2019年5月28日火曜日

2019.5.26 牧師室便り


~ 命のある限り主を ~

  「命のある限り、わたしは主を賛美し、長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。」(詩編146:2)

  先週、金沢教会で執り行われた故北芳正先生の「お別れの会」に、二人の姉妹方と共に参列して参りました。  
  いつも「ハレルヤ」と明るく声をかけられ、命が尽きる日まで神の愛を伝え続けておられた北先生のお姿を覚えます。金沢教会出身で、11歳の時、お母様とお姉様の死を目の当たりにし、生と死の問題に悩んでいた先生が主イエス・キリストの十字架の贖いと無条件の愛に触れ、クリスチャンになり献身されたとのこと、また牧師として5つの教会で仕え、人生の最後の最後まで福音伝道者として貫かれた話を耳にしながら、大きな感動と恵みをいただきました。北先生は、私たち小泉町教会のためにも無牧の時期と交換講壇の時、快く支えてくださいました。そして最後にはお体を献体され福音伝道者としての人生を終えられました。まさに、“命の有る限り、主を讃美し、長らえる限り、主をほめたたえられた”北先生の人生であったと言えましょう。北先生の天にある祝福を祈ります。
  本日は、宝田豊先生をお迎えして主の御言葉をいただきます。宝田先生は1976年大学卒業後、渡米され、1979年からテキサス州ダラスで「第一バプテスト教会」を開拓され、1984年からはノーステキサス日本語バプテスト教会の主任牧師として日本人伝道に力を注がれました。そして34年間の米国での牧師としての働きを終えられ、2013年からキリストのための懸け橋となる新たな召命をいただき、現在に至るまで対外伝道牧師として日本を中心に世界を駆け巡りながら福音伝道に励んでおられます。宝田先生のメッセージを通して、父なる神の愛に触れ、福音伝道の恵みにあずかりますように祈ります。そして神の家族お一人お一人も「命のある限り」主を賛美し、恵みを宣べ伝えることを心がけるひと時といたしましょう。シャローム!



 

2019.5.26 本日の宣教

『 ひとりの魂 』  (マタイによる福音書9913)


黙示録の7つの教会の一つであるエペソの教会に、「あなたは初めの愛から離れてしまっている」、「悔い改めて初めのわざを行いなさい」と促されています。ところで、現代の教会は、大丈夫でしょうか。信仰の初心から外れてしまっているようなことはないでしょうか。聖書を神の言葉と信じ、その教えに従い、互いの為に祈り、聖霊の導きを求めつつ、神の御心を全うする群れとして歩んでいるでしょうか。そして、イエスの残された大宣教命令に従って伝道しているでしょうか。

クリスチャンがこの世界に今も生かされているのには理由があります。それは、わたしたちによって他の人たちが神の救いに導き入れられるためなのです。そのために、教会は伝道するのですが、今回の箇所でイエスが教える伝道の基本原理は個人伝道にあります。ここにある真理は、ひとりの魂の救いが、結果として多くの人を救うことになるということです。イエスは、収税所で多くの人の中からマタイを選び出し、彼の家に客として入られました。それによって、普段、人々からは疎んじられ、宗教心からは程遠いマタイの仲間たちも同席することができたのです。

ただ、最後に「義人を招くためではなく、罪人を招くためである」とイエスが言われたように、伝道すればだれでも信じるということにはならないことも知らなければなりません。イエス・キリストが、全世界の人の為に十字架にかかられたとは、聖書の教える真実です。ところが、多くの人は、イエスの十字架による救いを必要と感じていません。それは、自分の内にある罪を認めようとしないからです。自分の内にある醜い心を認めることをしないので、神を必要としないのです。しかし、自分の心の醜さを知り、自分の罪人であることを認めた時、イエス・キリストの十字架の価値を知るようになるでしょう。

当時の取税人は、人々から罪人のように考えられていました。彼らも自分の醜さについては自覚していたでしょう。だからこそ、そこで語られたイエスの言葉は、彼らの心に深く浸透したに違いありません。わたしたちも、多くを得ようとするのではなく、一人の魂の救いを大切に伝道していきましょう。そこから、さらに多くの魂の救いを体験させて頂けるのではないでしょうか。
                                                                  宝田 豊 牧師
 


 
 
 

 

