GWにはベトナムへ行ってきたのですが、案の定帰国後に胃腸炎を発症してしまい、珍しく職場を休んで数日間布団で横たわっていました。職場では終電まで会議で激論を交わしたり、陸上の練習に励んだり、大学や職場の仲間と遊ぶ忙しい日々も充実していますが、こうしてゆっくり最近の出来事や思いを振り返りながら文字に起こすのも悪くないと思い、この尊い機会を与えてくださった神様に感謝します。
さて、今年4月から外務省に勤務している身として、自問自答を続けていたことがあります。その一端を共有させていただきます。外務省の入り口前では毎日市民団体が戦争反対のプラカードを持って叫んでいます。正直、うちの前ではなく当事国の大使館に行ってほしいと思いますし、怖いし何よりも仕事の邪魔です。しかし、なぜ戦争が起こるのかも考えさせられます。憎悪、欲望?これが模範解答だとされるところでしょうか。しかし、私はこれに「愛」を追加したいです。
働きすぎで頭が狂ったかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、詳しくは次回の小さな泉で共有したと思います。
自分の大切な人が突然、見知らぬ人に刃物を突きつけられるという状況は、誰もが考えたくない恐ろしい場面です。そのような緊急事態において、手元に銃があれば、多くの人は迷わずに愛する人を守るために発砲するでしょう。ただし、銃を使用する際は、相手を殺すことではなく、攻撃を食い止めることが目的です。もちろん、このような行動が結果的に相手に重傷を負わせたり、死亡させたりする可能性も考えられます。一方、その場に攻撃者の愛する人がいて、武装していた場合、あなたとその人の間で銃撃戦が始まることになります。これが戦争です。
国家規模だと、太平洋戦争では、共産主義の脅威から自国民を守るために満州国が建国されました。また、国家の安全を確保し、石油や食料供給等の国民の生活を維持するために太平洋戦争が行われました。特攻隊員も、自国を守るために敵の戦艦を攻撃しました。これらの行動には様々な要因が絡み合っていますが、個々の行為には大切な人を守りたいという「愛」が垣間見えます。
我々には攻撃や死の危険から愛する人を守る権利があります。その場から逃れられない場合に道理にかなった範囲で守ることを聖書は禁じていません。とはいえ、戦争になり得る状況を避けるために最善を尽くすことを神様は望んでいらっしゃいますし、私の働いている外務省の志すところであると考えます。
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