2024年5月27日月曜日

2024.5.26 牧師室便り

 ~ なんという恵み、なんという喜び ~

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。(詩編133編1節)

先週はペンテコステ(聖霊降臨日)。私が富山に赴任して初めての教会の敷地でのバーベキューでした。室内での焼き肉パーティーは度々行ってきたことがありますが、屋外でのバーベキューについてはほとんど経験したことがなかったため、実施するまでの準備が大変でした。でも、神の家族の積極的な協力、その中でも兄弟会の皆さんの協力と献身的な働きに感謝します。本当に楽しかったですね。ハレルヤ!

ある姉妹からはその日の夜に「教会でバーベキューを味わわせてくれて本当にありがとうございました!」とお礼の電話をいただくほどでした。その声を聞くことで、すべての疲れが消え去るような喜びを得ました。感謝です!

礼拝の中でも話しましたように、ペンテコステを象徴する色は「赤」です。それは炎のように降られた聖霊を表すためです。そのことを考えると、今回のペンテコステの日のバーベキューはピッタリと言えるかもしれません。毎年ペンテコステの日には炭火によるバーベキューを開催することはいかがでしょうか。その中で、聖書が語るように、兄弟が共に座り、共に喜び合う恵みに満たされたいと願います。

小泉町教会はこれから、これまで通りの伝道と慈善の働きはもちろんのこと、ファミリーキャンプや能登震災支援の働きを始めることになります。願わくは、これらの行事で疲れてしまうことがないように無理せず、聖霊が与えてくださる知恵と力、一致をもって愛し合う中で、
喜び溢れる小泉町教会となりますように。シャローム!


2024.5.26 本日の宣教

  『 御言葉を行う人 』    

                 ヤコブの手紙 1章 19~27節

今月の映画鑑賞では「良心の実弾~医師・中村哲が遺したもの~」を観せて頂きました。2019年にテロの凶弾に倒れたクリスチャンで医師の中村哲さんのアフガニスタンにおける人道支援などの働きを伝えるドキュメンタリー映画です。主イエスは言われました。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている。(マタイによる福音書22:37~40)」神を愛するとは神の掟を守ることです。(ヨハネの手紙第一5:3)「神を愛していると言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は目に見えない神を愛することが出来ません。」

神を愛するとは、神の掟を守ること。神の掟とは御言葉を行うこと。しかし私にとって「御言葉を行う」とは容易なことではありません。祈りをとってもしっかりと行えていると胸を張って言えない自分がいます。この映画には、そんな私に「御言葉を行う」為のヒントが散りばめられています。映画の冒頭で衝撃的な写真が映し出されます。地べたの泥水を啜る幼い子供の姿です。沢山の子供たちが不衛生な環境の中で命を失うのを見かねて「安全な水」を求めて井戸を掘ります。当初は素人が井戸を掘っていれば、世界が注目し、手を差し伸べて貰えるかもしれないと考えていましたが、どこからも支援が受けられず「世界中から見棄てられた」と言います。やむにやまれず井戸を掘り続けて、その結果、八百の井戸を掘り、六百本以上で水を得たといいます。医師である中村さんが、重機を操り造った用水路によって砂漠が緑の農地に変わる様子は正に聖書的奇跡であり、主の業、主の栄光と言わざるを得ません。中村哲さんの偉業を見たとき、同じようには出来ないと思ってしまいますが、私には私に与えられているご計画や使命があるということを知り、目の前の1つを丁寧に「行う」を目指したいと思います。中村哲さんは「語る前に動く」人だったそうです。信仰者の「主に従う」姿勢を表しておられました。

私たちの希望は死んで終わりではないということです。「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていて信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。(ヨハネによる福音書11:25~26)」中村哲さんの昇天は寂しいことで残念なことではありますが、復活のときにはお会い出来ることを期待しています。まず目の前の未だ救われていない方にこのこと、希望の福音をお伝えしたいと思います。私たちの務めは主の戦い。全ての誉れと栄光を主がお受けになりますように。御名が褒め称えられますように。 

                                      坂上幸男



2024.5.26 小さな泉の恵み

 東京に住んで6年が過ぎました。O教会でもいろいろと奉仕させてもらえるようになり、ありがたいですが忙しいです。そんな中、小泉町教会のSさんが、新たな体の痛みを抱えながらますます忙しく教会の奉仕や小さな泉の村の働きをつとめておられることを伺い、心配しておりました。すると、そのSさん御自身から、「いろいろな用事に出かけたときに桜や街路の花々、もちろん小泉町教会の花壇も、眺めて元気をもらっている」という、草花の絵文字いっぱいのカラフルなLINEメッセージをもらいました。それを見て、自分もそうしようと思いました。ゴチャゴチャしたうちの近所ですが、それなりに街路に植え込みもあるし民家の花壇も見えるし、道端に野の花も咲いています。意識して眺めるようにしました。「まことに、ソロモンの栄華でさえ凌駕する神の作品であることよ」とか「これらの花のようにこの街で強く生きていくのだ」とかつぶやいたりもします。でも、あと5,6年したら富山に帰りたいとは思っています。

