2021年2月26日金曜日

2021.2.21 牧師室便り

~ 真剣に地球の環境回復に動き出しましょう ~

「そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。(ルカによる福音書2111)」                                       
 

先月の歴史的大雪を経験してから、もう二度とこのような大雪は味わいたくない、この冬にはこれ以上大雪はないだろうと思っていた矢先に、再び襲ってきた大雪に驚きながら慌ただしく過ごした先週の日々でした。神の家族の皆さんも驚いたことでしょう。アメリカでは国の面積の70%以上が歴史的寒波と大雪と竜巻に覆われ、人も、動物も命の危機に追い込まれるような先週でした。人間の欲望がもたらした地球温暖化による世界規模の異常気候は人間の予測をあざ笑うかのように程度を増してきています。
 

それだけではなく、日本の国は東日本大震災の後、最も大きな地震に襲われました。10年前の大地震の余震と言われていますが、定かではなく大地震の前兆と言う声もあります。また富士山の噴火が近いという噂も広がっています。本当にいつ、どこで、どのような自然災害が起きてもおかしくないような現状です。
 

自然災害の前には常に受け身になっている人間側です。いろいろと準備を整えているとしても、人の予測と準備をはるかに超える出来事が、次々と襲ってきている地球村です。しかし、地震や火山の噴火などは、人間側の努力とは程遠いことですが、地球温暖化やウイルスなどの災難には、皆が知恵と力を合わせることで、ある程度は対処できるでしょう。まずは、ゴミをなくし、エネルギー節約、CO2排出を減らすことなど、自然を守るための一歩を踏み出すことです。

近頃、明日何が起こるか全く知らない弱い存在であることを痛いほど知らされる私たちです。それでも、私たちはこの冬の厳しい力も、必ず春の暖かい風と共に終わりを迎えることを知っています。マラナ・タ、主よ、来たりませ!


2021.2.21 本日の宣教

 『 受難節はひとりで退かれる時 』マタイによる福音書1412142225)

 私たちは受難節の時を過ごしています。父なる神が私たち罪人たちを救うために独り子をこの世界に贈られ、その独り子が、罪人たちが背負うべきありとあらゆる苦しみを味わわれ、やがては十字架の上で死なれ陰府にまで下られるという驚くべき愛が示された40日間です。その40日間を私たち赦された罪人たち、イエス・キリストの苦難の道を黙想し、共に加わりながら過ごすことは大いなる恵みです。

 とりわけ今年の受難節は、新型コロナウイルスという未曾有の試練と共に訪れたため、さらに意味深く迫ってくるのではないでしょうか。いつか自分自身もコロナにかかるかもしれない、そうなったらどうすればいいだろうか、また、コロナによって苦しんでいる感染者の方々、その感染者の家族の苦しみ、感染者の治療にすべてを尽くしている医療従事者の方々のご苦労・・・、しかしいつ終わるか分からない状況の中で、私たちはどのように歩むべきだろうか。

 そんな中、示されたリビングライフのイエス・キリストの姿を黙想していると、今私たちに必要とされる御姿に目がとまりました。その姿こそ、「ひとり人里離れた所に退かれ祈られる」ことでした。とりわけ先週のテキストには「祈るためにただひとりになられる主イエス」の姿が際立って示されています。

 まず、主イエスは、親戚であり、信仰における同労者でもあったバプテスマのヨハネが暴君ヘロデ王に殺されたことを知らされた時、人里離れた所に退かれます。その時の主イエスの心境はいかがだったでしょうか。恐らく従兄であったヨハネが亡くなったことへの悲しみに覆われたことでしょう。それにヘロデ王への憤りも抑えきれないほどであったと思われます。尊敬し愛していた人が、不義の力によって殺されるということは耐えがたい悲しみですし、抑えきれない苦しみに陥るはずです。

 次に、五つのパンと二匹の魚で数万の人を満腹させるという奇跡を成し、人々から崇められ、王にしようとする群衆を後にして「ひとりで山に退かれる」主イエスの姿です。主イエスにとって最も人気と名声が高まっていた時点であったと思われます。主イエスがどこにいようと追いかけてくる群衆。霊的に、また肉的に渇きを覚え求めてくる群衆の姿を深く憐れまれ、必要を満たしてくださる主イエスに群衆は歓声をあげ、待ち焦がれていたメシアとして崇められるその時、普通の人であれば、自分自身を誇ろうと群衆に囲まれながら興奮を極めたはずです。

 しかし、主イエスは悲しい時、憤りが爆発しそうな時、誰も成し得ないことを成し遂げ人気と名声が最高潮に達した時、…早速、ひとり人里離れた所に退かれる…。その姿は十字架にかかる直前のゲッセマネの園へと続きます。

 そうです。ひとりになることを決心することこそ、受難節を過ごす私たちに求められる姿なのです。神の家族の皆さん、ぜひ受難節リレー祈祷表を用いながら、毎日神の前に単独者として手を合わせることを心がけましょう。とりわけ、今苦しみのただ中にある人々のために神の前に退かれる神の家族でありますように…。ハレルヤ!

