2025年12月2日火曜日

2025.11.23 本日の宣教

  『  目覚めていても眠っていても、主と共に  』

                 テサロニケの信徒への手紙一5章7~11節

前回に続き、パウロは私たちキリスト者の生活を「夜」と「昼」という言葉で対比しています。

「眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。(7節)」とあるように、世の人々は暗闇の中で、何が真実かもわからず、欲望と快楽に酔って歩んでいます。しかし、私たちは「昼に属する者」です。それは、もう闇に支配されることなく、キリストの光のもとに生きる者とされたということです。

夜の闇の中では先が見えません。将来への不安、世界の混乱、自分の弱さや過去の失敗、それらがまるで闇のように私たちを覆い、心を眠らせてしまう時があります。しかしパウロは語ります。「しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。(8節)」…つまり、主イエスを信じる者とは、たとえ世界が暗く見えても、光の方を見つめて歩む人なのです。

パウロはここで、信仰・愛・希望という三つの言葉を「武具」にたとえています。これは戦いの装備です。信仰の歩みは、やさしい散歩道ではなく、しばしば闘いの場なのです。胸当ては心臓を守るものです。つまり「信仰と愛」は私たちの心を守り、疑いや恐れ、怒りや絶望から私たちを守ってくれます。そして「救いの希望の兜」は、私たちの頭、すなわち考えや判断を守ります。未来への不安、死の恐れ、世の価値観に左右されそうになるとき、「救いの希望」という兜が私たちを支えてくれるのです。 続いてパウロは、救いの確かさを語ります。私たちへの神の目的は罰ではなく救いです。イエス・キリストが十字架で死なれたのは、私たちを罪の怒りから救い出すためでした。

この愛がどれほど確かなものか、パウロは次のように教えています。「それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。(10節)」

「目覚めていても眠っていても」とは、単に「起きている時も寝ている時も」という意味ではありません。ここでの「眠る」とは、すでに地上の命を終えた人々をも指しています。すなわち、私たちキリスト者は「生きていても死んでいても、主と共に生きる者」であることを示しているのです。これはなんと力強い慰めでしょう。主と共に生きる者には、生と死の境は隔てではなく、常に主と共に交わり続ける幸いが与えられているのです。この確信こそが、テサロニケの人々を励まし、そして今を生きる私たちにも希望を与えます。

最後にパウロは、「互いに励まし合い、お互いの向上に心がけなさい(11節)」と勧めます。その通り、信仰は一人の力で守れるものではありません。私たちが互いに励まし合い、心にかけて祈り合うとき、この世のどんな激しい戦いを前にしても、勝利の歌を歌うことができます。主イエスが私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛し合い、成長のために執り成し支え合う。これこそ、終末を生きる私たちに与えられた最も力強い恵みなのです。

ハレルヤ!


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