2026年2月2日月曜日

2026.2.1 本日の宣教

  『どこにいるのか罪ある人間』 ~ これだけは知ってもらいたい ③ ~

                   創世記 3章8~10節

私たちは毎日、仕事や家事、人間関係に追われ、立ち止まって自分の心の居場所を見つめ直す余裕を失いがちです。しかし聖書は、その最初に、神から人間への問いかけを記しています。「あなたは、どこにいるのか」。これは、どれほど遠くへ逃げ、深い闇に隠れても追いかけてくる、愛の問いです。

創世記3章では、罪を犯したアダムとエバが、神の足音を恐れ、木の間に隠れる姿が描かれています。かつて喜びであった神様の臨在が、罪によって恐怖に変わってしまったのです。これは現代を生きる私たちの姿でもあります。私たちは自分の弱さや醜さを隠すために、成功や評価、SNS上の姿、あるいは「自分はまだましだ」というプライドという木の葉で身を覆います。しかし隠れれば隠れるほど、心は孤独になっていきます。本当の自分を隠したままでは、真に受け入れられる安心を得ることができないからです。

イザヤ書59章は、神様が遠く感じられる理由を明確に語っています。神様の手が短いのでも、耳が遠いのでもありません。私たちの罪が、神様との間に隔てを作っているのです。ここで言う罪とは、ギリシャ語で「ハマルティアと言い、「的を外す」という意味になります。すなわち「罪」とは単なる道徳的失敗ではなく、本来向かうべき神様という中心から外れ、自分を人生の主人として生きようとする姿勢を指します。この自己中心が壁となり、 神様の愛の光を遮ってしまいます。そしてその影響は、他者との関係にも及び、私たちを分断していきます。

そのような人間に対し、神様は裁きではなく、「どこにいるのか」と呼びかけられました。この問いは、迷子を探す親のような、深い悲しみと愛に満ちた声です。神様は人がどこにいるかを知っておられますが、あえて問いかけ、人自身に自分の置かれた悲惨な場所を気づかせようとされました。これこそが、福音の第一歩です。

アダムは「私は裸で、恐れて隠れています」と答えました。これは不完全ながらも、最初の告白でした。私たちもまた、神様の前で立派に振る舞う必要はありません。ただ「私は今、ここにいます」と、ありのままを差し出すことが求められています。

しかし罪の隔ては、言葉だけでは取り除けませんでした。そこで神様は、ひとり子イエス・キリストを十字架にお与えになりました。キリストは私たちの罪を背負い、「見捨てられた」という断絶を引き受けてくださいました。その犠牲によって、隔ての壁は打ち砕かれました。

今や、キリストを信じる者は隠れる必要がありません。「あなたは、どこにいるのか」という問いは、今も私たちを神様のもとへと招いています。その声に応え、新しい一歩を踏み出すとき、神様は必ず私たちを見つけ、愛の衣で包んでくださいます。ハレルヤ!


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