2022年3月30日水曜日

2022.1.16 小さな泉の恵み

 

妻の誘いにより水曜祈祷会に参加しています。昨年末は、ヨブ記を読み進めていましたが、38・39章で主なる神が、ヨブに気象や天体を含めた自然界の支配者について問い詰める場面があります。これに対して神に義を尽くしていたヨブは、反論の余地はありませんでした。

現在、地球規模の気候変動により熱波や豪雨、干ばつなど深刻な気象災害の頻発や冷水を好む秋刀魚や鮭等の漁獲減等による食料危機が叫ばれています。私も猫の額ほどの田畑で水稲、畑作物、野菜等を作付けしていますが、昨年は梅雨明けが早く、少雨により小豆等の播種が遅れました。その後、今度は大雨により畑は湛水し排水対策を行い、水田では寡日照によるいもち病発生で防除を行いました。一般的に農作物の生育は天候に左右されますが、昨年は、水稲では屑米が多くなり減収しました。近所のお百姓さんは、挨拶代わりに天気の話をしますが、「天気だけはどうにもならんけえのう。」と自分も含め諦め感があります。

冒頭のヨブ記を通じて、我力による限界を感じると同時に、人知を超えたところに神の采配をも感じました、本年は自然の恵み(=神の恵み)を少しでも多く頂けるよう、信仰をも深めていきたいと思います。

                                           K.K 兄

2022.1.9 牧師室便り

 ~ 御言葉を愛し、御言葉を聞く生活を ~

「わたしはあなたの戒めを愛し、それを楽しみとします。わたしはあなたの戒めを愛し、それに向かって手を高く上げます。わたしはあなたの掟を歌います。あなたの僕への御言葉を思い起こしてください。あなたはそれを待ち望ませておられます(詩編119:47~49)。」

 2022年の最初の一週間を恵みのうちに過ごされたでしょうか。わが家は2022年の最初の家庭礼拝を献げました。できるだけ、週一回は必ず、家族4人が火曜日の夜9時に集まり、賛美と祈り、また過ぎ去った一週間を振り返りながら、神の子どもとして相応しく過ごせたのか、嬉しかったことや辛かったことなどを分かち合い、最後は御言葉を聞くことで思いを新たにする時間となっています。

 牧師であり父親として、子どもたちに常に訴えることがあります。それは、「日々の生活の中でイエス様の声を聞くことを習慣化していくことと、御言葉を反芻すること」です。とりわけ長男が2月には韓国での大学生活のために旅立つため、御言葉にさらに親しみ御声に聞くことを身に着けることを頼んでいます。息子の人生の中で初めてとなる一人暮らしになるので、さまざまなところで予想できないことに遭ったり、様々なことのゆえに戸惑ったりすることになると思いますが、その時こそ、御言葉に親しみながら御言葉に聞くことに命があると思うからです。もちろん、娘においても、毎朝の学校に行く20分ほどの時間を神の臨在を感じ、イエス様との対話の時間として楽しく過ごしてほしいと願っています。

 愛する神の家族の皆さん、この一年、御言葉を愛し、御言葉を聞く生活に今まで以上に心がけましょう。なぜならば、御言葉の上に立つ生活をする人はどんな出来事が起きてもぶれることなく落ち着いて生活することができるからです。たとえ、コロナパンデミックが終息できず、それ以上のウィルスが出現しても、大地震が起きて私たちの生活の基盤が揺れ動いても、世界的な経済危機や混乱に巻き込まれても、健康を失い病に苦しんでも、私たちを支え生きる希望と力を与えてくれるのは、主の御言葉しかありません。日々、主の御言葉を愛し、御言葉を待ち望む中で、人知を超えた平安と希望、恵みに満たされる神の家族お一人お一人の一年でありますように…。シャローム!


2022.1.9 本日の宣教

 『 主が望まれる教会① 』~エフェソ教会①~   (ヨハネの黙示録2:1~7)

「しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」(黙示録2:4~5)

使徒ヨハネはローマのドミティアヌス皇帝のキリスト教会への迫害が行われた時にパトモス島に捕えられていました。しかし主イエスは、捕らわれていたヨハネに終末へのビジョンを教えてくださいます。とりわけ小アジアの7つの教会への啓示の御声を書くようにと命じられます。ここで「7」という数字は聖書の中で完全数であるため、7つの教会は初代教会を代表する7つの教会を意味していて、また、歴史の中で立てられていた教会、それに加え、これから立てられていく世界中の教会を意味しているものであるでしょう。だからこそ、私たちは7つの教会に向けられている主イエスの御声を通して、今現在の教会向け語り掛けられる御声を聞かなければならないのです。