                          S.M.姉

2024.5.19 牧師室便り

 ~ 暗闇の中にいる人々に一筋の光を ~

先週13日(月)に、能登半島地震被災地の輪島市で、福井教会が中心になって行う「誰でも食堂夕焼け小焼け」にボランティアとして参加しました。

小泉町教会のこれからの震災支援に向けて、まずは身をもって体験してみようという思いで出かけました。佐々木姉が小泉町教会の支援活動のために作ってくださったパウンドケーキを手にもって。…朝早くから車を走らせましたが、あいにくの大雨と渋滞などもあり、3時間以上かかりました。車を運転しながら、被災した村々を通り過ぎながら、深い暗闇に包まれているような感じを受けました。ほとんどの店が大きな被害を受けて閉店し、多くの道路は工事中で、山崩れの傷跡は恐ろしく、人影もあまり見えない旅でした。

ようやく炊き出しの場所である「輪島市ふれあい健康センター」に到着して、テント張り、おかずの用意、ご飯と味噌汁など、100食以上の準備を終え、被災された方々を迎えました。しかし、かなりの数の人々が並び、やむを得ず帰る人も多かったです。一人一人の顔からは疲れが見えましたが、炊き出しに対する感謝の笑顔がありました。まさに、暗闇の中に一筋の光が届くような瞬間でした。…何より福井教会の平良先生ご夫妻と様々な方面で協力してくださった諸教会と皆さんの上に主の恵みと祝福を祈ります。

 今回の旅は福井教会の支援活動に参加した形ですが、そろそろ小泉町教会としての支援活動も始めなければなりません。願わくは、暗闇の中の方々に一筋の光を届けるために、聖霊の導きの中で小泉町教会にふさわしい村が見つかり、具体的な準備ができるように…。その日まで、祈り続けましょう。シャローム!



2024.5.19 本日の宣教

 『 一緒に、共に、内に 』~パラクレートス~  

                   ヨハネによる福音書14章16~20節

ペンテコステおめでとうございます!!!

 「こんにちは、アンニョンハセヨ、Hello、ニーハオ、スラマッ・バギ。」皆、「こんにちは」に該当する世界の言葉です。聖書の物語の中で、もともと一つの言語を話していた人々が、神に反抗してバベルの塔を建てようとした時、神が彼らの言葉を混乱させ、世界中に散らばったと伝えられています。その後、聖書は、人々の傲慢と反逆から始まった言語の混乱が一掃される出来事を紹介してくれますが、それがペンテコステ(聖霊降臨日)の出来事です。聖霊が初代教会の120人の群れに臨み、聖霊が語らせるままに、一人一人が異なる国の言葉で話し始めたのです。真に聖霊による一致、聖霊の臨在によって成る神の国を垣間見る大いなる日こそがペンテコステでした。

 今日の御言葉は主イエスが、最後の晩餐の席で語られた弟子たちへの約束の言葉です。主イエスの公生涯の3年半の間。弟子たちは一瞬たりとも主イエスから離れることはありませんでした。弟子たちにとって主イエスがすべてであり、主こそ将来の希望であると信じられていたからです。しかし、主イエスの口から「十字架の死と復活、そして昇天」という驚くべき話が語られると、弟子たちの心は不安と恐怖に包まれたでしょう。

 本文の御言葉は、そのような弟子たちに向けられている主イエスの約束の言葉です。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。(14:16)」

「別の弁護者」と訳されている「パラクレートス」は、ギリシャ語で「同じ種類の弁護者」という意味で、法廷用語でもあり、「助け手、カウンセラー」とも訳されます。つまり、主イエスは、御自身も弁護者であったように、聖霊もいつも傍らで弁護者となってくださる神であることを示してくださいました。そして、傍らで助けてくださる弁護者となる聖霊の働きの特徴を三つの言葉(前置詞)で説明しています。

 まず、「一緒に」(16節、ギ:メタ)。これは友だちの感覚で説明できる言葉で、聖霊は神の子どもたちの交わり手として、友として、「いつも一緒に」おられるお方です。主イエスは肉体的な制限のため、一か所にしかおられませんでしたが、聖霊は「いつも」、「どんな所にも」一緒におられます。

