2025年12月2日火曜日

2025.11.30 本日の宣教

 『  強いられる沈黙 』

                  ルカによる福音書1章5~25節

今日からアドヴェント(待降節)に入ります。聖書教育では、12月7日(日)の主日からルカによる福音書で描かれているイエス様のご降誕物語を扱うことになっています。7日が、ルカ1:26-38となっていますので、本日は、その前の5節から25節を扱うことにします。

この箇所は、バプテスマのヨハネの誕生に際してのお話です。彼の父親は、ザカリア(「神が思い出してくださった」という意味)、母は、エリサベト(「神は私たちを守ってくださるために誓いをたれられた」という意味)でした。そして、二人に与えられた子のヨハネの名の意味は、「神は慈しみ深い」です。それぞれの名前の意味は、物語が推移していくときに、それなりのイメージを私たちに持たせることに影響を与えていることが少なからずあります。

ザカリアもエリサベトも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非の打ちどころがない者たちでした。だからといって、そのような正しい人々が、何の試練もなく、順風満帆で人生を全うするかというと、そうではありません。神様の恵みとか祝福というものは、誰もがわかるような形でもたらされるとは限らな いことを聖書は私たちに示すのです。神様のご計画のなかで、私たちの人生も導かれます。願っていたことは、私たちのタイミングではなく、神様のタイミングでなされるのです。

ザカリアは、天使ガブリエルから不妊の妻に子が与えられる知らせを聞いたとき、「あなたの願いは聞き入れられた」と今頃言われても、と思ったのか、ちょっと不満ぎみの返事をしたのでした。そして、言わなくてもよい一言が口をついて出て来たのです。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょう」。その後、ザカリアは口が利けなくなりました。沈黙を強いられることとなりました。エリサベトは、身ごもって5ケ月の間、身を隠しました。二人とも、人々の喧騒から離れ、静かな中で、神様の御心に想いを馳せながら、神様と向き合う時間をいただくことになりました。そして、喜びの瞬間を待ったのです。

今年もまた、アドヴェントのこのとき、心を静め、思いを巡らし、この私にとって、イエス様はいかなる関係にあり、私はこの方を何者だと告白するのか、考えてまいりましょう。

                     平良憲誠(福井キリスト教会牧師)


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