2026年2月2日月曜日

2026.2.1 牧師室便り

 「 笑顔と感動に溢れる教会を」

先週、私たちの群れを訪問された、私の韓国の母教会である聖恩教会の5名の方々が、口を揃えて語ってくださった言葉があります。それは、小泉町教会の礼拝に集う中で、何よりも心を打たれたのは、教会の皆さんの自然な笑顔と、互いを喜びをもって愛し合う「神の家族」の姿であった、ということでした。その姿に触れ、聖恩教会の礼拝においても同様の姿を作っていきたいという願いを分かち合ってくださいました。その言葉をいただき、素直に嬉しくなりましたね。

小泉町教会は30名ほどの、小さな群れです。しかし、この小ささゆえに育まれてきた交わりがあります。互いの存在を大切にし、喜びも痛みも分かち合う関係は、どれほど大きな教会であっても、簡単に形づくれるものではありません。ここにある神の家族の温かさと喜びは、どこの教会にも負けない、いや、どのような教会に対しても誇りをもって証しできる恵みだと、私は心から思います。

2026年もすでに1か月が過ぎました。今年、小泉町教会はどのような歩みを選び、どこに焦点を当てて進んでいくべきでしょうか。私は、小泉町教会の礼拝と交わりが神に喜ばれ、そして互いに喜び合える、生き生きとした教会を築きたいと願っています。

混沌とし、不安に満ちたこの世界の中で、小泉町教会という神の家族の群れを通して、良き影響が周りへと広がっていきますように。神の家族お一人お一人を心から愛し、祝福します。

シャローム。



2026.2.1 本日の宣教

  『どこにいるのか罪ある人間』 ~ これだけは知ってもらいたい ③ ~

                   創世記 3章8~10節

私たちは毎日、仕事や家事、人間関係に追われ、立ち止まって自分の心の居場所を見つめ直す余裕を失いがちです。しかし聖書は、その最初に、神から人間への問いかけを記しています。「あなたは、どこにいるのか」。これは、どれほど遠くへ逃げ、深い闇に隠れても追いかけてくる、愛の問いです。

創世記3章では、罪を犯したアダムとエバが、神の足音を恐れ、木の間に隠れる姿が描かれています。かつて喜びであった神様の臨在が、罪によって恐怖に変わってしまったのです。これは現代を生きる私たちの姿でもあります。私たちは自分の弱さや醜さを隠すために、成功や評価、SNS上の姿、あるいは「自分はまだましだ」というプライドという木の葉で身を覆います。しかし隠れれば隠れるほど、心は孤独になっていきます。本当の自分を隠したままでは、真に受け入れられる安心を得ることができないからです。

イザヤ書59章は、神様が遠く感じられる理由を明確に語っています。神様の手が短いのでも、耳が遠いのでもありません。私たちの罪が、神様との間に隔てを作っているのです。ここで言う罪とは、ギリシャ語で「ハマルティアと言い、「的を外す」という意味になります。すなわち「罪」とは単なる道徳的失敗ではなく、本来向かうべき神様という中心から外れ、自分を人生の主人として生きようとする姿勢を指します。この自己中心が壁となり、 神様の愛の光を遮ってしまいます。そしてその影響は、他者との関係にも及び、私たちを分断していきます。

そのような人間に対し、神様は裁きではなく、「どこにいるのか」と呼びかけられました。この問いは、迷子を探す親のような、深い悲しみと愛に満ちた声です。神様は人がどこにいるかを知っておられますが、あえて問いかけ、人自身に自分の置かれた悲惨な場所を気づかせようとされました。これこそが、福音の第一歩です。

アダムは「私は裸で、恐れて隠れています」と答えました。これは不完全ながらも、最初の告白でした。私たちもまた、神様の前で立派に振る舞う必要はありません。ただ「私は今、ここにいます」と、ありのままを差し出すことが求められています。

しかし罪の隔ては、言葉だけでは取り除けませんでした。そこで神様は、ひとり子イエス・キリストを十字架にお与えになりました。キリストは私たちの罪を背負い、「見捨てられた」という断絶を引き受けてくださいました。その犠牲によって、隔ての壁は打ち砕かれました。

今や、キリストを信じる者は隠れる必要がありません。「あなたは、どこにいるのか」という問いは、今も私たちを神様のもとへと招いています。その声に応え、新しい一歩を踏み出すとき、神様は必ず私たちを見つけ、愛の衣で包んでくださいます。ハレルヤ!


