2019年11月12日火曜日

2019.9.22 牧師室便り

~信仰のサビを取り除く~

 「かびが家屋の壁に広がっているならば、祭司は命じて、かびが生じている部分の石材を抜き取り、町の外にある汚れた場所に捨てさせ、…」(レビ14:39~40)

先週は、牧師館の給湯器の電源が消え、片方の壁のコンセントの電源が入らないということで、慌ただしく不便な時を過ごしました。教会の修理や営繕に関して自分の手でできるものは積極的に直してきたわけですが、電気関係、特に見えない配線などにはまったくの素人なので、業者の方に来てもらいました。電気プロの方は、早速ブレーカーや給湯器、コンセントなどを一目見てから、10分くらい経ったでしょうか。“直りましたよ!”という声が聞こえてきました。あまりにも簡単に“直った”という声を聞いたので、驚きながら彼の説明に耳を傾けました。“実は、ブレーカーのうち、一階のコンセントに電気を供給する部分がサビっていて、電気が流れなくなりました。”…早速サビ(錆)がついた部分を取り除き、つなぎ部分の部品を交換することで修理を終えました。実は、「もしかして大工事になるのでは?」という不安もありましたが、あまりにも簡単に修理が終わったので、神に感謝の讃美をささげました。ハレルヤ!

その後、心の中に示された御心がありました。あなたがたは神様との関係において、「神の命と力が流れなくしてしまってはないのか、あなたの生活や心の見えないところが、サビってしまってないのか?」ということでした。外からは見えず、特に問題がないように見えても、実際、主イエスとの親しい関係を妨げ、主からの命と恵みの流れを切らせてしまったサビ(罪)はついてないでしょうか。興味深いことに、今月のリビングライフには建物に生じた「カビ」についてツァラアト(汚れた部分)と表現し、カビで汚れているものを取り除くことを命じています。サビは金属に生じるカビと言えましょう。目に見えない少しのサビが電気の流れを防ぎ、間違ったら火事になり家全体を滅ぼす恐れがあることを覚えつつ、常にイエス・キリストの十字架の血潮に心と魂のサビを取り除いていただき、命と恵みを流していただきましょう。

2019.9.22 小さな泉の恵み




 夏休みに韓国に帰国し、韓国のクリスチャン中高生の修養会に参加しました。
   韓国ではクリスチャン人口が多いため、教会やキリスト界宿泊施設も多く、信仰者のための修養会が頻繁に行われています。私が今回参加した修養会は、中一から高三までの数十人の学生が集い、三泊四日の日程で行われました。まるでライブ会場のような雰囲気の中で、聖書を探し黙想したり、何時間も立って賛美したり、聖霊の臨在と助けを求めたりする時を過ごしました。自分も声に出して罪を告白し、手をあげて祈りと讃美をささげ、参加した学生たちと互いに励まし、執り成すことができました。
   講師の先生はTVにも出演する有名な方で、自らが経験した青少年期の様々な傷や苦しんだことを証しし、青少年たちを慰め、信仰における勇気と確信、決断のメッセージを伝えてくれました。
   私が祈る中で何度も与えられた言葉が、「一つにしてください」というものでした。「イエス様、あなたと私を一つにしてください。私を無くしてあなただけにしてください。この人たちと一つにしてください。人と人を一つにし、平和の王国を来たらしてください。」という祈りの言葉でした。
   修養会の恵みを忘れずに、示された御言葉を心に刻んで、主と一致した神の国の民として、希望と使命をもって、これから歩んでいきたいです。
                                      M.J兄
                                          

2019年9月20日金曜日

2019.9.15 牧師室便り


~右にも左にも逸れることなく~

「終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。」(Ⅱテモテへの手紙3:1~5)

私たちの身を取り囲む現代社会の様子が、2000年前の使徒パウロが目の当たりにしているかのように描かれています。本当に四方八方のどこを見ても希望が見出せないような世界です。いつになったら平和が訪れるでしょうか。いつになったら互いが互いを認め合えるでしょうか。いつになったら金銭万能主義が終わるでしょうか。いつになったら殺し合いがなくなるでしょうか。いつになったら人々が真の神を知るようになるでしょうか。・・・しかし、いつになってもこれらの希望は叶えられないような現実です。

 とりわけ様々なイデオロギーがキリストの教会と神の家族を惑わしていませんか。「何が正しくて何が間違いなのか、何が真実で何が偽りなのか、また様々な選択の場」に立たされながら、迷ってしまう日々です。このような時にこそ、しっかりと保つべき信仰姿勢があります。それは“右にも左にも逸れることなく、神が語られる御言葉に従順であること”です。聖書の御言葉が教える神の御心はただ一つ、神の民に幸いを与えようとされることです。問題は、私たち人間が、神の御心や神のご計画に従おうとせず、それぞれの思いや計画を優先して走ろうとすることではないでしょうか。

 十字架を前にして「アッバ父よ、わたしの願いでなく、あなたの御心がなりますように…」と祈られた主イエスに倣い、右にも左にも逸れることなく、神の家族と共に主イエスの十字架と御国を見上げつつ、歩むことです。シャローム!

