨の信仰をもって生きることが、あなた方に求められることだ!という宣言なのです。…ここで「雲」とは、神の臨在と栄光を現す印であるので、「雲に乗って来られる」とは、再臨の主イエスは、神の栄光と力を帯びて来られるという意味になるのです。

2000年前、初めて人類の中にやって来られた主イエスは、全人類の罪を贖う小羊として、弱く小さな赤ちゃんの姿で来られましたが、再び来られる再臨の主イエスは、神の栄光と権威と力を帯びて、すべての人にあがめられる中で、すべてを治める王、またすべての人の裁きの王として来られることが約束されているのです。

このような確信に満ちた力強い再臨の約束を待ち望みながら、王なる主イエスから見える希望の信仰をしっかり握って、今という終末の時を歩んでいくべき私たちです。使徒パウロは、「私たちに復活がなければ私たちほど惨めな人はないでしょう」と言っていましたが、私は主の再臨についても同じことが言えると信じています。「キリストが再臨しないのなら、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」と。

愛する神の家族の皆さん、私たちが礼拝し賛美するイエス・キリストは真の王、「今おられ、かつておられ、やがて来られる、全能なる神」です。その方は、「アルファであり、オメガであるお方、初めであり、終わりである方」であるのです。すなわち、イエス・キリストこそ、存在するすべての始めであり終わりであるという意味なのです。この主イエスの再臨への確かな信仰をもち、常に迫って来る試練と苦しみを前にしても、決して揺ぐことのない信仰を全うする神の家族でありますように…。「アーメン、マラナ・タ、主イエスよ、来てください。」    


2021.12.5 小さな泉の恵み

 ~仲間を赦さない家来のその後~

マタイ18:23-34で語られた「仲間を赦さなかった家来」は、そのあと「一万タラントなんてとても返せない。おれは一生ここにいるのだろうか」と絶望の思いで自分の入れられた獄内を見回しました。すると、自分に百デナリの借金をしていた仲間の家来が一緒にいるではありませんか。「すまんな。おれが借金を返さなかったばっかりに、おまえを巻き込んでしまったようだ」

「おまえ、王様に牢から出してもらえなかったのか?」「まだおまえに借金を返していないからな。王様は、貸し手にも額にも関係なく、借金を返さない者には誰にでも同じように厳しいんだよ」

仲間を赦さなかった家来はハッと気づきました。「そうか!おれも、おまえも、お裁きは王様がなさるのが本当だったんだ。なのに、おれは自分でおまえを裁いてしまっていた、赦してくれ」

すると仲間の家来は「俺も悪かった。日頃から、おまえに首を絞められたときのような必死さで、百デナリを返そうと努力すべきだった。赦してくれ」

二人が手を取り合ったとき、牢の扉が開いて、王様が現れました。「おまえたちが赦し合うのを待っていたのだ。さあ二人とも外に出なさい。おまえたちの罪は、わしの息子が....」


                         作・清水美樹(大井バプテスト教会)


2021年12月1日水曜日

2021.11.28 牧師室便り

 ~ 大切な人に愛を伝えよう ~

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」(ヨハネの手紙一 4:7)

先週の日曜日、私の母が召天しました。今までの神の家族の執り成しを感謝します。常に天国に帰ることを楽しみにしつつも、最後まで癌による激痛に苦しんだ母でした。また、召される一週間前から急激に体調が悪くなっていて、終わりが近づいていることに気づき、召天1日前の土曜日、映像電話で子どもたちと一緒に母との最後の挨拶を交わしました。意識がもうろうとしていたため、私たちの言葉に返事をすることはできませんでしたが、愛する息子からの“ママ、愛しているよ!”という声に母は渾身の力をしぼって目を明け、手を振ってくれました。そして、主の日の午後、愛するイエス様に遭うために天国へ旅立ったのです。

今日からアドベントに入ります。愛する救い主のお誕生を待ち望みつつ、信仰を新たにする季節です。とりわけ二年連続のコロナ下におけるアドベントとなります。社会状況もますます厳しくなっていて、愛が冷えてしまっている悲しい現実を目の当たりにしています。このような時に求められることこそ、私たちの隣の人に“愛しているよ!”と伝えることではないでしょうか。その中でも、皆さんのご両親に、また子どもたちに積極的な愛を告白し、心を表しましょう。忙しさのゆえに“愛している”という言葉を生活の中で忘れてしまってきたのかもしれません。

父なる神は、あなたと私を愛するがために、独り子を贈ってくださいました。クリスマスは神の愛が注がれた日、最高の愛のプレゼントをいただいた日です。“あなたを愛しているよ!”と叫ばれている父なる神の御声が響きわたるクリスマスの季節を過ごしつつ、あなたの大切な人に愛を伝えましょう。遅くならないうちに・・・。シャローム!


