2021年2月16日火曜日

2021.2.7 本日の宣教

 『 聖徒の交わりを信じます  (ヨハネの手紙一 1:13)

「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。(ヨハネの手紙一 1:3

本日は、先週の「私は聖なる公同の教会を信じます」に続いて、「私は聖徒の交わりを信じます」について分かち合いたいと思います。

「聖徒の交わり」はギリシャ語で「コイノニア・ハギオン」(聖なるコイノニア)と言います。「交わり」とは、ギリシャ語で「コイノニア」といいます。これは「共にあずかる、共に分かち合う」という意味として、新約聖書で19回使われています。

「聖徒」とは、聖別された群れを指します。その聖別されたキリスト者同士の交わりはキリスト者ではない人々との交わりとははっきりと区別されます。「聖徒の交わり」は、単に信じる人同士が集まって人間的な関係を深めることではありません。私たちが生きるこの世界に存在する共同体は、人が作ったもので、社会的イデオロギー、経済的利害、また、政治的思想、血のつながりなどによって絡み合っているわけです。そのため、いつでも葛藤が生じ、分裂し、相手に対する敵意を作ってしまいます。ですから、この世界における共同体は、その土台が非常に弱いのです。しかし、キリスト教会における交わりは、そのような社会的、人間的関係を超え、とても強いつながりを見せてくれます。とりわけ、教会における交わりは、一人一人の横の関係に止まらず、その二人の間を結ぶ神との縦の関係が存在するからです。それを表してくれるのが、イエス・キリストの十字架であると言えましょう。すなわち、この交わりとは、キリスト者すべてに与えられている神の子どもとしての聖さ、そして、イエス・キリストから注がれる恵み、そして聖霊なる神の働きに与ることです。…

それでは、「聖徒の交わり」とすると、その交わりの対象はどのような人でしょうか。                私たちの交わりは「霊的な交わり」であることを覚えましょう。ですから、「聖徒の交わり」は時間と空間に捕らわれないことを覚えましょう。すなわち、使徒信条に示されている「聖徒の交わり」は、先にこの世を去った信仰の先輩たちとの霊的な交わりです(ヘブライ12:1)。

次に、今、この時代を共に生きるキリスト者たち、国と民族、人種、文化、言葉、血のつながりなどを超え、イエス・キリストの十字架の血潮によって清められ、同じ信仰に結ばれている世界各国の聖徒たちとの交わりです。

そして「聖徒の交わり」は、教会という枠を超えて、イエス・キリストが命じられた使命として、私たちの周りの疎外されている者、苦しんでいる者、また捕らわれている者、貧しい者、病気の者への交わりを広げることです。まさにコロナ時代に求められることこそ、聖徒の交わりです。私たちは、主にあって一つであると、神の家族だと、よく話し合っていますが、本当に主にあって一つでしょうか。隣人が喜ぶ時共に喜び、泣く時に共に泣いているように過ごしているでしょうか(ローマ8:3839)

愛する神の家族の皆さん、「私たちは聖徒の交わりを信じます。」もちろん、今私たちが味わっている交わりは、完全なものでもなければ、赦された罪人たちの弱さが明らかにされている物足りないものであることを告白せざるを得ないでしょう。しかし、それにもかかわらず、私たちは主にあって約束され、神の国における「聖徒の交わり」の完成を夢見つつ、今ゆだねられている神の家族との交わりの神秘を深めていくべきです。そうする中で、「聖徒の交わり」の恵みはこの世の様々な壁を打ち破り神の国が拡がることを見ることになるでしょう。ハレルヤ!

 

2021.1.31 牧師室便り

 ~キリエ・エレイソン~

 隣の韓国ではキリスト教関係の宣教団体や教会などが新型コロナウイルスの感染源となっています。昨年1月、異端グループによる一次コロナ流行が始まってから、社会全体がよく頑張ってコロナを抑えたとほっとしていた矢先に、極右的思想をもつ教会が二次流行を起こし、三次流行では極端な伝道方法をもつ宣教団体が大型のクラスターとなって国民の憎しみの的となっています。

 ご存知の通り、韓国はキリスト教国家ともいえるほど、大きな社会的影響力をもっていて、政治、社会、文化…、ありとあらゆるところに既得権益としてのキリスト教会の影響が及んでいます。主イエスの愛の命の福音を伝えるために存在するはずの教会が、信仰の自由、自由民主主義を守るという旗のもと、政治化していき、権力化している状況です。そのため、あえてコロナ防疫を妨げようとする動きさえ見えている悲しい現実を目にしています。

 「地の塩、世の光」となるべき教会が、命を第一にし救いの福音を伝えるべき教会が、また周りから称賛されながら伝道すべき教会が、それらに反することを行うことで、神の栄光どころか、神を呪いの対象としてしまう現実です。キリエ・エレイソン(主よ、憐みたまえ)!