主イエスは、最初エフェソ教会に向け称賛の言葉を語られます。「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っている・・・、あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。」(2:2、3)      エフェソ教会は、使徒パウロの2次、3次の伝道旅行の時、最も長い時間をかけて福音を教えた教会でした。エフェソは政治、商業、宗教における小アジア最大の都市で、「小アジアの花」と呼ばれるほど栄えていた町でした。エフェソ教会も、小アジアの中心教会として様々な役割を担っていて、多くの迫害と試練に遭っていて、主イエスはエフェソ教会の長年に亘る「行いと労苦、忍耐を知っておられる」と言われます。「主イエスが知っておられる」、キリスト者にとって、この言葉ほど力になる言葉はないでしょう。ここで、「疲れ果てることがなかった」とは、実際、エフェソの教会が耐えられないほどの困難に遭わされていたことを指しています。いろいろな試練に遭いながらも、神と教会のために最善を尽くして仕えている教会と信徒たちの労苦と働きを主イエスが知っておられることはいかに幸いでしょうか。

続けて主イエスは、エフェソ教会が「悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。」と称賛されます。当時のエフェソは、至る所に偶像が立てられていて、様々な偽りの教えで満ちていた町でした。そんな中で、エフェソ教会はにせ使徒や偽りの教えに対してしっかりと分別し見抜くことができるほど、揺るがない信仰をもって奮闘していたのです。その奮闘ぶりを主が知っておられることはいかに素晴らしいことでしょうか。そのために、彼らはしっかりと御言葉を学び、真理の上に立つ生活を心がけていたのです。

しかし主イエスは、エフェソ教会が「初めのころの愛から離れてしまった」と厳しく責めておられます。「愛」は主イエスが教えられた最も重要な戒めであり、至上命令でありました。聖書は、「あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、愛がなければ、無に等しい」ことを教えています。神の家族の皆さん、愛のない礼拝、愛のない奉仕、愛のない言葉、愛のない施し、愛のないあらゆる事柄は神に喜ばれませんし、命がありません。主イエスは、愛なしで行うすべての奉仕や働きを悔い改め、初めのころの愛に戻らなければならないと叫ばれます。そうです。愛がなければ、その他のすべては無意味になるのです。・・・あなたの信仰生活の源は何でしょうか。愛の感動によってなされているでしょうか。主イエスが求められるのは愛です。主に初めて出会った時の愛による感動、愛の心を取り戻すことです。主イエスが望まれるのは過去も、現在も、未来も一貫しています。愛を回復しましょう。ハレルヤ!


2022年1月4日火曜日

2022.1.2 牧師室便り

 ~ 十字架作り ~

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)

 明けましておめでとうございます!!!2022年の神の家族お一人お一人の歩みが生きた礼拝者として、御手の中で守られ祝福されますように…。

 昨年のクリスマスを準備しながら、村上兄に牧師からのプレゼントを考えている中で思いついたのが、十字架を直接作って贈ろうということでした。そこで早速ホームセンターで木材と接着剤、ニスなどを購入し、制作に取り組みました。最初は壁にかけるための大きいサイズの十字架を作ったのですが、残ってしまった木材を用いて小さな十字架も作ってみたところで、知らない内にいろいろな形の十字架を完成することができました。

 そこで、心に浮かんだ思いが、「コロナ時代を生きる神の家族全員に十字架をプレゼントしよう」ということだったのです。一人一人の神の家族の顔を浮かべながら、それぞれが抱えている重荷、祈りの課題などを黙想しながら、壁掛け用の十字架、手で持って祈る時に用いる十字架、また自由に用いる十字架、色がついている十字架、天然の木色の十字架など、皆さんが自由に選べるように作ることができました。

 もちろん、以前から話してきたことですが、形としての十字架に何か特別で、神秘的な力があるわけではありません。形が信仰の対象になることはキリスト教信仰においては偶像崇拝になってしまう恐れもあります。大切なことは、神の家族の2022年の歩みの中で、十字架を見上げ、十字架を手にして祈ることによってイエス・キリストの十字架の愛と恵みが自分のためであったことを実感していただきたいということです。

 とりわけコロナ時代がいつ終わるか分からない今、健康の面、経済的な面、人間関係の面など、神の家族が味わう痛み、苦しみの中で、主イエスの十字架をもっと身近に体験できるようになり、十字架と復活の証人としての使命を果たすことができますように…。シャローム!