2026.2.1 小さな泉の恵み

 昨年の10月に自宅から一番近い柵原教会に転会しました。一番大きな理由は、デイサービスが休みの日曜日に主人の母を一人残して長時間出かけることが徐々に難しくなってきたからです。特に昼食の心配がありました。

主人の定年を機に主人の実家がある岡山県北部の農村部に住み始めてもうすぐ丸8年が経ちます。『明さんところの嫁さんか・・・』何度この言葉を聞いたことでしょうか?このことは、明さんの嫁として期待されている役割があることを意味しています。このため、時々窒息しそうになり、県庁所在地の教会まで出かけると解放されたような気分に浸れました。

しかし、8年間農村に住みながら、農村地域にある教会に通わないでいいのか。それでは農村の人たちに伝道できないではないか。という思いが少しずつ募ってきていました。

農村の教会は街の教会に比べ色々と厳しい状況にあります。それでも、農村に教会が建てられ今日まで礼拝が守られてきたのも、神様の守りと導きがあってのことです。最近、私が農村に置かれているのも、この地で果たしなさいと期待されている役割があると感じている今日この頃です。

                               K.K.姉

2026.1.25 牧師室便り

 「母教会と共に歩んだ道を振り返る」

本日は、私の母教会である済州聖恩(ソンウン)教会の黄仁生牧師と信徒の皆さんをお迎えしての礼拝となります。そのため、私と聖恩教会とのこれまでの関わりについて紹介したいと思います。

私が初めて聖恩教会を訪れたのは、中学三年生の時でした。当時の私は、自分自身や周りに対する怒りに燃え、常に怒りが爆発しているような反抗期の少年でした。そんなある秋の日、同じクラスの友だちに賛美大会への参加を誘われ、歌の手伝いとして初めて教会の扉を開いたことが、聖恩教会との交わりの始まりでした。

高校時代には、多くの中高生の仲間と共に礼拝し、遊び、喜びを分かち合う、人生で最も楽しい日々を過ごしました。大学進学後は、教会学校の教師や聖歌隊など、さまざまな奉仕に携わりました。周りからは「伝道師」と呼ばれることもありました。

しかし当時の韓国社会は軍事独裁下にあり、私自身も学生運動に身を置くという、混乱の時期を過ごしました。多くの迷いと困難の中で、人生の目的を求めてさまよう中、イエス・キリストの十字架と出会い、信仰によって新しく生まれ変わる体験をしました。その出会いを境に、私の人生は大きく変わり、キリストのために生きる道を真剣に考えるようになりました。

聖恩教会は、私の若い時の悩みや迷い、そしてキリストのための将来への決断に至るまで、青年時代を支え、共に祈り、信仰を育んでくれた共同体でした。日本留学中も、済州道に戻るたびに、いつでも喜んで迎えてくださり、母の懐のように温かく受け入れてくれる教会でした。

聖恩教会は、いつでも帰ることのできる信仰のふるさとであり、今も祈りと励ましによって私を支えてくれる存在です。その絆は、30年経った今も変わることなく続いています。ぜひ、以前一度チャレンジした済州への信仰の旅を、神の家族と共に、改めて進めていきたいと願っています。シャローム。