2019.9.15 本日の宣教

『 キリスト共にいたい熱望 』    (フィリピ信徒への手紙1:21~26)

「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(1:21)

“生きるとはキリストであり、死ぬことは利益”という表現は、パウロの死生観を表してくれる御言葉です。パウロは今、ローマの牢に捕えられ、裁判を待っている状況でした。パウロがフィリピの信徒への手紙を書いていた当時は、投獄された身として、肉体的にも精神的にも大変厳しい時を過ごしていました。しかし、彼の言葉からは死ぬことや将来への不安が見えません。むしろ、死を楽しみに待っているかのような雰囲気が漂います。それは、「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望している」(1:23)という言葉によって確かに伝わっています。はやく天に帰り、キリストと共に交わり、天国の栄光に満たされたいという熱望が今を生きている私たちに新鮮な刺激となってくれるわけです。

しかし、天国でのキリストとの交わりを熱望しているパウロでしたが、彼が現実的に選んだのは、フィリピ教会の信徒たちの信仰の成長と伝道のために生きることでありました。パウロの生きている理由と目的こそ、神の恵みの福音を自分だけのものにするのでなく、キリストの教会と信徒たちの成長のため、まだ福音を知らないまま死んでいく人々に伝えるためであったのです。

愛する神の家族のみ皆さん、救われた人の人生は、天国のキリストに見える熱望と、この地における愛する人々の救われることを切に願う中で、行くべき道を見出せるものです。キリスト者の人生においてこれに勝るものはないと言っていいでしょう。救われた人は、神の国のため、また愛する人の救いのために生きる中で生きがいを感じる存在です。その人は、日々経験する苦しみや悲しみ、死までも利益として信じ、歩み続けることでしょう。

クリスチャン作家として知られる遠藤周作の作品を読んだ後、いつものごとく後味がすっきりしなかったことを覚えています。「イエス・キリストの十字架の苦しみは満ち溢れるけど、何かが抜けている。・・・」そう、そこには希望がありませんでした。十字架の苦しみと死は素晴らしく描かれていても、キリストの復活がなく、神の国への希望と確信が見当たらない。ぜひ、覚えていただきたい。復活の勝利、神の国の栄光のない信仰は、中途半端な信仰です。その信仰こそ、人間の体験と頭の納得するところに神と御言葉を引きずりおろすことにしかならないでしょう。
本日は、「敬老祝福礼拝」です。本日まで皆さんを守り、導き、用いてくださった神を賛美します。皆さんが今まで生かされているのは、パウロの言葉のように、「小泉町教会の霊的成長のため、また愛する家族と周りの友人たちを救いへと導くためである」ことを覚えましょう。ぜひ、命をかけられたイエス・キリストの十字架の愛への感動の上に立ち、天国でのキリストとの交わりを熱望しつつ、神が生かしてくださる限り、喜びと感謝、希望をもって歩み続けましょう。ハレルヤ!  

2019.9.15 小さな泉の恵み

 お祈りに上手い下手というのが有るのかはわかりませんが、おそらく最もお祈りの下手な私が思うことをお話します。私は下手なお祈りを反省しません。それだから上手に成らないのだとお叱りをうけそうですが、 「同様に、゛霊〟も弱いわたしたちを助けて下さいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、゛霊〟自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。(ローマの信徒への手紙 8:26)」「何事でも神の御心にかなうことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。(ヨハネの手紙一5:14)」
 わたしの言葉が拙くても聖霊様の執り成しと神の真実によって聞き入れられると信じます。今、心を合わせて祈りたいことがあります。それは日本と韓国の軋轢の緩和、関係改善です。私は子供たちに「朝鮮半島は今、北と南に分断されているが敗戦国である日本がそうなっていてもおかしくなかった。朝鮮の方々が負う民族分断の苦しみ悲しみに対して日本人の我々に責任が無いなどと決して思ってはいけない。」と言っています。ただでさえ民族的に借りがある上に私たち小泉町キリスト教会に集う者には閔牧師とそのご家族を通して多大な恵みと主の愛を頂いていることは申すまでもありません。魂の救済の為にご尽力くださる閔師をはじめ多くの韓国出身の方々への霊的な攻撃や妨害に立ち向かわなければなりません。主の護りと祝福が閔師とご家族の上に、そして朝鮮の全ての方々に心の傷の癒しと慰め平安をお祈りいたします。アーメン
                                                                                       S.Y 兄
                                      

