『タリタ、クム。起きなさい 』 (マルコによる福音書5:21-24,35-43)
「ロレンツォのオイル」という映画をご覧になったことがありますか。ひとり息子であるロレンツォの難病を治す治療法のない中で、医学的知識も全く無い両親は、様々な困難を乗り越え、難病で苦しむひとり息子を救おうとするただ一つの望みに燃え、自らの力で治療法を発見することに成功するという感動的な映画でした。両親が治療法を見つけた時には、息子のロレンツォの病状を回復させるまでには至りませんでしたが、同じ病気をもっていた子どもたちを救うことができました。その映画を見ながら、何度も涙したことを覚えています。
今日の本文にも重い病気にかかっていた最愛の娘を病気から癒してあげたいという執念をもって主イエスの前に駆けつけてきた一人のお父さんの姿が描かれています。そのお父さんの名前は、ヤイロ。彼はユダヤ教の会堂の「シナゴグ」の会堂長でした。おそらくヤイロは主イエスがどのようなお方であるかをよく知っていたことでしょう。“どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。(23節)”という言葉がその証しです。ヤイロの言葉と行動からは主イエスへの揺るがない信仰がしみじみと伝わってきますし、その信仰は今までの体験と知識によるものであったことが分かります。
ところが主イエスと共にヤイロの家に向かっていた途中、娘が死んでしまった知らせが届きます。“もう、死んでしまった。いくら主イエスであっても死んだものを復活させることはできないんだ。”という人間的常識がヤイロと周りを取り囲んでいたその時でした。主イエスは人間的常識を覆す言葉を言われます。「恐れることはない。ただ信じなさい。」(35節)…信仰において人間的な常識に立って限界を設けることは真の信仰ではありません。いつも確認しているように、“信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること”だからです。
主イエスは泣きわめいて騒いでいる人々の間を通り、死んだ娘のところへ行かれます。そして娘の手をとって「タリタ、クム。少女よ、起きなさい」と声をかけられます。「タリタ、クム」とは、「Good morning」のように、お母さんが朝子どもを起こす時に使うやさしい言葉です。すると、死んでいた娘はすぐに起き上がり、主イエスによる新たな命を生きることになります。主イエスこそ、病だけでなく、死をも治めておられる真の神であることが示された出来事でした。
まさに死による絶望、嘆きと涙が支配していたその場所に主イエスが来られたことで、死の場所が命の場所に、絶望が希望に、嘆きと涙が喜びの賛美に変わるのを見ることができます。
主イエスは今も、死の不安と恐れに捕らわれている私たちを訪ねられ、十字架の愛と復活の命に満ち、「タリタ、クム」と呼びかけられます。今こそ、主イエスの呼びかけに十字架と復活の信仰をもって応答することです。あなたの起き上がる信仰によってイエス・キリストがあがめられますように。