2026.1.25 本日の宣教

 『 神は愛なり 』

                  ヨハネの手紙一 4章7~21節

愛する小泉町キリスト教会の皆さま、はじめまして。

私は韓国・済州島にある聖恩教会の黄仁生(ファン・インセン)牧師です。本日、皆さまと共に礼拝をささげることができ、本当にうれしく、感謝しております。

皆さま、この世で最も大切なものは何だと思いますか。それは、愛です。

アメリカの神学者マッケンジーはこう言いました。「この世で最も孤独なのは、愛のない人の心である」と。人が生きるか死ぬかは、愛によります。多くの愛を受けると、人は幸せになります。

ある病院の新生児室で、興味深い調査結果がありました。同じ環境であるにもかかわらず、ある赤ちゃんは健康に育ち、ある赤ちゃんはそうではありませんでした。

調べてみると、入口近くにいる赤ちゃんたちは、看護師の出入りが多く、よく触れてもらっていました。一方、部屋の隅にいる赤ちゃんたちは、触れてもらう回数が少なかったのです。大切なのは場所ではなく、愛でした。愛を多く受けると生き、愛を受けなければ死んでしまいます。

 問題は愛、しかも十分な愛です。では、その十分な愛とはどのような愛でしょうか。「愛さない者は神を知りません。神は愛だからです。」…その愛とは、神の愛です。この愛だけが、真実で十分な愛なのです。

 神の愛は、過去だけの愛ではありません。今も愛し、これからも変わらず愛し続ける、永遠の愛です。昨日も、今日も、そして永遠に変わらない愛です。

日本社会では「義理」を大切にすると聞いています。それは責任や義務を果たすことです。それも大切なことですが、神の愛は義務や責任ではありません。条件がありません。

私たちが善いから、完全だから、神が愛してくださるのではありません。神はただ、私たちを愛しておられるのです。なぜなら、神ご自身が愛だからです。その十分な愛は、同時に最高の愛でもあります。それは、イエス・キリストをこの地に遣わされた愛です。

神が私たちを愛してくださったゆえに、私たちの罪のためにイエス様は十字架で死なれました。大切なのはこの順番です。私たちが神を愛したのではなく、神が先に私たちを愛してくださいました。神の愛とは、自分が生きるために死んだという愛ではありません。他の人を生かすために死んだという愛です。これが、神の愛です。

愛する富山小泉町キリスト教会の皆さま、神は愛です。先に近づいてくださる愛です。その愛によって、神はイエス様をこの地に遣わされました。イエス様は、私たちのために十字架で死なれました。それによって、私たちは生かされました。今、私たちが生きているのは、その愛を覚えながら生きるためです。そして、私たちもその愛を実践して生きるのです。ハレルヤ!

                         済州聖恩教会 黄 仁生牧師

2026.1.25 小さな泉の恵み

 昨年の11月に70代のいとこ伯母が自宅で転倒し、尾骶骨にヒビが入りそのまま入院となりました。リウマチで手足が不自由でしたが、当時はまだ元気で周りの人の助けを借りながら気丈に一人で暮らしていました。

大学病院に入院してから何度か家族やいとこ伯父とお見舞いに行きました。痛みもあり入院生活は不安だったようで、「何のために生きてるの?なぜ生まれて来たの?」と私に弱さを見せてくれる時もありました。励ましの言葉をかけたり、天然のアロマでマッサージをしてあげると喜んでくれたり、カイと一緒に行くと伯母さんも笑顔になります。

でも入院して、数週間ほど寝続ける生活をしただけで筋力がなくなり、自分でご飯を食べることも、歩くことも、起き上がることも出来なくなってしまいました。この現実に、叔父は言葉では言い表せないほどの深い痛みを感じ、私もまた伯母が不憫で落ち込んでしまいます。