2019.9.8 牧師室便り

~日々の歩みにアンダーラインを引く~

「異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」(Ⅰペトロの手紙2:12)

今年の夏も大変な暑さでしたね。神の家族のお一人お一人が御手の中で守られたことを心から感謝します。   いろいろと忙しい時を過ごされたでしょう。夏の疲れのゆえに体の体調を整えることの難しさを覚える方々もいるかもしれません。ぜひ、霊肉ともに恵まれつつ、新しい季節を感謝を持って過ごしていきましょう。

秋を迎え、創造者なる神を父としている私たちが、御言葉を深く黙想する中で御心を知り、豊かな信仰と愛の実をもって生きた礼拝の座に進んで参りたいですね。しかし、99%以上の神を知らない日本社会で生きた礼拝者として歩むということは大変難しいことです。その中でも、周りの人々に伝道しようとすることはなおさらのことです。いつ主イエスが来られてもおかしくないと思われる世界情勢の中、終末を生きるキリスト者としてのビジョンどころか、かえって現実の忙しさに覆われ小さくなっている現状ではないでしょうか。

聖書は私たちに、「あなたがたは立派に生活しなさい」と勧めます。「立派に生活する」、「立派」という言葉を見るだけで心が縮みませんか。神の前で誰が立派だと言える人がいるでしょうか。ただし、「立派」という言葉に捕われず、皆さんが日々黙想している聖書の御言葉を小さなことから生きて見ようとする思いから出発するのです。すなわち、私たちが聖書の御言葉を黙想する時、気に入る聖書の御言葉にアンダーラインを引くように、私たちの日々の歩みにアンダーラインを引くことを心がけたいですね。とりわけ読書の秋と言われるこの季節に、御言葉にアンダーラインを引きながら、日々の歩みにもアンダーラインを引く神に喜ばれる神の家族でありますように…。シャローム!

2019.9.8 本日の宣教

『聖霊によってやどり、処女マリアから生まれ』 (イザヤ7:14、ルカによる福音書1:34~38)

「主は聖霊によってやどり、処女(おとめ)マリアから 生まれ、・・・」

 本日は、使徒信条のイエス・キリストの受肉についての信仰告白です。

父なる神と共に天地を創造し、治めておられる三位一体の神である神の独り子が、自ら創造された罪人たちの救いのご計画に従い、聖書の約束のメシア(救い主)として、聖霊によって処女マリアの胎に宿られ、贖い主としてこの地にお生まれになった出来事についてです。

使徒信条があえて「処女マリアから生まれ」とその誕生について言い表すのは、イエス・キリストの誕生が歴史の事実として起こったことを確証し、キリストがマリアからの誕生によって真の人間としての被造物性をお持ちになっておられることを証しするためでありました。永遠の神である神の独り子が、処女マリアの胎にやどりお生まれになった。それは神がマリアの人性を用いて生まれるという旧約聖書の預言の成就であって、これは、ただ一回限りの出来事でありました。まさしく受肉こそ全き神、全き人間(100%神、100%人間)となられた出来事であったのです。

受肉物語の中に中心にいる処女マリアについてですが、古くから処女マリアを一般的な人間ではなく、「神の母」という特別な神性を持つ存在として描こうとする試みがありました。それに伴い、神を生んだ母マリアの無原罪説の教理も広がっていきました。しかし、聖書が示しているマリアこそ、私たちと同様にアダムの子として原罪をもつ女性であります。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)・・・聖書ははっきりと、イエス以外のすべての人は、アダムの堕落による原罪を負って生まれるということを示しています。
 ここで、昔から処女降誕の物語をめぐっての異論を紹介したいですが、キリストがヨセフとの間に生まれた子ではなく、誰か他の男との関係による子だとか、ある英雄の人間のイメージに神話的表現を加えるとか、とりわけ最近のフェミニスト神学では、マリアが当時のローマ軍による性的暴行によって生まれたという・・・。それではなぜ、このような諸説が生まれたのかとすれば、神が処女を通して生まれるという非現実的な受肉の出来事を人間の頭ではどうしても納得することも、理解することもできなかったからでした。そこで、使徒信条は「処女マリアから生まれ」の前に、「聖霊によってやどり」という信仰告白をもってきているわけです。これこそ、イエス・キリスト、神の独り子の処女降誕物語が、人間の生物学的な限界に止まることなく、三位一体の聖霊なる神による働きとして、全人類を救おうとされる神ご自身の約束を成し遂げるための第一歩であったことを信じられるわけです。マリア自信も最初は疑っていましたが、神の約束とご計画の前に、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:38)という信仰告白をもって従順をもって答えることができたのです。私たちもマリアのごとく自らを献げようとする時、聖霊は私たちを用いて神の国の御業を成し遂げて行かれることでしょう。ハレルヤ!