2022.1.2 本日の宣教

 『 自分の十字架を背負う② 』(マタイによる福音書16:24~27)

「それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ16:24)

「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」…。この御言葉を、私たちはどのような思いで受け止めるべきでしょうか。ともすれば、私たちは、神からの祝福は受けたいけれども自分を捨ててまで、十字架を背負ってキリストに従うのは難しいし、これは主イエスからの特別な召命を受けた献身者にだけあてはまるのであって、自分のような一般のクリスチャンとは関係のないことだと思っている人も多いのではないでしょうか。

それでは、ここで「自分を捨て」とはどういうことでしょうか。これを一言で言えば、「今までの自己中心であった生活をあきらめて、主イエス中心の生活をしなさい!」ということになります。人は誰でも、心の王座に自分が座っていて自己中心に人生を生きています。しかし、主イエスに従おうと決めた人は、人生の王座から自分を引き摺り下ろして、その王座を主イエスに明け渡すのです。自分が中心であった時は、自分の欲望に従って自分の腹を満たすための生き方しか考えなかったし、それだけしか知りませんでした。しかし、救い主イエスに出会い、主イエスを心の王座にお迎えしてからは主イエスの御心に従って、神の国と神の義を優先するように変わり、神の愛に満たされることで満足することになるのです。・・・そうして、私たちは主イエスの十字架の後に従うことができるのです。

次に主イエスは、「自分の十字架を負い、そしてわたしに従いなさい」と語られます。ここで主は、私とあなたが背負うべき十字架とは、一人ひとりの固有のものであって、それぞれが違うと言われていることを覚えましょう。つまり、すべての人が十字架を背負っていて、自分だけに与えられた固有の十字架があり、周りの人と比較する必要はないのです。しかし、時々私たちは、自分が背負っている十字架をとても重く感じ、あまりにも大きくて背負えないと思ってしまいます。その時私たちは、“神は何で私だけにこんなに苦しい十字架を背負わせたのか”とつぶやくのです。

皆さんはいかがでしょうか。皆さんが背負っている十字架があまりにも痛く苦しいため、神様につぶやいてはいませんか。…しかし皆さん、確かなことは、わたしたちはその十字架に押しつぶされてしまう事はないということです。イエス様は、必ずその十字架を背負うための必要な力をも備えてくださるし、既にその力が与えられていると語っておられるのです。心配することはありません。思い煩う必要もありません。一切を主イエスに委ねて、信頼していくことです。そうする時に私たちはキリストが成してくださる、不思議な御業を体験することになるでしょう。

愛する神の家族の皆さん、皆さんはどんな十字架を背負われているでしょうか。あなたが背負っている十字架のことで辛く苦しい時を過ごしていませんか。求められるのは、 今までの自己中心だった人生の主導権を主イエスに明け渡すことから始めることです。すなわち、主イエスの前であなたが死に、主イエス様の命に満たされて生きることです。願わくは、神の家族の今年の歩みが、隣で歩まれる主イエスに励まされながら、各自に与えられている十字架を背負って、主イエスの時に適った恵みと導きをいただきますように…。ハレルヤ!


2021.12.26 牧師室便り

 ~ 互いに感謝の拍手を!!! ~

「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。」(フィリピ1:3~4)

一年間の52週の主日礼拝が御手の中で祝福され恵まれたことを感謝します。コロナ下という時代を歩む中で神の家族の支えがあって今日の日を迎えることができました。本当にありがとうございました。

コロナパンデミック2年、私たちの生活は大きな変化に追われながら、落ち着かない日々を歩んできましたね。希望の兆しが見えていると思いきや、変異株が繰り返し現れたことで、一年中マスクを外すこともできませんでした。誰よりもかわいそうだったのは、触れ合いの中で様々なことを学びつつ成長していくはずの学生たちだったかなと思います。実際、娘も中学生になったけれど、学校では一度もマスクを外すことなく、同じクラスの子らと顔と顔を合わせて時間の流れるのも忘れて、楽しくしゃべったり騒いだりするという思い出を作るチャンスを、失ってしまったことは寂しいことです。

ふり返ると、否定的なことしか残ってないような気がするかもしれませんが、インマヌエル(神、我らと共におられる)の主が私たちの傍らで共に歩まれ、守り、助けてくださったことを思うと、賛美せざるを得なくなります。また、愛する神の家族の皆さんとの執り成しと愛の交わりに支えられ守られたことは言葉では言い表せない感謝でいっぱいです。2021年の最後の主日礼拝、互いに感謝の拍手を送りましょう!“あなたがいて、わたしもいます。”シャローム!”


2021.12.26 小さな泉の恵み

 ~灰色の断想~

誠実、無欲、色で言えば真っ白な人、  不実、貪欲、色で言えば真っ黒な人、そんな人は現実にはいません。いるのは、そのどちらでもない灰色の人でありましょう。 比較的白っぽい灰色から、比較的黒っぽいのまでさまざまではありますが、とにかく人間は、灰色において一色であります。その色分けは一人の人間においても一定ではなく、白と黒の間をゆれ動いている者同志の分別に過ぎません。よく見ればお互いに灰色であります。灰色は、明るくはありませんが暖かい色です。人生の色というべきでありましょう。

藤木正三著 「灰色の断想」より

藤木正三先生は、牧師で教育者でもあった方で、何冊もの著書を残しておられます。  イエス様が、私の心の扉をノックされる音に気付かせてくださった恩師です。人とのかかわりの中で、疲れたり落ち込んだりした時、この文章を思い出すと何だかほっとします。真っ白なのは神様だけです。  

                            S.Y.姉