伯母は「家に帰りたい」と言っていましたが家族がいないので、2週間前に施設の病院に転院しました。どうか野沢雅子さんのためにお祈りしていただけたら幸いです。

                             R.M.姉

2026.1.18 牧師室便り

  「壮年たちの叫び」 

先週の主日礼拝の後、s兄と二人で、中部地方連合壮年会総会ならびに交流会に参加しました。今回は、コロナ禍以降初めてとなる、対面での一泊二日の集まりでした。

当日は大雪の中を車で移動することになり、道中の安全を案じていました。しかし感謝なことに、私たちの車の前方を三台ほどの除雪車が走り続け、進むべき道を整えてくれていました。激しい吹雪の中でしたが、そのおかげで安心して運転することができ、道を備えてくださった神に心から感謝しました。

江南市の宿泊施設「すいとぴあ江南」に到着すると、すでに集っておられた方々と挨拶を交わし、すぐに十三教会の壮年会活動報告と各教会の現状を分かち合う時が持たれました。

そこで示されたのは、すでに三つの教会が無牧師である中、さらにこの四月から無牧師教会が増えるという厳しい現実でした。

また、牧師の引退や異動、新たな赴任など、大きな変化が続いていることも報告されました。かつて壮年会が活発であった教会が、高齢化や召天、教会事情の重なりにより、働きが困難となり、少人数で疲れ切っている姿も語られました。
各教会の現状を聞く中で、小泉町教会では約十名の壮年が礼拝に集い、喜びをもって奉仕し、教会を支えてくださっていることを改めて感謝とともに覚えました。
今回の総会と交流会を通し、諸教会が置かれている状況は緊急事態とも言えるものであり、今こそ熱心な祈りとリバイバルが切に求められていることが示されました。
主よ、諸教会の壮年たちを起こしてください。
教会の土台として壮年たちを用い、豊かな祝福をお与えください。 シャローム。

2026.1.18 本日の宣教

  『 主を賛美するために 』~これだけは知ってもらいたい②~

               詩編102編19節、イザヤ43章21節

私たちは毎月第三週の主の日を、「賛美礼拝」として神にささげています。それは、賛美が人の思いや理解をはるかに超えた、測り知れない力と恵みをもっているからです。賛美は、礼拝の中の一要素ではなく、神が人に与えてくださった、命そのものに関わる大切な恵みなのです。

詩編102編の中で、詩人は祈りの中から、人が何のために造られたのかという神の真理を告白しています。「主を賛美するために民は創造された。」と。…この言葉は、信仰を持つ人だけに向けられたものではありません。神によって命を与えられ、今この時代を生きているすべての人に向けられた、神の変わらぬ願いなのです。

とりわけ詩編102編の詩人は、自分の命が煙のように消え去り、骨が炉の中で焼けるようだと訴えます。孤独と衰え、そして時の流れの厳しさを感じながら、それでも彼は一つの確信に至ります。それは、「主は変わらない」という事実です。

自分の状況は揺れ動き、崩れ落ちそうでも、主の御座は揺らぐことがありません。その主を見上げる時、詩人は、賛美が単なる感情の表現ではなく、神の真実に立ち続ける信仰の告白であることを知ったのです。

その通り賛美は、うれしい時や楽しい時だけにささげるものではありません。ひとりで寂しさを抱えている時、悲しみの涙が止まらない時、心身が疲れ果て、病の中に ある時にも、賛美は私たちを神のもとへと導く恵みの通路となります。むしろ、そうした時にこそ、賛美は私たちの魂を支え、神の御腕の中へと連れ戻してくれるのです。  

詩編150編6節には、「息ある者はこぞって主を賛美せよ」とあります。ここで語られている「息ある者」とは、特別な能力を持つ人のことではありません。また信仰が成熟している人たち、歌の上手な人たちだけが招かれているのでもありません。今、息をして生きているすべての人が、神を賛美するように招かれているのです。そこには、年齢も、性別も、国籍も、社会的地位も、健康状態も、何一つ条件として挙げられていません。ですから、賛美は、人と比べる必要もありません。

先週も分かち合いましたように、私たちは偶然に存在しているのではありません。神がご自身の似姿として造られ、その存在そのものが、神の誉れを現すためのものとされています。賛美とは、歌うことだけではなく、神がどのようなお方であるかを、言葉や生き方を通して証ししていくことです。主に信頼し、主により頼み、主のなさったことを忘れずに歩むこと、その歩みそのものが賛美なのです。

“後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」”(詩編102:19)…これだけは、今を生きるすべての人に、ぜひ知ってもらいたい真理です。ハレルヤ!