2021.2.21 小さな泉の恵み

 

~夕暮れ時に

光がある人に、人は感動する~

 

 人は夕方6時を過ぎると寂しくなる生き物です。

 昼間は、仕事をしていたり、用事で忙しくしていたり、みんなとお茶を飲みに行ったりしてワイワイガヤガヤ。一見華やいだ様子に思えますが、みんなと別れて一人になった途端寂しくなってしまう。

 日本人にはこのようなタイプの人が多いように感じます。

 太陽が沈み、多くの人がそこはかとないむなしさを感じる。そんな瞬間に心が充実している人はハッピーです。満ち足りた人生を送っているのでしょう。

 どれだけ表面が輝いていても、ひとりになると無性に寂しくなるのは、本当の生き方、本当の役割が見つかっていないからでしょう。

 どんな状況に置かれても、生き方がほほ笑ましく見える人がいます。夕暮れ時に光がある人に人は感動します。

 生きていることのすばらしさを感じさせてくれるからでしょう。

 

                         樋野興夫著

                        ~「病気は人生の夏休み」から~

2021年2月16日火曜日

2021.2.14 牧師室便り

 

~ 恵みになるか、災いになるか ~


「苦しみに遭ったのは私には良いことでした。あなたの掟を学ぶためでした。」(詩編11971                                       

最近、神の家族のみならず、周りの方々から体調を崩されたことをうかがっています。恐らくコロナ感染への心の不安とストレスがたまっていることと、外での活動がなくなりほとんどの時間を家の中で過ごしているため運動不足のもあると思います。家の中でゆっくりと休みながら暮らすことはいいことだと思う私たちですが、実際のところ運動不足による体の衰えと憂鬱に陥りやすいと言われているのが現状です。

 

 聖書には、人の生活の中で起きる様々な出来事をどう見るかによって、「災いになるか、恵みになるか」が分かれると教えます。この世の人々は多くの場合、目の前に現れる出来事のままを見て、すぐ災いだとか祝福だとか判断してしまいます。たとえば、病気になったら災いであって、宝くじに当たったら祝福だと、事故に遭ったら災いであって、道でお金でも拾ったら運がいいというでしょう。そのような見方からすれば、確かに新型コロナウイルスとそれに伴う危機も、災いでしか取ることはできないはずです。

 

 しかし、いかがでしょうか。聖書は病気になった人が、その病気を通して主イエスに出会い、幸いな人に変えられ、その病気によって人間的傲慢が打ち砕かれ、謙遜を学ぶようになったと告白する声を聞きます。また、事故にあったり、人間関係に躓いたりするような状況で、苦しみに遭ったのは、私には良いことであったと賛美する姿を見ます。何より、主イエス御自ら鞭打たれ、十字架にかかるという苦難に遭われながらも、その十字架を愛の印に変え、復活の約束を示す道具として用いられます。それでは、今私たちを苦しめているコロナ危機をどう見るべきでしょうか。大切なのは、コロナ危機をその人がどう見るかによって、恵みになるか、災いになるかが決まるということです。神の家族の皆さん、コロナ危機があなたにとって恵みになり、信仰が成長するチャンスに変えられることを祈ります。シャローム!