次に、「共に、傍らに」(17節、ギ:パラ)。いつも私たちと共に同じ側に立ち、弁護し、慰め、助けてくださる方だと教えています。まさに聖霊は「パラクレート」(傍らに立って助ける者)です。

最後に、「内に」(17節、ギ:エン)。聖霊は、私たちの内側に住んで下さいます。どんなに寂しく、みなしごのように思われる事があっても、聖霊は神の子どもたちの内にいて、励ましてくれるお方です。

主イエスは、もう一人の弁護士なる聖霊を紹介されてから、「わたしは、あなたがたを みなしごにはしておかない。(14:18)」という約束の言葉を告げられます。

神の家族の皆さん、私たちは主イエスの命をかけた十字架の愛を受けて神の子とされました。さらに、いつどこにおいても「一緒に、傍らに、内に」おられる聖霊に助けをいただきながら、恵みと愛の福音を宣べ伝えて参りましょう。ハレルヤ!



2024.5.12 牧師室便り

 ~ 聖霊によらなければ ~

次週19日はペンテコステ礼拝(聖霊降臨日)です。ちょうど「聖書教育」の聖書のテキストがコリントの信徒への手紙一12章の聖霊の賜物についての内容なので、教会学校で分かち合うことになるでしょう。

使徒パウロは「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。(12章3)」と教えています。また、聖霊によらなければ、賜物をいただくことも、神の国のために働くこともできないことを教えています。聖霊こそ、すべての生きるものの源であり、すべてを新しくし、明日への夢と希望を与えてくださる神です。

聖霊なる神は、父なる神と御子なるイエス・キリストとは異なるペルソナ(位格)ですが、三位一体の神です。生きておられる聖霊は、父なる神と御子なるイエスが今も生きて私たちと共に歩まれることを体験できるようにし、さらに深い交わりを与えてくださるお方なのです。

主イエスを救い主と信じ神の子とされた人の内に宿られる聖霊は、一時も離れることなく子どもたちを慰め、力づけてくださり、神の子どもたちと全人格的な交わりの中で、御心を教え、御言葉に秘められた御計画を成し遂げられるのです。

ぜひ次週のペンテコステ礼拝を待ち望みながら、生きておられる神が聖霊を通して神の教会に今も変わらず働きかけてくださり、私たちをイエス・キリストの福音の証人として新しく造り変え、神の国のために用いてくださるという確かな約束と希望をもって福音伝道の業に励みましょう。シャローム!



2024.5.12 本日の宣教

 『 塵さえも美しい 』 

                        詩編139編13~18節

母の日、おめでとうございます!!!私たちを愛し育ててくれた母親に感謝し、世界の母親に神の祝福が豊かに注がれることを祈ります。

私たちが信じる三位一体の神の中で、母なる神の本性をもって示される方が聖霊です。私たちの母親が子どもたちに時には友のように、時には教師のように、時にはアドバイザーのように関わっているのと同じように、聖霊なる神は私たちに母親のように寂しい時に温かく抱きしめ、失望した時に勇気を与え、疲れ果てた時にはやさしく声をかけてくださる存在です。

聖書が教える聖霊は、ヘブライ語で「ルーアッハ」、ギリシャ語で「プニューマ」と発音します。 どちらも 「息」「風」「霊」を意味し、「命」の源として紹介されています。

まず、天と地、宇宙万物を造られた創世記の天地創造の物語の中で、最初の人間を造られた時、神は塵の塊である土をもって、神の似姿に似せて造られました。しかし、形だけは出来ていても生きる者にはなりませんでした。人間の鼻に命の息を吹きかけられたことによって生きる者になったと記しています。その時の息吹きこそ聖霊であり、まことに聖霊が吹きかけられるところに、新たな命が生まれるのです。

本日の聖書の御言葉には、神が私たちをどれほど愛しておられるか、私たちが偶然この地で生きているのではなく、神の細やかで驚くべき創造の働きがあったことについて記されています。

その神の創造の業の中で「母の胎内に組み立てられ、驚くべき作品として造り上げられている」ことを讃美しているのです。そして、その神の創造の業に加わってくれた存在こそ、私たちの母親です。
 「作品」という言葉はギリシャ語で「ポイエーマ」と言います。この言葉は誰かの働きによって生み出されたものを意味します。またはオリジナルなもの、一つしかないもの、特別な、質が高いとも訳することができます。この世では同じ規格の製品が工場で大量に生産され売られますが、そうした製品とは全く異なるものが、神が造られた世界に唯一の作品であるあなたと私なのです。
 その創造の業は今もなおなされていることを聖書は約束していますし、その創造の業こそ、聖霊によって行われているのです。
 聖書は私たちをほこりや塵のような存在だと表現しています。しかし、その塵の上に聖霊の息吹きが吹きかけられ、栄光の光が当たると、美しい作品に変わるのです。
 母の日を迎える神の家族の皆様。私たちの日々の生活の中で、母のように優しく語りかけ、命の息吹きをもって交わってくださる聖霊に触れていただき新しく変えられる喜びに満たされますように…。ハレルヤ!

