2021年12月1日水曜日

2021.11.28 本日の宣教

 

「熱愛の神に導かれて」 (出エジプト3:1−6)              

                     金沢キリスト教会 引退牧師 田口昭典

今日の聖書の箇所は、モーセが80歳の時、すなわち逃亡生活から出エジプトのリーダーへと導かれていく分岐点の出来事である。分岐点、それは新しい出発の時である。そして、私たちは人生において様々な分岐点に立たされる。この時をいかに過ごすかが次の歩みの祝福につながる。今日、私たちはアドヴェントを迎えた。教会の一年はこのキリストの誕生を迎えるアドヴェントから始まる。クリスマス、そして新年。今、私たちは新しい一歩を踏み出す分岐点に立ったということである。この時の祈り、語り合い、ヴィジョンの共有、決断は大いなる飛躍へとつながる偉大な一歩である。その一歩を導くのは神であり、必死で私たちと出会おうとしている。

モーセは今、80歳。ミデアンの祭司の娘と結婚し、二人の男の子に恵まれ、羊飼いを生業とし、安定した幸せの生活の中にいた。すでに逃亡生活は40年を数え、かつて同胞を救いたいという正義感や情熱は枯れてしまっていた。忘れようとしていたかもしれない。

モーセは、いつものように羊を導いて、草と水を羊に与えるために出かけて行きました 真面目な仕事ぶり、いつもの道。しかし、この時、モーセは道を逸れた、そこで神に出会った。こんなところに神はいないと思うところで、モーセは神に出会う。モーセは、昔の、もう40年も前のあの情熱などすっかり忘れていた。しかし、神は忘れない。神は、思い出してほしい。気づいてほしいと願う。どんなにモーセが忘れても、忘れようとしょうとしていても、神は絶対に忘れない。モーセには、真っ赤な柴の灌木が燃えているように見えた。なぜ火は消えないのだ。そのとき、一瞬、彼は天使を見た。そして、こだわった。また後でとは思わなかった。

 神は私たちにも同じように天使を送り、わたしが見ているよ。私はあなたのことを忘れないよ。あなたのそばにいますよ。と教えている。燃える芝は、気づきを促す神の方法である。私たちは、毎日の中で、天使に会っている。天使とは、神が送ったメッセンジャーである。神は、人を通して、メッセンジャーとしての働きを担わせる。その人が語る言葉を通して。何かをしているとき、ハッ、として、忘れていたことを思い出すとき、何かをしなければならないのに、後で、と言ったとき、心のうちに、今しておけ、後回しにするな、という声が聞こえるとき、たしかに神は私の近くに来てくださっているのである。

道を逸れていい。学校へ行けない。これをしなければならない。もう、できない。行き詰まりだ。もう関係を切ろう。

生きるのが辛い。そのように、真面目で、頑張ってきた人に、聖書は語る。私がいつも一緒にいる。私はあなたを待っていたのだと。貴方のそばで神は待つ。これしかないとおもわずに、肩の力を抜いてごらん。頑張らなくていい。

2回、道を逸れてとある。逸れるとは、本来のルートから外れることを示しています。この時、モーセは自分の思いや計画で羊を連れて行こうとしていましたが、いったん、その道から脇にそれたのでした。道を逸れて、そこで神に出会いました。神は、道を逸れてやってくるモーセを見て、声をかけます。神はモーセがご自身のほうにやって来るのを待っていました。神は私たちとの出会いを求めて私たちの行く先々に先回りして待っているということです。こんな荒野の中で神が私を待っているはずがない、という予期せぬ場所で私たちは神に出会うのだと聖書は語っています。

次に、神は「近づいてはならない、足から履物を脱ぎなさい」と言います。その理由はそこが聖なる場所だからと伝えられます。靴が汚れているから靴を脱ぐのではありません。そのところにおける人の心の問題です。神のおられるところが聖なる場所なのだということです。そして、神は神に心が開かれている聖なる関係を求めている。

それゆえ、ありとあらゆる場所が聖なる場所になりうるのです。家庭も職場も地域社会の様々な場所も。

私たちは気付いていません。燃える柴のような不思議な体験をいつもやり過ごしているのかもしれません。心に、神様からの語りかけを聞きつつ、忙しさや様々な思いの中で、語りかけに耳を傾けることなく、そのことを後回しにして、そしてそのチャンスを見逃し忘れてしまうのです。しなければならないこと、しようと思っていること、もうすでに始めてしまった事、その道から逸れることがありません。立ち止まって、考えて、その道から一歩退いて考えることがないのです。そして、神に会うチャンスを失うのです。

履物を脱ぐとは、今していることを中断し、時間をとり、次の歩みを整えることです。行こうとしている道、やろうとしていることの道、この道を私たちは強引に、何の疑いもなしに歩み続けます。あの時やっておけばよかった、とあとで後悔することがたくさんあります。道を逸れることは決して悪いことではありません。否、むしろ神との出会いのためには必要なのです。1日、1日を急がず、ゆっくりと御言葉を味わいながら歩みましょう。

私たちの熱心も、情熱もやがて消える。しかし、聖書はそのような私たちに情熱を失わない熱愛の神がおられることを語る。この神の語り掛けを聞く時、私たちの信仰の残り火が再び燃え上がるのだ。


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