2026.1.18 小さな泉の恵み

 先月の祈祷会で、アドベント週ということで、ヨシュア記の他にイザヤ書11章1-12節も併せて学びました。

この中で私は「乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。」(8節)に、特に蝮の巣に手をいれるなど滅相もないと思いました。

実は昨年7月に用水路で水を堰き止めようとしたら、草叢に潜んでいた蝮に左手を咬まれ、救急病院で馬の血清をうち入院しました。

閔先生をはじめ皆様のお祈りのおかげで、3泊4日と比較的早く退院でき、大変感謝しています。退院後は、即に農作業に入りましたが、主のことを覚えずに農作業をやってきた自分に悔い、それからは、毎日主のことを覚えて、秋の収穫期を迎えることができました。

さて、聖書に戻り、6~7節では狼と子羊が、豹と小山羊が、子牛と若獅子が、そして牛と熊が共に仲良く生きていることも含めて、閔先生から神の国では弱肉強食はない、と説明を受けました。今、大国が自国ファーストを掲げ、リーダーの欲望のまま突っ走っています。神の国のように弱肉強食のない平和な世の中になることを神様に切に願っています。

                           K.K.兄


2026.1.11 牧師室便り

 「 混沌の時代に、神の正義を求めて 」

先週、私たちは、アメリカによるベネズエラへの侵攻とマドゥロ大統領の拘束という出来事に、大きな衝撃を受けました。力を持つ国が、弱い立場にある国の主権や尊厳を踏みにじるかのような現実を前に、平和とは何か、正義とは何かが、改めて問われています。もし力が正義となり、自らの基準によって他者を支配することが正当化されるなら、世界は再び、過去の支配と搾取の歴史へと引き戻されてしまうでしょう。

聖書の上に手を置いて指導者が宣誓を行う国であっても、その歩みが常に神の御心に適っているとは限りません。だからこそ私たちは、特定の国や指導者を裁く以前に、神の前で、この世界をどのように見つめ、どのように祈るのかが問われているのです。

ちょうど『リビングライフ』1月号のテキストは『ヨハネの手紙』ですが、ヨハネは繰り返しこう語ります。「正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。(Ⅰヨハネ3:10)」。

キリストにとどまる者は、言葉だけでなく、生き方において神の愛を表していくのだと、ヨハネは繰り返し告げているのです。
世界が混沌とし、力が支配する現実の中で、私たちはどの価値観に立って生きるのでしょうか。独り子さえ惜しまず与えてくださった、愛なる神は、私たちに、力ではなく愛を、支配ではなく仕える道を示しておられます。
悪しき霊に流されることなく、聖霊からの知恵と思慮分別をいただき、日々の小さな選択において神の義と正義を求め、隣人を愛する者として歩む神の家族であるように…。それこそが、今この時代に神の愛を証しする、私たちの使命ではないでしょうか。
シャローム。

2026.1.11 本日の宣教

  『 神の似姿に創造された私  』

                     創世記 1章26~28節

これから一年を通して、「これだけは知ってもらいたい」という主題のもと、キリスト者としてのアイデンティティーについて確かめる時を持ちたいと願っています。そこで、まず最初に確認すべきことは、「創造信仰」でしょう。

多くのことを理解できなくても、信仰についてまだ確信が持てなくても、人生が思うように進んでいなくても、これだけは知ってもらいたい真理があります。それは、すべての始まりは「創造者なる神」にあること、そして私たちは神の似姿として創造された存在である、ということです。