2024年5月26日日曜日

2024.5.12 小さな泉の恵み

 GWにはベトナムへ行ってきたのですが、案の定帰国後に胃腸炎を発症してしまい、珍しく職場を休んで数日間布団で横たわっていました。職場では終電まで会議で激論を交わしたり、陸上の練習に励んだり、大学や職場の仲間と遊ぶ忙しい日々も充実していますが、こうしてゆっくり最近の出来事や思いを振り返りながら文字に起こすのも悪くないと思い、この尊い機会を与えてくださった神様に感謝します。

さて、今年4月から外務省に勤務している身として、自問自答を続けていたことがあります。その一端を共有させていただきます。外務省の入り口前では毎日市民団体が戦争反対のプラカードを持って叫んでいます。正直、うちの前ではなく当事国の大使館に行ってほしいと思いますし、怖いし何よりも仕事の邪魔です。しかし、なぜ戦争が起こるのかも考えさせられます。憎悪、欲望?これが模範解答だとされるところでしょうか。しかし、私はこれに「愛」を追加したいです。

働きすぎで頭が狂ったかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、詳しくは次回の小さな泉で共有したと思います。

自分の大切な人が突然、見知らぬ人に刃物を突きつけられるという状況は、誰もが考えたくない恐ろしい場面です。そのような緊急事態において、手元に銃があれば、多くの人は迷わずに愛する人を守るために発砲するでしょう。ただし、銃を使用する際は、相手を殺すことではなく、攻撃を食い止めることが目的です。もちろん、このような行動が結果的に相手に重傷を負わせたり、死亡させたりする可能性も考えられます。一方、その場に攻撃者の愛する人がいて、武装していた場合、あなたとその人の間で銃撃戦が始まることになります。これが戦争です。

国家規模だと、太平洋戦争では、共産主義の脅威から自国民を守るために満州国が建国されました。また、国家の安全を確保し、石油や食料供給等の国民の生活を維持するために太平洋戦争が行われました。特攻隊員も、自国を守るために敵の戦艦を攻撃しました。これらの行動には様々な要因が絡み合っていますが、個々の行為には大切な人を守りたいという「愛」が垣間見えます。

我々には攻撃や死の危険から愛する人を守る権利があります。その場から逃れられない場合に道理にかなった範囲で守ることを聖書は禁じていません。とはいえ、戦争になり得る状況を避けるために最善を尽くすことを神様は望んでいらっしゃいますし、私の働いている外務省の志すところであると考えます。

                         K.M.兄


2024.5.5 牧師室便り

 ~ 神の家族の交わりを深めるために ~

先週の定期総会で決まった多くのことがありました。とりわけ、哀歌3章22~23節の御言葉から「主の憐れみに生きる教会」という標語が定められ、神の家族一人ひとりが神の憐れみを受けた者となり、神の憐れみを周りの人々に伝えるための働きに励む一年であるということを共有できました。

そのために、神の家族同士の交わりをさらに深め、楽しみ合うことが求められるでしょう。そのことを実現するために予定しているのが、5月19日のバーベキューと、7月14日~15日のファミリーキャンプです。

まず、5月19日のバーベキューは例年のように遠くに出かけて行うのではなく、今年は教会の駐車場を用いて行うことになりました。周りの方々にはご迷惑をかけることになるかもしれませんので、事前にご理解をいただいてから実施しようと考えています。

それから7月14日~15日の二日間、いつものように立山青少年自然の家を利用して神の家族の愛の交わりを深め、大自然を通して創造者なる神に触れる時を持つことになりました。ただし、今年からは今までのように、子どもたちが加われば大人も無料だった宿泊費が有料になったため、皆さんに負担を感じさせるかもしれません。そのために今から少しずつ貯金をしていただきたいと思います。それでも、参加費が負担となる方は牧師や執事の方にご相談ください。できれば、神の家族全員が集う会にしたいと願っています。
2024年度の小泉町教会の神の家族の交わりがこれらの楽しい行事を通してさらに深められ神の国の恵みを広める力となりますように…。お一人おひとりを心から愛し祝福します。シャローム!