 キリスト教会として私たちは正しく立っているでしょうか。…

2021.1.31 本日の宣教

 『 聖なる公同の教会を信じます 』 エフェソの信徒への手紙1:2223)    

人には誰でも、自分が身を置くための理想的共同体に対する渇きがあります。とりわけクリスチャンの場合、理想的教会に対する飢え渇きがあります。ですから、理想的な教会を見つけるためにいろいろと探し求めます。神の家族の皆さんの中にも、またこの映像をご覧になる方の中にも理想的教会を探して来られた方は多いと思います。しかし、どうでしょうか。頭の中で描いていた理想的教会を見つけ出せたでしょうか。実に、理想的教会を探すということは至難の業ですし、恐らく一生のうち見つけ出すことはできないのではないでしょうか。そこで、本日は、「私は聖なる公同の教会を信じます」という使徒信条の告白を分かち合いたいと思います。この告白は、「私は聖霊を信じます」という告白の中で位置づけられています。それは、教会の誕生が聖霊なる神の御業であって、教会のすべてが聖霊の御手の業として受け止められ信じられるからです。

「エクレシア」というギリシャ語の「教会」という言葉の意味は、建物を指しているわけではありません。多くの人は教会というと、まず建物としての教会を連想してしまいますが、もともとのエクレシアは、「呼び出された者の集まり」という意味です。そこに建物があってもなくても、イエス・キリストを主と信じ、創造者なる神の子どもとして神を礼拝するために呼び集められた人々がいたら、それが教会なのです。そしてその群れを誕生させ、交わりを与え、日々救われた民を与えられ、養い育ててくださるお方が聖霊であって、聖霊なる神の働きによって教会は生き生きと成長していくことができるのです。

まず、使徒信条は、教会を指して「聖なる教会」と告白します。しかしいかがでしょうか。実際、私たちの周りに見える教会、いや全世界に存在している地上の教会に対して「聖なる」という言葉をつけてもいい教会はどれくらいあるでしょうか。むしろ「聖なる教会」とすると、納得のいかないところがたくさんあるでしょう。それにも関わらず、使徒信条は「聖なる教会だ」と、記しています。なぜでしょうか。それは何よりも、教会を聖なる神御自らが立てられたから聖なると言えるのです。また、聖なる神の独り子イエス・キリストの体として存在しているため「聖なる」という言葉がつけられるわけです。聖書の中の「聖なる(ヘブライ語):カドーシュ」は、「聖別する、取り分けられる」という意味をもっています。すなわち、「聖なる教会」とは、聖なる神により「区別され、選ばれ、取り分けられた群れ(共同体)との意味です。それは何か優れた点があったとか、私たち選ばれた側に特別に、区別され選ばれるための根拠があるのではなく、聖なる神ご自身による一方的な恵みであり、神ご自身が御心のままに、罪ある世界から選び取ってくださったということになるのです。

続いて、「公同の教会(カトリック)」とはどういう意味でしょうか。この言葉は、「普遍的、一般的、宇宙的」という意味をもっています。ところで、この「カトリック」という言葉が多くの問題を引き起こします。なぜなら、「カトリック」という言葉がローマカトリック教会の代名詞のように使われているからです。普遍的教会というのは、ある個人の所有物でもなければ、限られた集団の所有物でもないわけです。普遍的な教会(カトリック)とは、「全世界を治めておられる神の教会であり、世界中のキリスト者がイエスを救い主として告白し、神に感謝の賛美と礼拝を献げるために集まる共同体」であるため、教会は「普遍的」教会というわけです。私たちが生きている世界において、聖霊の力の中にある教会は、神を愛し、人を愛するために奉仕する教会です。

願わくは、今新型コロナウイルスにより、暗闇の中に生きる人々に希望の光を照らし、また、罪や争いの中で疲れはてている人々を新たにし、力づけ、神の国を今味わわせる塩のような生きた教会として、聖なる公同の普遍的教会への信仰告白をもって成長していく神の群れでありますように…。ハレルヤ!