 

2021.2.14 本日の宣教

 私は聖徒の交わりを信じます②  (一ペトロの手紙4:711)

 私たちクリスチャンを定義する言葉として、「赦された罪人」があると言えましょう。決して赦されることのない罪人であった私たちは、イエス・キリストが身代わりとなって、十字架にかかって死んでくださった贖いのゆえに罪赦され、神の子どもという新しい身分をいただいたのです。しかし、忘れてはならないのは、私たちが罪から解放され、神の子どもとされたのは、ただ一方的な主イエスの愛と赦しのおかげだということです。すなわち、主イエスの十字架の愛の血潮によって赦されてはいるけれども、私たちは依然として罪の中に生きている者、いつも弱く倒れやすい者、十字架の前に誇るべきものは何一つもっていない者が、私たちであるということです。

そのように、イエス・キリストによって罪赦された者たちが、主イエスの愛に感動し、主の御前に導かれ、礼拝するために集ったのが「教会」であるのです。だから、教会は、「赦された罪人たちの集い」であると言えるのです。すなわち、礼拝に集う私も、あなたも、あの人、この人、すべての人が主イエスに愛され、赦された者、しかし、まだまだ弱さをもっている存在であるということを、互いが認め合い分かち合うことです。ここにキリスト教会の命があり、聖徒の交わりの恵みの神秘があるわけです。

ユダヤ人たちが好んで使っている物語の中に、二つの頭をもつ子どもの話があります。あるお母さんが子どもを産んだのですが、その子どもは、体が一つで、頭が二つの姿で生まれたのでした。周りでは、この子を一人の子供に見るべきなのか、二人に見るべきなのかについて激しい議論が起こりました。その時、一人の賢いラビが次のような答えを出したのです。「お湯を片側の子どもの頭に注いだ時、他の頭の子どもが同時に泣くのであれば一人であって、もし泣かなければ、二人であると見るべきである」と。…この物語は、世界中に散らばっているユダヤ人たちは、どこにいても一つであることを確認するための喩えでした。たとえ散らばっていても、ある一人のユダヤ人が苦しんでいるとしたら、他のところにいるユダヤ人たちも、その痛みを共にしなければならないという、ユダヤ人としての交わりの豊かさを意味しているわけです。

私たちは、主にあって一つであると、神の家族だと、よく話し合っていますが、本当に主にあって一つでしょうか。隣人が喜ぶ時、共に喜び、泣く時に共に泣いているように過ごしているでしょうか。とりわけ終末を生きるキリスト教会における「聖徒の交わり」は、教会という枠を超えて、イエス・キリストが命じられた使命として、私たちの周りの疎外されている者、苦しんでいる者、また捕らわれている者、貧しい者、病気の者への交わりを広げることにあるでしょう。 

願わくは、「聖徒の交わり」を信じ期待する者として、主イエスが、「あなたの隣の最も小さい者のひとりにしたのが、わたしにしてくれたのだ」と言われたように、十字架を通して示された生きた交わりを、私たちの隣の最も小さい人々へと広げていく神の家族お一人お一人に変えられますように…。ハレルヤ!

2021.2.14 小さな泉の恵み

 

~解放~

 

イエスよ、わたしを解放してください。

 

愛されたいという思いから、

評価されたいという思いから、

重んじられたいという思いから、

ほめられたいという思いから、

好まれたいという思いから、

相談されたいという思いから、

認められたいという思いから、

有名になりたいという思いから、

 

侮辱されることへの恐れから、

見下されることへの恐れから、

非難される苦しみへの恐れから、

中傷されることへの恐れから、

忘れられることへの恐れから、

誤解されることへの恐れから、

からかわれることへの恐れから、

疑われることへの恐れから。

 

                          ~マザー・テレサの愛した祈り~

2021.2.7 牧師室便り

 ~ボンヘッファー牧師を思う~

 先週、韓国の母教会の後輩の姉妹からあるYoutube映像が届きました。その映像は私が尊敬してやまないドイツのボンヘッファー牧師が1945年ナチ政権によって殉教する前、処刑の約4ケ月前に婚約者のマリア宛に獄中から送られた詩でした。彼が書いた最後の詩として知られる「主の善き力に守られて」という詩にSiegfried Fietzが曲をつけた讃美歌でした。この映像が届けられた朝、その歌を聞きながら心の底から込み上げてくる感動を抑えることができませんでした。
 
 まさに、死を前にし暗闇と絶望に追い込まれながらも、神への揺るぎない信仰のもとで、人知を超えた平安と慰め、希望に満ちるキリスト者の姿を見ることができます。 
 
 実は、ちょうど本日の宣教の主題である「聖徒の交わりを信じます」という内容を準備しながら、ボンヘッファーの「共に生きる生活」という書籍を黙想していた私でしたので、不思議な神の導きというか、神の関わりを感じることができましたね。とりわけ今新型コロナウイルスによって疲れ果てている人々、また未来の見えない世界を生きる私たちに、何を希望とし歩むべきなのかについて勇気と知恵を与えるボンヘッファー牧師の言葉に心を合わせたいものです。シャローム!