2024年9月18日水曜日

2024.8.25

 ~広島 夏の思い出~

20歳の時、夏休みを利用して父が単身赴任をしていた広島を訪れました。父は広島駅まで迎えに来てくれて、そこから広島の繁華街や平和公園など市内観光をしました。その時平和公園の原爆ドームを見たり、川縁を歩いたりした記憶はあるのですが、原爆資料館に行った覚えがないのです。何故行かなかったのかは定かではありませんが、遠い過去の話、内容の凄絶さに見なかったことになっているのかと思ったりもしています。        

それから数年後に、父はその次の赴任地の大阪で、57歳の若さで突然この世を去りました。その数年前の最初で最後の父との二人旅。共に歩いたあの時の広島は、原爆ドームの向こう側に青く澄んだ夏空が広がり、市内を流れるきれいな川や並木の緑も深く、色々な花が咲き、商店街は賑わい、行きかう人々の姿など、平和そのもののような風景でした。  

子供の頃、夏になると父は私たち兄弟姉妹によく戦争の話をしてくれました。冗談好きで優しかった父が伝えてくれた戦争の話と、二人で歩いた平和で美しかった広島が私の大切な夏の思い出です。

世界で初めて原爆を落とされた広島・長崎が原爆兵器の被害の壮絶さと戦争の悲惨さ、平和の大切さを教えてくれる場所として、これからも戦争を知らないたくさんの人々が訪れ、戦争の悲惨さと平和の大切さを知る場所であり続けますように。  

                                S.Y.姉

2024.8.18 牧師室便り

     ~ オリンピックと戦争、平和作り ~

 「平和の祭典」と呼ばれていたパリオリンピックが終わりを告げました。連日の日本選手団からのメダルの朗報を確かめつつ、寝不足になっていたことでしょう。

ところが、世界中の人々がこの平和の祭典に盛り上がっていたその時、ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナ、さらにはイランをはじめとする他の中東の国々へ戦争が広がりつつあり、その激しさも増してきました。

今回の旅の途中、親の墓も訪問しました。親が納められている墓地は、韓国戦争に参加した参戦勇士たちの墓です。1952年、朝鮮戦争の時に父も入隊し、何度も命の危機に迫られていたと聞かされました。父にとって同じ民族に銃を向けなければならない悲しい戦争は、二度と味わいたくない悲劇であったことでしょう。しかし今もなお、北と南の間には戦争が終わっていない「休戦線」があり、いつでも戦争が再開されてもおかしくない状況を生きています。そんな中、10月に入隊する息子のことを考えると、いろいろと複雑な思いに包まれる近頃です。

 先週、パレスチナのあるお父さんが誕生した双子の出生届を出すために外出した際、イスラエルの空爆によって双子を含む家族全員が死亡したという悲しいニュースの映像を見ました。10ヶ月以上続いたイスラエルとハマスの戦争で、これまでに4万人に及ぶパレスチナ人が死亡し、そのうち16,400人は子供であり、その中には115人の新生児が含まれていたそうです。主の憐れみと慰めを祈るばかりです。
人間の罪と欲望がもたらした最も厳しい悲劇こそ戦争です。戦争はどんな理由でも正当化されない罪です。平和を祈るこの季節を過ごしながら、主イエス・キリストの十字架にすがりつつ、十字架による真の平和の福音を作り出していく私たちでありますように…。シャローム!

2024.8.18 本日の宣教 

 『 手で作ったものなどは神ではない 』          

                                                         使徒言行録19章23~40節

現在私が住む山形市中心部は、歴史的に神社・仏閣が非常に多い町です。山形市の資料館において、400年前の山形城下町の地図を見る機会がありましたが、その当時からすでに山形城の周りにある寺院の数の多さに大変驚きました。江戸時代初期の山形城の城下町には71ヵ所もの寺院が存在したということです。改めて、地図を見ながら山形の歴史を実感しておりました。しかし、これはどこの日本の地方においても同じような状況だろうと思います。日本のあちこちにいわゆる神とされるものが多く祭られているわけです。各地で開催されるお祭りも宗教的意味合いがルーツとなっている場合がほとんどです。               

そういう意味では我々人間は、文化の中からでも神を造り出してしまう存在であるといえます。神ではないものを神とすること、これも、人間社会の文化の中で成されるものですし、あろうことか、私が神だという人間までもが誕生してしまうわけです。私たちは、自分で意識することなく、日本という自分が生まれ育った社会とか文化に、決定的な影響を受けています。   それは自分が意識してもいなくとも、すでにそういった文化・風習・伝統といった言葉の中で、当たり前のように育まれて、自然と私たちには、それらのものが染みついているということなのです。