2021.1.24 牧師室便り

 

「ともに生きることを学ぶ」

イエスの呼びかけによってすべてが始まる、そんな分岐点が

あります。「来て、わたしに従いなさい」。

あるいは、「今日あなたの家に行きたい」

とイエスはわたしたちに言われます。

その人への、イエスの個人的な呼びかけ、

そして、イエスとの、心と心の出会いによって、

すべてが始まるのです。

次に、二番目の段階として、

イエスが呼ばれた別の人たちに、会うようにと、

イエスはわたしたちを導かれます。

その人たちは皆異なり、皆呼ばれています。

そこで、コミュニティーの創造が行われるのです。・・・

            ~ジャン・バニエ「永遠の命」~

 毎日新しい人との出会いを楽しみにしていた私たちでしたが、コロナ時代になってからは出会いを避けたり積極性を失ったりしているのかもしれません。今こそ、あなたのやさしい声を、あなたの温かいメールを待っている人がいることを覚えましょう。シャローム!

2021.1.24 本日の宣教

 『 私は聖霊を信じます② 』     (使徒2:3839、ローマ8:2627)

私たちが常に心に刻み、揺るぎない信仰告白とすべき真理こそ、まず、「私は創造者なる神、すべてを治め支配される父なる神を信じます」という内容でしょう。私たちの世界が神の御計画の下、また大いなる愛に基づいた御手の業であるという確信が私たちに終末と言われる今日を生きる力と勇気を与えてくれるのです。続いて、「私は神の独り子イエス・キリストが、神と等しい身分を捨て、罪人たちを救うために人間として生まれ、罪人たちのすべての罪を背負い、十字架の上で命をかけて救いを完成され、死から復活され、永遠に生きる道を開いてくださり、やがて裁きの主として再びやって来られることを信じます」という福音のメッセージの上に立って生きることです。この二つの信仰告白が真心から出てこないのであれば、キリスト者の信仰の土台はなっていないものに過ぎず、絶えず、揺れ続け、崩れてしまうことになるでしょう。

 そこに、さらに本日分かち合う「私は聖霊を信じます」という信仰告白が加わることで、完全なる神様への信仰告白が完成するわけであります。

 私たちが、「私は聖霊を信じます」と告白した時、これは「聖霊は創造の霊であり、生命の霊、神の霊、キリストの霊として、すべてを新たにされる聖霊の働きを信じます」という意味になります。聖書が教える聖霊がなさることには、明らかな目標があります。それは、聖霊が向かわれる目標こそ、「神がなさろうとする新しい創造、新しい天と地、神と新しく創造された民との交わり」にあるのです。

 まず、聖霊が神の子どもたち一人ひとりにどのように関わり祝福してくださるのかを見てみましょう。

 その最初に、聖霊は私たち一人ひとりを神の御前に近づかせてくださり、そこで豊かに注がれる神の愛を味わわせてくださいます(エフェソ2:18、ローマ5:5)。また、その人に悔い改めと新生の恵みを与え、イエス・キリストを信じさせてくださいますコリント一 12:3-4)。それに加え、聖霊は私たちを命の道へと導き、いつも共におられる中で、私たちを慰め、助け、希望に満ち溢れさせてくださいます(ヨハネ14:1617)。そこからもう一歩進んで、聖霊は神の子どもたちの内に住んでおられ、一人一人を神の神殿となる光栄ある存在として呼ばれるのです(コリント一 3:16)。結論として、聖霊は私たちの人生の中で豊かで美しい実を結ばせてくださるお方であると聖書は教えています(ガラテヤ5:222325

 続けて、聖霊とキリストの教会との関係から考えてみましょう。

 まず、聖霊はキリストの体なる教会の上に望まれます。今から2000年前のペンテコステに臨まれた聖霊によって誕生したキリスト教会は、その後も聖霊によって常に刺激され、常に新しく造りかえられながら歩んできました(使徒2:3839)。そして、聖霊は「あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているもの」であることを教えます。これは時代と状況や環境を乗り越えて同じく働かれる聖霊による恵みの約束なのです。聖霊は常にイエス・キリストの血潮によって新しく誕生した神の民、またキリストの教会を作って行かれます。弱い人間の偏見、人間の利己心、人間の理解に捕らわれるのでなく、聖霊は風のように、聖霊はご自由に、御心が成し遂げられる方向へと歩まれるのです。願わくは、神の家族お一人お一人が聖霊に捉えられ、日々すべてを新しくされる命と希望の御業を体験しながら歩んでいきますように祝福を祈ります。ハレルヤ!

