2025年12月2日火曜日

2025.11.23 牧師室便り

 「 クリスチャンとして歩むとは 」

現在、世界一の企業となったエヌビディアの会長、ジェンスン・フアン氏は次のように語っています。「私は仕事に完全に夢中になっています。朝、目を開けた瞬間から夜ベッドに入るまで、ずっと仕事をしています。週に7日働き、休んでいるときでさえ頭の中は仕事でいっぱいです。映画を観ていても、気が付けば仕事のことばかり考えてしまい、内容が全く記憶に残らないのです。」…彼の並外れた集中力や執念が、今の成功へとつながったことは誰の目にも明らかでしょう。

私はこの言葉を聞きながら、クリスチャンとしてのアイデンティティについて思い巡らしました。初期のクリスチャンたちは、周囲の人々から奇妙な目で見られ、ときにはあざけられる存在でした。彼らはイエス・キリストに人生のすべてを捧げ、日常のどんな瞬間にも心はイエスに向いていたのです。その姿が、人々にはまるで「狂っている」かのように見え、だからこそ彼らにつけられた「クリスチャン」という呼び名には、蔑みの響きが込められていたと言われます。

それが時代を経てローマ帝国の国教となり、世界の中心的な共同体を指す言葉へと変化していきました。いつしかその重みは薄れ、形式的な“名前”だけが残ったようにも思えます。
では、いま「クリスチャン」と呼ばれている私たちはどうでしょうか。初期のクリスチャンのように、ただイエス・キリストを思い、ただイエスに夢中になって生きているでしょうか。もし彼らが今の私たちを見たなら、同じ名を名乗る者として胸を張って立てるだろうか、そんな問いが心に浮かびます。
「クリスチャン」という名は、本来、心震えるほどの重さを持っています。主イエスに捉えられ、生き方そのものが変えられた者に与えられた呼び名でした。だからこそ私は、この名の意味をもう一度深く心に刻みたいのです。終末の時代を生きる私たちだからこそ、この名前にふさわしい心と姿を取り戻したい、そのように願っています。

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