2019.5.26 小さな泉の恵み



 愛する小泉町教会のみなさん、こんにちは。きのうはバザーお疲れ様でした。きっとものすごく楽しかっただろうなーと思い描いています。 さて、私この512日(日)、連盟の大井バプテスト教会に転入会を承認していただき、大井の人になりました!教会員手帳を確認すると、小泉町教会への転入が2014511日!本当に5年キッカリ、小泉町教会に教籍を置かせていただきました。
 最初はめたらやたらな人間で、ご迷惑もたくさんおかけしましたが、しみちゃんと呼んで愛していただき、ともに神を礼拝し、みことばを学び、楽しく奉仕させていただいたことは忘れません。思い出はありすぎて、何が一番かなと考えているうちに締め切りに遅れそうになりました。


  みなさんのお祈りのおかげで、引越し先では大井教会というすばらしい教会にまっすぐに導かれました。と思ったらなんと、浅野姉のご友人とこの大井でお会いできて、まさに今日宝田先生と一緒にそのお二人が小泉町教会に来ておられるんですね!詳細は交わりの中でじっくりとお楽しみください。まことに神様は人との出会い、つながりの恵みをくださいます。是非、今日のピクニックをみなさんで喜び楽しんでください。そーいややっぱ一番の思い出は、転入会式の次の主日のピクニックじゃないかなぁー。本当に、ありがとうございました!これからは一味新しい交わりとなることを楽しみに、東京からお祈りしています。
                                           S.M姉
 

2019年5月24日金曜日

2019.5.19 牧師室便り


~天の本国を見つめながら~

「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。」(詩編13712)                 
 先週の15日~16日の二日間、私たちの教会を会場として中国人伝道集会が開かれました。2030人ほどの集会でしたが、母国語の中国語でメッセージを聞き、讃美し、祈ることで、集われた皆さんは大きな励ましを受けたことでしょう。外国人の皆さんにとって国を離れて日本、富山の地に定着し、長い年月が流れて言葉の壁と文化の違いに慣れるのはなかなか難しい課題であるのは言うまでもありません。昔、バビロンで捕虜としての生活を余儀なくされたイスラエルの民がエルサレム神殿礼拝を思い起こしながら涙で讃美していた姿が重なって見えましたね。わが教会が皆さんに少しでも慰めと励ましの場を与えることができたことを嬉しく思います。


さて、先日は娘のパスポートの期限が切れて、新潟の領事館に行ってきました。3時間を超える一直線の北陸自動車道を走りながら、ふと、“いつまでこの道を走らなければならないのだろう!”という思いがしました。恐らく日本での生活を終える日まで、何度もパスポートとビザ更新のために領事館と入国管理局に行き来することになるでしょう。これは私たちが世界どこの国に行っても同じく経験すべきことです。・・・私たちは天国を故郷とする天国人です。天国の民となれば、二度と更新の手続きは要りません。しかしながら、本国を忘れているような日々を過ごしていませんか。ぜひ、天国人としての信仰を確かめつつ、天を見つめながら賛美の声をあげたいですね。

来る69日は教会の誕生日であり、聖霊によって言葉が通じ合えるようになったペンテコステです。昨年同様、各国の言葉による礼拝をささげたいと思います。願わくは、小泉町教会のペンテコステ礼拝を通じて神の家族の皆さんが天国を垣間見ることのできる恵みに与りますように・・・。シャローム!

2019.5.19 本日の宣教

『我、全能の父なる神を信じる』 (イザヤ63:16、エフェソの信徒への手紙3:1721)

 使徒信条はイエス・キリストを通して啓示された神を「全能の父なる神」と紹介します。神について聖書が用いている表現はたくさんありますが、その中から、初代教会は二つを選んで使徒信条に入れました。それが「父」と「全能者」という表現です。
 
 主イエスは御言葉を語る中で、神について「天のわが父」と呼ばれました。そして祈られる時には、「アッバ、父よ」と、ユダヤ人の子どもたちがお父さんを親しく呼ぶ時に使っていた呼び方(現代の日本語にすると「パパ」に当たる)で、神を呼び祈られたのです。すなわち、主イエスと天の神は「父と子」としての親しい交わりをもっておられましたし、そのような神との関係を弟子たちにも勧めておられたのです。これが伝統となって初代教会の信徒たちは、神を「アッバ」と呼ぶようになったのです。