2021.1.17 牧師室便り

 ~大雪の中で得た恵み~

 先週、私は今回の大雪の間、2回もスタックに遭いました。スタックとは、「雪やぬかるみにタイヤがはまり、その場で空転してしまい、前にも後ろにも進まなくなる現象のこと」だそうです。一回目は、除雪機の部品を買いに行こうとしたところで、教会を出てすぐ十字路でタイヤがスタック状態になりました。その場から抜け出そうと必死でいろいろと試みたのですが、うまく行かず諦めかけたところ、ちょうどその辺で雪かきをしていた町内の方々に助けられ辛うじてその場を逃れることができました。それから3日後、今度は教会の真ん前の道路でスタック状態になりました。しかし不思議なことに今回もどこからか分かりませんが、一人、二人と人が集まり、最後は10人ほどの町内の方々の協力で3時間の死闘からやっと抜け出すことができました。その後、教会の前の道路で何台もスタック状態になりましたが、今度は私の方から近寄り助け合うことができましたね。

 今回の経験を通して、自分が困難に遭ったことにより、それまでなかなか交わることができなかった町内の方々に出会い、互いに助け合うことができたのは何よりの恵みでした。大雪がただ災いではなく、良き交わりの場となってくれたのです。神の家族の皆さんもスタックにくれぐれも注意しつつ、神の助けと新たな交わりを期待してくださいね。シャローム!

2021.1.17 本日の宣教

 『 コラムデオ(神の御前で) 』   (詩編139:112)

 ラテン語の「コラムデオ(Coram Deo)」という言葉をご存知ですか。コラムデオ、この言葉は「神の御前で」という意味で、常に神の前に立って生きるという信仰を表す言葉です。神の御前で、神の支配と権威の下で、神の栄光を表しながら生きるという信仰姿勢と言えるでしょう。生きておられる神を時間と空間の領域において感じつつ、その方と共に生きるという、キリスト者としての神様との親密な関係を表すことでもあります。マルティン・ルターをはじめ、宗教改革を成し遂げてきた信仰の先輩たちが常に交わしていた言葉でもあります。

 さて、このコラムデオ、神の御前に立つ者としての信仰姿勢が最もよく現れているのが、本日の「詩編139編」であると思います。詩人ダビデに迫ってくる神への信仰告白に耳を傾けましょう。

主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。」(139:13

詩編139編の詩人は、まず、創造者なる神が、私たちの考えや計画、行いをすべて知っておられる方であることを告白します。神の御目はいつも私たち、神の子どもたちに向けられ、すべてを知っておられます。ここで、「座るのも立つのも、歩くのも、伏すのも、前からも後ろからも」とは、詩人が動き働く生活全般を示します。さらに詩人は、「自分の舌がまだ一言も語らぬ先に、すべてを知っておられる」という言葉を通して、詩人の心の思いも、考えもすべて知っておられ、ご覧になっているのだと証しているのです。

ただし、いつも見られている、すべてが裸にされているような生活…とりわけ、私の弱さも、汚れも、ありとあらゆる罪が全部見られ、裁かれてしまうとすれば、私たちの信仰は小さくなり、不安と恐れに捕らわれることになるでしょう。しかし、ここで、詩人が告白しようとする神は、私たちを監視しながら、私たちの弱さ、問題などを責められるお方ではなく、愛する子どもを助けようとする親のようにいつも共にいて、私たちのあるがままを受け入れ、抱きしめてくださるお方、一時も子どもから目を離さない優しい父なる神であることを詩人は歌っているのです。時には、自分自身の弱さのゆえに神から逃れ、隠れようとしますが、天に昇っても、陰府に横たわっても、海のかなたにいても、神は時間と場所に関係なく、いつも存在され、御手をもって捉えてくださるお方であると告白しています。

2021年、新しい一年を始めようとする神の家族ですが、ぜひ、「コラムデオ」という言葉を心に刻みつつ、日々の歩みを始められるように。歴史の中の偉大なる神の人たちは、こぞって身につけていた姿勢が、「コラムデオ」でありました。彼らは常に神の御前で生きる生き方を貫くことを心がけていたのです。

新型コロナウイルスによって、すべてが変わってしまった世界です。まさしく先が見えない暗闇の世界と言っていいでしょう。とりわけ人々との親密な触れ合いを大切にしてきたキリスト教会にとっては、大変厳しい時でもあります。しかし、今の時こそ、コラムデオの信仰に立つべき時です。すべてを知っておられる神、またすべてを治めておられる神の御心が何であるかを尋ねつつ、神の臨在を感じながら、御手に触れていただくコラムデオの恵み豊かな2021年でありますように。ハレルヤ!