今朝、与えられている聖書のみことばは、日本のように、大変偶像の多かった町、エフェソの町でおきた騒動が書き記されています。エフェソには、当時その規模の大きさ故に、世界七不思議(ピラミッドなどと同じ)の一つに数えられていた、アルテミスの神殿がありました。世界の七不思議の一つに数えられるほど大きな神殿には、全アジア州はもとより、各地からの参拝者が絶えることがなかったそうです。ですから、エフェソの町は、大きな港町であり、アジア州の都であると同時に、このアルテミス神殿の町という側面も持っていたのです。
パウロはこの偶像があふれるエフェソの町でも、十字架と復活のイエス・キリストの福音を、真の神について告げ知らせたのです。私たちは、手で造ったものではない、人間が都合よくつくりあげたものではない、真の神を信じるものたちです。主イエス・キリストの福音は、この国においても、この現代社会においても、力を発揮し、影響を与え、正義と平和を打ち立てていく力となることができる、そう堅く信じて共に歩んでまいりましょう。            

                      日本バプテスト連盟  
                       山形キリスト教会 宮田祐亮牧師


2024.8.18 小さな泉の恵み

 連日、暑い日が。…田んぼの中で作業をしていると、近所の方から差し入れを頂くことが有ります。先日も帰ってから妻に「今日、マサヨシさんのお母さんからお茶の差し入れ貰った。『キリンの生茶』の本物。あんたの嘘っこ生茶じゃなくて!」「嘘っこ生茶って何?(妻)」「この前、あんた『キリン生茶』飲んでた時、一口貰ったら、中身ウチで沸かした麦茶やったやろ!コロナの後遺症で味覚が麻痺したかと思って焦ったわ。」「へへぇ。バレたかぁ。『キリン生茶』のペットボトルに麦茶を入れると高級感が出ていつもの麦茶が美味しく感じるのさ!(妻)」「チョット何言っているのかわからない。生茶は緑茶、麦茶は麦茶。違う物やろ。何で美味しくなるの?麦茶の気持ちも考えてあげてよ。麦茶は麦茶として頑張って美味しくなってくれているのにそんな風に言われたら悲しい気持ちになるでしょう。可哀想なこと言わんといて。」 私たちは何かと他人と比べがちですが、神様は私たちに違う賜物を与えてご自分のご計画に従って導いて下さいます。それぞれの個性と役割が調和をなし、主のお働きとなされますように。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。(ペトロの手紙第一4:10)」

                                S.Y.兄

2024.8.4 牧師室便り

 ~慰めよ、慰めよ~

「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。(イザヤ40章1節)」

 先日行われた「小さな泉のカフェ」は、本当に神の導きと恵みであったとしか言いようのない、祝福されたひとときでした。出発から終わりまでのすべての過程が神の備えであって、神の助けと守りでした。まさしく何から何まで、神の助けと備え、励ましをいただく時であったと信じています。

何より感謝だったのは、8人のわずかな奉仕者たちの働きによって、柳田公民館に集まった皆さん一人ひとりが励まされ、慰められ、また喜びを感じておられたことです。私たちが特別に何か偉いことをしたとは思いません。ただ、私たちは「人を慰めなさい」という神の命令に従っただけでした。

今年度の小泉町教会の主題は「主の憐れみに生きる教会」です。この主題は、今年元日に発生した能登大地震に遭われた方々への神の憐れみを分かち合うようにと命じられる御心への応答でした。しかし、神の命令を実践するにあたって、私たちは小さな群れであって何の力もありませんが、小泉町教会の神の家族は常に困難や苦しみの中にある人々への開かれた心、主イエスの命令に対して素直に従う心を持っていることを感謝しています。今までの「小さな泉の村」をはじめとする諸活動、また試練の中にある諸教会への支援と協力にも積極的に応答してくださったことは牧師にとって大きな喜びでした。

9月から私たちは月一度、被災地に出かけることになります。第一回目の奉仕が恵みで満たされたからといって、すべてがうまくいくという保証はありません。時には失望することもあるでしょうし、思わぬ問題が起きることもあるかもしれません。それでも私たちは主の導きと祝福を信じて出かけたいと願います。神が「ここまでだ」と言われるところまで、最善の奉仕をしていきたいです。神の家族の皆さんもぜひ心を合わせ、祈りと力を合わせ、神の国の素晴らしさを広げていきましょう。真に「神の憐れみに生きる教会」として、主に喜ばれる教会としての歩みが続けられますように・・・・。シャローム!



