2025年12月2日火曜日

2025クリスマス諸集会案内

 


2025.11.30 牧師室便り

 「 アドベントの光を灯そう 」 

先週、「ヒップクラテスの盲点」という映画を拝見しました。コロナ禍で世界が大きな不安と混乱に包まれる中、mRNAワクチンが登場しました。多くの国が「これで危機を越えられる」と期待し、接種は社会全体で急速に進められました。しかし、映画はその状況の影で抱かれていた疑問や、薬害被害に遭われ苦しむ人々の涙と訴えに焦点を当てていました。

ワクチンについては、今もさまざまな意見があります。重症化を防ぎ多くの人を守ったという声がある一方、副反応や体調不良に苦しみ、原因がはっきりしないまま悩み続けている人々の声も多くあります。映画では、ワクチンの危険性や副作用による薬害被害を訴える医師たち、そして被害者とその家族の涙と叫び声が、重く描かれていました。

映画が語ったことのすべてが事実かどうかは、慎重に判断する必要があるでしょう。しかし、何より大切なのは、ワクチンのために多くの人々が副作用に苦しみ、今もなお涙している現実に日本政府や医療関係の責任のある人たちは真摯に耳を傾けつつ、常に一人の被害者も出さないための最善の対策を取らなければならないでしょう。実に、科学も、社会も、そして今大きな話題となっているAIも、決して完璧ではありません。私たちは、誰かの痛みと犠牲が置き去りにされることのない社会であってほしいと心から願います。

今、私たちはアドベントの季節を迎えています。アドベントは、闇の中に光として来られた救い主を待ち望む時です。世の中が揺れ、情報があふれ混沌としている中であっても、愛なる神は必ず私たちのもとに真の光を届けてくださいます。その光は、暗闇の中で涙する心に、また傷ついた心にそっと寄り添う優しい光です。

願わくは、不安と希望が入り混じるこの時代の中で、アドベントのろうそくのように、世界中の人々に小さくても確かな救い主の光を灯す、小泉町教会の働きと神の家族一人ひとりでありますように。シャローム。



2025.11.30 本日の宣教

 『  強いられる沈黙 』

                  ルカによる福音書1章5~25節

今日からアドヴェント(待降節)に入ります。聖書教育では、12月7日(日)の主日からルカによる福音書で描かれているイエス様のご降誕物語を扱うことになっています。7日が、ルカ1:26-38となっていますので、本日は、その前の5節から25節を扱うことにします。

この箇所は、バプテスマのヨハネの誕生に際してのお話です。彼の父親は、ザカリア(「神が思い出してくださった」という意味)、母は、エリサベト(「神は私たちを守ってくださるために誓いをたれられた」という意味)でした。そして、二人に与えられた子のヨハネの名の意味は、「神は慈しみ深い」です。それぞれの名前の意味は、物語が推移していくときに、それなりのイメージを私たちに持たせることに影響を与えていることが少なからずあります。

ザカリアもエリサベトも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非の打ちどころがない者たちでした。だからといって、そのような正しい人々が、何の試練もなく、順風満帆で人生を全うするかというと、そうではありません。神様の恵みとか祝福というものは、誰もがわかるような形でもたらされるとは限らな いことを聖書は私たちに示すのです。神様のご計画のなかで、私たちの人生も導かれます。願っていたことは、私たちのタイミングではなく、神様のタイミングでなされるのです。

ザカリアは、天使ガブリエルから不妊の妻に子が与えられる知らせを聞いたとき、「あなたの願いは聞き入れられた」と今頃言われても、と思ったのか、ちょっと不満ぎみの返事をしたのでした。そして、言わなくてもよい一言が口をついて出て来たのです。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょう」。その後、ザカリアは口が利けなくなりました。沈黙を強いられることとなりました。エリサベトは、身ごもって5ケ月の間、身を隠しました。二人とも、人々の喧騒から離れ、静かな中で、神様の御心に想いを馳せながら、神様と向き合う時間をいただくことになりました。そして、喜びの瞬間を待ったのです。

今年もまた、アドヴェントのこのとき、心を静め、思いを巡らし、この私にとって、イエス様はいかなる関係にあり、私はこの方を何者だと告白するのか、考えてまいりましょう。

                     平良憲誠(福井キリスト教会牧師)


2025.11.30 小さな泉の恵み

 兄が亡くなりほぼ隔週で通っていた埼玉県秩父の家の片づけが11月中旬に終わり、隣接する町の方の手に渡りました。なんとその方も同じ島田姓でした。林の中の家なので周りの人々にとっては空き家のままでは火災や獣害の危険など不安材料となるので、家族で相談し、できるだけ早く処分することを決めていました。

幸い良い形でお渡しすることができました。ただ、私たちの母親が中国人であるということによって、法務局側で相続に関する問題が発生し、認可に時間がかかっています。そのため、家の片づけと処分は終わりましたが、不動産の移転登記ができずに相手に迷惑をかけています。

戦中に両親は、政府の特別な許可を得てシンガポールで正式に結婚し、母は日本に帰化し、敗戦国の国民として、8か月に及ぶ収容所生活の末、1946年に父と同じ輸送船で日本に幅員しました。それからは厳格な祖父母や家族のもとで日本の言語や文化を習得して、亡くなる1913年まで67年間日本で暮らしてきました。結婚が戦時中であり、母の戸籍を中国でとれなかったということが原因のようですが、状況証拠や当時の新聞記事などを提出しているのですが、今頃このような問題が起こるとは思いませんでした。依頼している司法書士も懸命に対応してくださっているので、今は早く前に進むことを祈っています。