2021.11.28 本日の宣教

 

「熱愛の神に導かれて」 (出エジプト3:1−6)              

                     金沢キリスト教会 引退牧師 田口昭典

今日の聖書の箇所は、モーセが80歳の時、すなわち逃亡生活から出エジプトのリーダーへと導かれていく分岐点の出来事である。分岐点、それは新しい出発の時である。そして、私たちは人生において様々な分岐点に立たされる。この時をいかに過ごすかが次の歩みの祝福につながる。今日、私たちはアドヴェントを迎えた。教会の一年はこのキリストの誕生を迎えるアドヴェントから始まる。クリスマス、そして新年。今、私たちは新しい一歩を踏み出す分岐点に立ったということである。この時の祈り、語り合い、ヴィジョンの共有、決断は大いなる飛躍へとつながる偉大な一歩である。その一歩を導くのは神であり、必死で私たちと出会おうとしている。

モーセは今、80歳。ミデアンの祭司の娘と結婚し、二人の男の子に恵まれ、羊飼いを生業とし、安定した幸せの生活の中にいた。すでに逃亡生活は40年を数え、かつて同胞を救いたいという正義感や情熱は枯れてしまっていた。忘れようとしていたかもしれない。

モーセは、いつものように羊を導いて、草と水を羊に与えるために出かけて行きました 真面目な仕事ぶり、いつもの道。しかし、この時、モーセは道を逸れた、そこで神に出会った。こんなところに神はいないと思うところで、モーセは神に出会う。モーセは、昔の、もう40年も前のあの情熱などすっかり忘れていた。しかし、神は忘れない。神は、思い出してほしい。気づいてほしいと願う。どんなにモーセが忘れても、忘れようとしょうとしていても、神は絶対に忘れない。モーセには、真っ赤な柴の灌木が燃えているように見えた。なぜ火は消えないのだ。そのとき、一瞬、彼は天使を見た。そして、こだわった。また後でとは思わなかった。

 神は私たちにも同じように天使を送り、わたしが見ているよ。私はあなたのことを忘れないよ。あなたのそばにいますよ。と教えている。燃える芝は、気づきを促す神の方法である。私たちは、毎日の中で、天使に会っている。天使とは、神が送ったメッセンジャーである。神は、人を通して、メッセンジャーとしての働きを担わせる。その人が語る言葉を通して。何かをしているとき、ハッ、として、忘れていたことを思い出すとき、何かをしなければならないのに、後で、と言ったとき、心のうちに、今しておけ、後回しにするな、という声が聞こえるとき、たしかに神は私の近くに来てくださっているのである。

道を逸れていい。学校へ行けない。これをしなければならない。もう、できない。行き詰まりだ。もう関係を切ろう。

生きるのが辛い。そのように、真面目で、頑張ってきた人に、聖書は語る。私がいつも一緒にいる。私はあなたを待っていたのだと。貴方のそばで神は待つ。これしかないとおもわずに、肩の力を抜いてごらん。頑張らなくていい。

2回、道を逸れてとある。逸れるとは、本来のルートから外れることを示しています。この時、モーセは自分の思いや計画で羊を連れて行こうとしていましたが、いったん、その道から脇にそれたのでした。道を逸れて、そこで神に出会いました。神は、道を逸れてやってくるモーセを見て、声をかけます。神はモーセがご自身のほうにやって来るのを待っていました。神は私たちとの出会いを求めて私たちの行く先々に先回りして待っているということです。こんな荒野の中で神が私を待っているはずがない、という予期せぬ場所で私たちは神に出会うのだと聖書は語っています。

次に、神は「近づいてはならない、足から履物を脱ぎなさい」と言います。その理由はそこが聖なる場所だからと伝えられます。靴が汚れているから靴を脱ぐのではありません。そのところにおける人の心の問題です。神のおられるところが聖なる場所なのだということです。そして、神は神に心が開かれている聖なる関係を求めている。

それゆえ、ありとあらゆる場所が聖なる場所になりうるのです。家庭も職場も地域社会の様々な場所も。

私たちは気付いていません。燃える柴のような不思議な体験をいつもやり過ごしているのかもしれません。心に、神様からの語りかけを聞きつつ、忙しさや様々な思いの中で、語りかけに耳を傾けることなく、そのことを後回しにして、そしてそのチャンスを見逃し忘れてしまうのです。しなければならないこと、しようと思っていること、もうすでに始めてしまった事、その道から逸れることがありません。立ち止まって、考えて、その道から一歩退いて考えることがないのです。そして、神に会うチャンスを失うのです。

履物を脱ぐとは、今していることを中断し、時間をとり、次の歩みを整えることです。行こうとしている道、やろうとしていることの道、この道を私たちは強引に、何の疑いもなしに歩み続けます。あの時やっておけばよかった、とあとで後悔することがたくさんあります。道を逸れることは決して悪いことではありません。否、むしろ神との出会いのためには必要なのです。1日、1日を急がず、ゆっくりと御言葉を味わいながら歩みましょう。

私たちの熱心も、情熱もやがて消える。しかし、聖書はそのような私たちに情熱を失わない熱愛の神がおられることを語る。この神の語り掛けを聞く時、私たちの信仰の残り火が再び燃え上がるのだ。