2024.8.4 本日の宣教

  『 逆説の福音による平和 』     

                  ヤコブの手紙1章9~11節

今までキリスト者にやってくる試練についてどう受け止めるべきか、また試練に向かってキリスト者はどう祈り、どのように試練を通して神の栄光を表すべきかについて学びました。そのような中でヤコブは突然、貧しい兄弟と富んでいる者の話に移ります。おそらくヤコブが手紙を書いていた教会、つまり宛先の共同体に貧富の問題が生じていたことを垣間見ることができます。

ヤコブは手紙の中で、貧しさと富がキリスト者の試練の現場と結びついていることを記します。貧しさと富は私たちの信仰を成熟させたり、または失望させたりする道具として用いられることを覚えます。私たちの日常生活の中で私たちを一喜一憂させるお金の問題について、ヤコブは驚くべきことを伝えます。 

「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。(1:9~10)」

これは主イエスの山上の説教の「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。(マタイ5:3)」の御言葉とつながっていることが分かります。ヤコブは「貧しい兄弟」に「自分が高められることを誇りに思う」ようにと勧めます。これこそ、この世の価値観ではなく、神の国の価値観によって生きるキリスト者に与えられる逆説的な恵みです。この世において経済的に貧しい境遇にある兄弟は、キリストにあって、キリストのゆえに霊的に富んでいて、神の国をいただいた神の子どもとして高められることが約束されていることを宣言します。そのことを誇りに思いつつ、今を生きることを勧めているのです。

これとは対照的に、この世において富んでいる者に対して、「自分が低くされることを誇りに思う」ようにと勧めます。「低くされること」とは、卑しさを意味します。この卑しさは、神の御前でのへりくだった態度を指します。富んでいる者が自分の低くされることを誇りにする理由は、彼の人生が草花のように滅び去って行くからです。この世における富も、権力も、みな過ぎ去って行くものです。しかし、私たちは多くの場合、神に拠り頼むよりも、富に拠り頼んでしまいます。そこでヤコブは富というものは草花のようにはかないものであって滅び去ってしまうと警告します。ですから、富んでいる人は神の国をいただくためにへりくだり、霊的な貧しさを覚え、自分が低くされることに誇りを持つようにと心がけながら生きなければなりません。

8月は平和を覚える時ですが、今現在も世界各地において戦争が広がっていることに心が痛みます。その戦争の大きな原因となっているのが、「富」の問題であることを忘れてはなりません。人類の歴史において、「富」のゆえに戦争が起き、「富」のゆえにテロが続き、争いが絶えないことを目の当たりにしています。あなたは何を誇りとしていますか。草花のような富ですか。永遠なる神の国の栄光ですか。…ハレルヤ!



2024.8.4 小さな泉の恵み

 ~1ミリのしもべ~

小泉教会の門を叩いてから(実際は大声で名乗ることになりました。恥ずかしいかぎりです)、早8か月が経とうとしています。この間、本当にこの教会に来ることが主の御心なのだろうかと疑問に思うことがしばしばでした。主の御心が知りたい、確信が欲しいと思っていました。その答えは夫にありました。会議等で日々忙しくしていた夫が日曜日の午前を空け、一緒に礼拝を守るようになりました。しかも午後の集会にも出席してくれるようになりました。私は、日曜日は疲れて車の運転が不安でしたが、夫が時間を守り運転してくれるお陰で、楽に遅れることなく一緒に礼拝に出席できるようになりました。感謝です。20数年前、月を友にして毎晩夫の救いの為に祈りました。しかし、なかなか共に礼拝を守り続けることができませんでした。今は小泉教会で共に守っています。これが主の御心だと分かりました。

私達は主のために大きな働きができるような器ではありません。また、主が受けられたような激しい苦しみも負えません。しかし、1ミリのことなら、あるいは「2匹の魚」を捧げる事ならできるでしょう。自分達の手に力がある時には拒まず、隠すことなく主に捧げていきたいと思います。愚直に、臆することなく。小さな事でも覚えていて下さる主に喜ばれるように。小泉教会の上に主の祝福がありますように祈ります。      

                           S.H.姉