2026年2月2日月曜日

2026.1.18 本日の宣教

  『 主を賛美するために 』~これだけは知ってもらいたい②~

               詩編102編19節、イザヤ43章21節

私たちは毎月第三週の主の日を、「賛美礼拝」として神にささげています。それは、賛美が人の思いや理解をはるかに超えた、測り知れない力と恵みをもっているからです。賛美は、礼拝の中の一要素ではなく、神が人に与えてくださった、命そのものに関わる大切な恵みなのです。

詩編102編の中で、詩人は祈りの中から、人が何のために造られたのかという神の真理を告白しています。「主を賛美するために民は創造された。」と。…この言葉は、信仰を持つ人だけに向けられたものではありません。神によって命を与えられ、今この時代を生きているすべての人に向けられた、神の変わらぬ願いなのです。

とりわけ詩編102編の詩人は、自分の命が煙のように消え去り、骨が炉の中で焼けるようだと訴えます。孤独と衰え、そして時の流れの厳しさを感じながら、それでも彼は一つの確信に至ります。それは、「主は変わらない」という事実です。

自分の状況は揺れ動き、崩れ落ちそうでも、主の御座は揺らぐことがありません。その主を見上げる時、詩人は、賛美が単なる感情の表現ではなく、神の真実に立ち続ける信仰の告白であることを知ったのです。

その通り賛美は、うれしい時や楽しい時だけにささげるものではありません。ひとりで寂しさを抱えている時、悲しみの涙が止まらない時、心身が疲れ果て、病の中に ある時にも、賛美は私たちを神のもとへと導く恵みの通路となります。むしろ、そうした時にこそ、賛美は私たちの魂を支え、神の御腕の中へと連れ戻してくれるのです。  

詩編150編6節には、「息ある者はこぞって主を賛美せよ」とあります。ここで語られている「息ある者」とは、特別な能力を持つ人のことではありません。また信仰が成熟している人たち、歌の上手な人たちだけが招かれているのでもありません。今、息をして生きているすべての人が、神を賛美するように招かれているのです。そこには、年齢も、性別も、国籍も、社会的地位も、健康状態も、何一つ条件として挙げられていません。ですから、賛美は、人と比べる必要もありません。

先週も分かち合いましたように、私たちは偶然に存在しているのではありません。神がご自身の似姿として造られ、その存在そのものが、神の誉れを現すためのものとされています。賛美とは、歌うことだけではなく、神がどのようなお方であるかを、言葉や生き方を通して証ししていくことです。主に信頼し、主により頼み、主のなさったことを忘れずに歩むこと、その歩みそのものが賛美なのです。

“後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」”(詩編102:19)…これだけは、今を生きるすべての人に、ぜひ知ってもらいたい真理です。ハレルヤ!


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