「初めに、神は天地を創造された。」この短い一文こそ、私たちの信仰の土台です。世界は偶然に存在しているのではなく、意味と目的をもって造られました。その中心におられるのが、創造者なる神です。

創造者なる神とは、遠く離れた場所から世界を眺めている存在ではありません。神は、言(ことば)によって宇宙万物を造られ、秩序を与えられ、「極めて良かった」と宣言されるお方です。混沌の中に光をもたらし、命をもたらし、すべてを祝福のうちに造られました。そこには力だけでなく、深い愛と明確な意志が働いています。

創造の物語が教えているのは、この世界が神の所有物であると同時に、神の喜びの対象であるということです。私たちは、無意味な宇宙の片隅に偶然投げ出された存在ではありません。創造者なる神の思いの中に置かれ、神のまなざしのもとで生かされている存在です。 この創造者なる神を知らずに、人間の価値を語ることはできません。人とは何者か、なぜ生きるのか、その答えは創造の神から始まります。だからこそ、これから語る「神の似姿に創造された私」という本日の主題もまた、創造者なる神を見上げるところから始まるのです。

その創造者が御心を込めて言われた言葉、 「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」(1:26)  「神の似姿」とは何でしょうか。それは、神の御心を受け取り、愛し、選び、責任を引き受け、善悪を考え、他者と関係を結び、神と人格的な交わりを持てる存在。それが人間です。まさしく人は、神の創造の御業をこの世界に映し出す者として造られたのです。

しかし現実には、私たちは自分の価値を簡単に見失います。人と比べて劣っていると感じたり、失敗や弱さによって自分を否定してしまったりします。忘れないでほしい。あなたの価値は、あなたの成果や評価によって決まるのではありません。神があなたを「似姿として造った」という事実が、あなたの価値の土台なのです。

『神の似姿に創造された私』、この真理は、私たちの人生の土台です。自分自身を軽んじないために、また隣人を尊ぶために、そして主の栄光を現して生きるために、決して忘れてはならない出発点です。ハレルヤ! 


2026.1.11 小さな泉の恵み

 「年末年始の賛美歌」

2025年もクリスマスが来ましたね。そうですキリスト者にとってクリスマスは、「来て過ぎ去る」ものではなく、「来て蓄積される」もの。来るたびに、感謝が積み上がります。

その2025年のクリスマス、「街でクリスマスの歌を口ずさみたいなぁ」と思いました。「口ずさむ」ということは、楽譜や歌詞カードを見ないで、歩きながら、星空(東京ではあんまり見えないけれど〜)を見上げながら。つまり暗唱です。わたしたち、「もろびとこぞりて(新生讃美歌200番)の歌詞を、1節は歌えるけど、2〜4節まで全部歌詞見ないで歌えるでしょうか。

でも、「もろびとこぞりて」のように元気よく明るい曲は、実はクリスマスには少ないんです。哀愁のあるメロディーが多い。幼子イエスがどのようにして、そして何のために生まれられたかを思えば、短調になりますね。新生149「来たれやインマヌエル(A)」、156「いざ来たりませ」、190「歌いましょうクリスマス」、192「みたりの博士は」193「人みな喜び歌い祝え」。また、しみじみとした曲としては180「イエスがこころに」195「待ちわびし日」…世では「クリスマスの歌」とはとても思いそうにない、これらの曲を覚えて、町の中で歌いたいじゃありませんか。ワタシ?いや、クリスマス 忙しくてちょっと泣

さて2026年になって元旦、新年の歌はなんでしょう。ワタシの教会では決まっているわけではないですがいつも21「栄光と賛美を」が歌われます。「とーしーのーはーじめーのー」がかかっている店内などで、歌っちゃいましょう。これは3節までちゃんと覚えました。

                              S.M.姉