介護や農業、そして、多くの産業は、外国籍の方々のお働きによって日本の経済も社会も成り立っています。外国籍の方々の人権と生活に思いやりのある国になってほしいです。

                                島田 茂


2025.11.23 牧師室便り

 「 クリスチャンとして歩むとは 」

現在、世界一の企業となったエヌビディアの会長、ジェンスン・フアン氏は次のように語っています。「私は仕事に完全に夢中になっています。朝、目を開けた瞬間から夜ベッドに入るまで、ずっと仕事をしています。週に7日働き、休んでいるときでさえ頭の中は仕事でいっぱいです。映画を観ていても、気が付けば仕事のことばかり考えてしまい、内容が全く記憶に残らないのです。」…彼の並外れた集中力や執念が、今の成功へとつながったことは誰の目にも明らかでしょう。

私はこの言葉を聞きながら、クリスチャンとしてのアイデンティティについて思い巡らしました。初期のクリスチャンたちは、周囲の人々から奇妙な目で見られ、ときにはあざけられる存在でした。彼らはイエス・キリストに人生のすべてを捧げ、日常のどんな瞬間にも心はイエスに向いていたのです。その姿が、人々にはまるで「狂っている」かのように見え、だからこそ彼らにつけられた「クリスチャン」という呼び名には、蔑みの響きが込められていたと言われます。

それが時代を経てローマ帝国の国教となり、世界の中心的な共同体を指す言葉へと変化していきました。いつしかその重みは薄れ、形式的な“名前”だけが残ったようにも思えます。
では、いま「クリスチャン」と呼ばれている私たちはどうでしょうか。初期のクリスチャンのように、ただイエス・キリストを思い、ただイエスに夢中になって生きているでしょうか。もし彼らが今の私たちを見たなら、同じ名を名乗る者として胸を張って立てるだろうか、そんな問いが心に浮かびます。
「クリスチャン」という名は、本来、心震えるほどの重さを持っています。主イエスに捉えられ、生き方そのものが変えられた者に与えられた呼び名でした。だからこそ私は、この名の意味をもう一度深く心に刻みたいのです。終末の時代を生きる私たちだからこそ、この名前にふさわしい心と姿を取り戻したい、そのように願っています。

2025.11.23 本日の宣教

  『  目覚めていても眠っていても、主と共に  』

                 テサロニケの信徒への手紙一5章7~11節

前回に続き、パウロは私たちキリスト者の生活を「夜」と「昼」という言葉で対比しています。

「眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。(7節)」とあるように、世の人々は暗闇の中で、何が真実かもわからず、欲望と快楽に酔って歩んでいます。しかし、私たちは「昼に属する者」です。それは、もう闇に支配されることなく、キリストの光のもとに生きる者とされたということです。

夜の闇の中では先が見えません。将来への不安、世界の混乱、自分の弱さや過去の失敗、それらがまるで闇のように私たちを覆い、心を眠らせてしまう時があります。しかしパウロは語ります。「しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。(8節)」…つまり、主イエスを信じる者とは、たとえ世界が暗く見えても、光の方を見つめて歩む人なのです。

パウロはここで、信仰・愛・希望という三つの言葉を「武具」にたとえています。これは戦いの装備です。信仰の歩みは、やさしい散歩道ではなく、しばしば闘いの場なのです。胸当ては心臓を守るものです。つまり「信仰と愛」は私たちの心を守り、疑いや恐れ、怒りや絶望から私たちを守ってくれます。そして「救いの希望の兜」は、私たちの頭、すなわち考えや判断を守ります。未来への不安、死の恐れ、世の価値観に左右されそうになるとき、「救いの希望」という兜が私たちを支えてくれるのです。 続いてパウロは、救いの確かさを語ります。私たちへの神の目的は罰ではなく救いです。イエス・キリストが十字架で死なれたのは、私たちを罪の怒りから救い出すためでした。

この愛がどれほど確かなものか、パウロは次のように教えています。「それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。(10節)」

「目覚めていても眠っていても」とは、単に「起きている時も寝ている時も」という意味ではありません。ここでの「眠る」とは、すでに地上の命を終えた人々をも指しています。すなわち、私たちキリスト者は「生きていても死んでいても、主と共に生きる者」であることを示しているのです。これはなんと力強い慰めでしょう。主と共に生きる者には、生と死の境は隔てではなく、常に主と共に交わり続ける幸いが与えられているのです。この確信こそが、テサロニケの人々を励まし、そして今を生きる私たちにも希望を与えます。

最後にパウロは、「互いに励まし合い、お互いの向上に心がけなさい(11節)」と勧めます。その通り、信仰は一人の力で守れるものではありません。私たちが互いに励まし合い、心にかけて祈り合うとき、この世のどんな激しい戦いを前にしても、勝利の歌を歌うことができます。主イエスが私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛し合い、成長のために執り成し支え合う。これこそ、終末を生きる私たちに与えられた最も力強い恵みなのです。

ハレルヤ!