2024.5.5 本日の宣教

 『 主イエスを受け入れる幸い 』 

           マルコによる福音書9章30~37節

今日は子どもの日。主イエスはたびたび、子どもたちを用いて御心を伝えられました。その中でも、天国について語られる時に子どもたちを大切な存在として立てられることにその姿勢を見ることができます。

主イエスはいよいよ十字架にかけられる時が近づいてきたことを知らせ、これからのことについて弟子たちと分かち合おうとされました。そこで、弟子たちに御心を明かしておられます。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と。

しかし、弟子たちは主イエスの語られる言葉がまだ分かっていませんでしたし、さらに『殺される』という言葉に耳を傾けようともしませんでした。なぜなら、主イエスの言葉が弟子たちの思惑にはふさわしくなかったからです。ここで私たちは主イエスの孤独を感じます。

当時、弟子たちが夢中になっていたことは、“誰が一番偉いか”というこの世の価値観でした。自分がどうすれば偉くなるか、どのようにすれば人の上に立つか、どうすれば人より認められるかということだったわけです。主イエスはいよいよ十字架という、最も惨めな形で命を捨てようとしているのに、3年間もずっと傍で主と共に生活していた弟子たちは、主イエスがローマを滅ぼしイスラエルの王になったら、誰が一番偉いポストに着くのかということに心を奪われていたのです。

そのような弟子たちの前に、主イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせられます。そして次のように言われました。「わたしの名のためにこのような

子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくてわたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。(37節)」

無視されやすい存在、助けがなければ生きていけない存在、ですから、小さな者の代表が子どもです。それゆえ、私たちは子どもを通して父なる神の愛を教えられますし、子どもたちを通して父なる神の前でどうあるべきかを学ぶことができるのです。

疑わず天国の存在、神の存在を心に受け入れることができるその純粋さと自分の弱さをよく知っている謙遜な子どもたちを神は喜んでおられることでしょう。だから、子どもは宝物なのです。主イエスは“子どもたちを通して天国について教えてもらいなさい。祈りを学びなさい。信仰のあり方を学びなさい”と語っておられるのです。そして、この小さい一人の存在を大切に受け入れることなしに、神の国に入ることはできないのだと示しておられるのです。

愛する皆さん、主イエスの前には、偉い人は一人もいないはずです。ただ、赦された罪人たちがいるだけです。私たちはみんなが主イエスの十字架の贖いによって赦された罪人だからです。

ですから、常に自分を小さな者として神と人の前で謙虚に振る舞い、常に周りの小さな存在を大切に受け入れることです。その時、教会共同体は天国に変わるはずです。そして、忘れてはならないことこそ、神の国においては小さな者が最も尊ばれるという事実を知ることです。ハレルヤ!




2024.5.5 小さな泉の恵み

 今日は、子どもの日です。皆さんの子ども時代に皆さんの人格形成に影響を与えた人はどなたですか?

3月初旬に秩父で単身生活している兄が階段から落ち骨折するなどの事故があり、秩父に行き兄と生活し、台所や部屋を片付けて自立生活ができる体制を整えました。

兄は、高校を卒業し日本で最初にできた写真専門学校に入学し、NHKのグラビア写真を撮るなどの仕事をしたのちに、パリに行き約7年間ヨーロッパに滞在しました。

日本に帰国してからは、写真の機材を背負いながら、北海道の稚内から九州の佐多岬まで約2,500㎞を約3ヶ月間で歩きとおしました。その後東海自然歩道を東京から大阪まで行くなど、度々日本の国内外を徒歩の旅行をする自由人でした。

写真以外にフランス語で歌うシャンソンコンクールに毎年のように出場し、3位に入賞した頃は、赤坂のレストランでオンステージに招かれたり、高齢者事業所で歌声や大正琴のボランティア活動を行ったりしていました。60歳からは、著名な監督の演劇スクールに参加し、俳優としてスカウトされ、ある劇団に所属していました。

兄と共に約1ヶ月間生活をして、少年から青年期に兄と共に聞いた音楽や映画やテレビドラマのことなどを語り合いました。兄の影響でビートルズをデビューから聞くことができ、カンツオーネやシャンソン、そして、パブロ・カザルスのバッハなど、兄は、私の人格形成に大きな影響を与えていました。

「兄弟いつまでも仲良く」は、父の天に召される前の最後の言葉でした。「互いに愛し合いなさい。」主のみ言葉を思いを重ねつつ。

                          S.S.兄