主イエスにとって「父なる神」という関係は、全生涯を通して現れています。まずは、12歳の時にエルサレム神殿での「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前です」(ルカ2:49という言葉、また、洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられ、メシアとしての公の生涯を始められる時に、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1:11という父なる神の御声が聞こえました。そして十字架の上で最後に叫ばれた言葉も、「父よ。わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)でした。主イエスにとって父なる神は働きの源であり、力でありました。父なる神と御子との関係は、私たちの思いをはるかに超える親密さと愛そのものでした。

そして使徒信条は、「父なる神」というイメージに、「全能の父なる神」という言葉がつけられています。旧約聖書で「全能の神」は「エル・シャッダイ」という言葉で、「全能」という言葉は、何でもおできになる、また御業をなすための力をもってすべてを支配されるお方を意味します。
それでは、使徒信条を通して告白されている全能なる神とはどのような方でしょうか。天地を創造された創造主なる神が、罪の中で滅びるべき人類の罪を赦し救うために独り子を遣わされ、愛する御子を十字架にかけられた、そして愛する御子を死者の中から復活させられた。そして、その御子を信じて罪赦され神の子とされた人々を永遠の御国へ導き、永遠の命を与えられる。この神こそ、全能なる神であると告白しているのです。ですから、父なる神の全能さは、ただ圧倒的な力を指すのでなく、神の御心と御業、神の愛する子どもたちのために成し遂げられる愛の力であります。そして、父なる神の全能の力は、ただ今、神の子どもである私たちのためにも等しく成し遂げられることを覚えていただきたい。この全能なる神を、「アッバ、父」と呼ぶことができるのはいかに幸いなことでしょうか。ハレルヤ!

2019.5.19 小さな泉の恵み




イースター、墓前礼拝、納骨式を愛する兄弟姉妹と共にささげ、感謝でいっぱいです。

イエスは言われた「わたしは、復活であり命である。私を信じる者は死んでも生きる」(ヨハネ1125)、「わたしは道であり真理であり命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ146)

夫が天に召されてから、さびしさと 悲しさと 空しさと 心細さ でいっぱいの毎日でした。そんな時、長い間教会を離れて礼拝を忘れていた私に 閔牧師が大変熱心に毎週メールを送ってくださり、教会へと導いてくださいました。また、教会の兄弟姉妹も暖かく迎えてくれました。

神の愛と恵みに感謝です。アーメン
                       N.Z姉

2019.5.12 牧師室便り


~兄弟、仕える者、僕になる~

「わたしの様子については、ティキコがすべてを話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕です。彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼によって心が励まされるためなのです。」(コロサイ478

 今月のリビングライフのテキストの「コロサイの信徒への手紙」の結論の部分には、使徒パウロを支えていた同労者たちの名前が次々と登場します。“ティキコ、オネシモ、アリスタルコ、マルコ、ユスト、エパフラス、ルカ、デマス・・・”その一人一人の名前を挙げながら、パウロが感じたであろう喜びと感動は言葉では言い表せないものであったでしょう。

一人の忠実な同労者をもっている人は輝く宝物を持っていると言えます。しかし使徒パウロはそのような宝物を両手の指でも数えきれないほど、多く持っていた幸いな人でした。実のところ、パウロがコロサイの信徒への手紙を書いていた時期は、ローマの牢につながれていた時でした。福音のために命をかけて走り続けてきた伝道者でしたが、今彼は肉体的な束縛と健康的な弱さ、霊的な寂しさや失望などで疲れ、落胆してもおかしくないような状況に置かれていました。しかし神は時に適って必要を満たされるお方。愛なる神はパウロを助け励ますために、宝物のような同労者たちを彼のそばに置かれ、力を得させてくださいました。彼らは「時には兄弟として、時には仕える者として、時には僕として」パウロを側で支えていました。彼らの忠実な献身によってパウロは元気づけられ、主イエスの教会と福音伝道にますます力強く励むことができたのです。

私たちの生きている世界は、仕えるよりは仕えられることを、慰めるよりは慰められることを求める人で溢れています。しかし、私たちの神は、仕えること、慰めること、執り成すことを喜ぶ人を望まれます。5月から続く諸行事を前にして、パウロの同労者たちのように、お互いが「愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕」になることを喜びとしたいものですね。神が私たちの群れを祝福してくださいますように・・・。シャローム!