2025年8月25日月曜日

2025.8.24 牧師室便り

 「 一人ひとりが証し人になる 」

今月は夏休みもあり、牧師が三度、講壇に立つことができません。本日は金沢教会の要請に応えて宣教奉仕に参り、次週は五週目の礼拝のため、交換講壇として福井教会に出かけます。

このように八月は特別な事情も重なり、やむを得ず講壇に立てない状況となりました。以前から皆さんと話しているように、できる限り「月に一度以上、牧師不在の状態を作らない」ことを守っていきたいと願っています。

そこでお願いしたいのは、お一人お一人が生活の中で経験したイエス・キリストを証しする習慣を身につけていただきたい、ということです。もちろん、その中心には御言葉を据えることが大切です。講壇で説教や証しを語るとは、単に日常の出来事を紹介することではありません。そこに御言葉が土台としてあり、…「この御言葉が私の生活にこのように成就しました」「この御言葉によって励まされ、神の御業を成すことができました」「神は御言葉の通りにご自身を現してくださいました」と証しする時、それが真に御言葉に基づいた証しとなります。

牧師だけがイエス様を伝えるのではありません。執事だけが御言葉を語るのでもありません。信徒一人ひとりが、体験した恵みや御言葉から受けた感動、そこから得た知恵と力を分かち合うところに、本当の恵みがあります。もちろん、御言葉に基づかず、ただ自分の経験を無闇に語ることは講壇にふさわしくありません。それは交わりや食卓の中で分かち合うべきものです。

私は今後も、無牧師状態の金沢教会を定期的に訪れるでしょうし、時には他の地域に出かけることもあるでしょう。その際、まず執事の皆さんが牧師に代わって御言葉を語る器として備えられることを願います。また、信徒の皆さんも、自らの体験した神の恵みを喜びをもって証しできるよう備えていただきたいのです。そのような教会は、どのような試練にあっても揺るぎません。サタンが群れを倒そうとしても決して倒れません。なぜなら、その教会が御言葉の上に立っているからです。聖霊によって御言葉の上で一つとなる教会を、サタンは恐れ、逃げ去ってしまいます。

願わくは、私たちの教会が御言葉によって証しの建物を建てていく働き人で満たされますように…。シャローム。



2025.8.24 本日の宣教

 『 奉仕するもの ~執事の証し~ 』

                    マタイによる福音書12章28節~31節

『㉘…イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 ㉙イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。㉚心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 ㉛第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」』(マルコによる福音書12:28~31)

近頃、執事という言葉がよく聞こえてきますが、そもそも執事とは何する人?というところから、本日、証しの機会を与えられたので、執事について少し話そうかと思います。   

小泉町教会では、毎年2月中旬になると週報の宣教の言葉が書かれている一番上に、執事選挙の告示が掲げられます。それから1カ月ほど後に実際に選挙が行われ5人の執事が選出されます。                  

その選挙の時に閔牧師が必ず言われることがあります。『執事選挙は人気投票ではありません。神が働き手として選ばれるのです。』 私たちはその言葉を聞き、神聖な 気持ちで選び、その結果選ばれた人達はその言葉を心に刻み、1年間、奉仕の先頭に立ち、教会のため、兄弟姉妹のために支えるという気持ちで、心を込め奉仕をしています。自分を低くし、奉仕は率先して行うということです。ですから執事は上に立って教会を引っ張るリーダーと思われがちですがそうで奉仕する者としての役割が大きいのです。

もちろん執事会を開いてそこで主に牧師が立案したものを話し合った後、信徒会で提示されてそれを審議したりするという順序になりますが、それは便宜上そのような形になっているので、決して教会の中での序列ではありません。なぜなら教会はイエス様の体でありイエス様のもとで兄弟姉妹は牧師も含めすべてが平等だからです。そこに序列があるはずがありません。奉仕・礼拝する者としてあるのです。ただ、教会の大切な礼拝を導き、群れを養う監督の務めを担う者として牧師が立てられていますので、序列によるのではなく、牧師が教会の代表として仕える存在であると言えると思います。その牧師を支えるのも執事の大切な役割の一つです。

そして、何と言っても決してなくしてはいけないものがあります。それが冒頭に掲げた御言葉です。それは奉仕にとっても生きて行く上でも決してなくしてはいけない大切なものです。 『「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」 ㉛第二の掟は、これである。「隣人を自分のように愛しなさい。この二つにまさる掟はほかにない。』この御言葉を神の愛を心に刻み、歩いていきたいものです。    

                                  S.Y.姉


2025.8.24 小さな泉の恵み

  『全国牧師配偶者会の恵み』 

小泉町教会の愛する皆さま、お元気でしょ うか。私たちは山形に来て4年目となり、毎日守られ元気に過ごしています。皆さまのお祈りに感謝いたします。私は5月29日〜31日に行われた「全国牧師配偶者会」に初めて参加してきました。今年度は、東北連合配偶者会が幹事担当となり、福島で開催されました。今回、特に心に残っていることは、東日本大震災の被災地の現状を見て学ぶことができたことです。福島浜通り地方の、原子力災害伝承館と被災遺構、請戸小学校を見学することができました。私自身、被災地を訪れることは初めてで、見るもの聞くもの全てがはじめて知ることばかりでした。震災から14年がたった今も、復興の途中であり、悲しみの中にある方が今もなお大勢おられ、これからも祈り寄り添っていくことの大切さを皆さんと分かち合うことができました。実際に現地で見ることでしか、聞くことでしか知ることのできないことがあることを思わされました。そして、全国の配偶者の方々と深い交わりができたことも感謝でした。初めてお会いし  た方や、福岡でお世話になった方々との再会、また福井教会の平良民枝さんとも再会もでき、素晴らしい時を過ごすことができました。新しい出会いと学びに感謝した2泊3日でした。小泉町教会の能登被災地支援活動のためにもお祈りしております。

                           山形キリスト教会  宮田 幸


2025.8.17 牧師室便り

 「平和を叫ばなくてもよい時代を」

「わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。」(イザヤ57:19)

平和、平和、…世界各地で今も叫び続けられ、求め続けられている言葉です。しかしいつになったら平和という言葉を叫ばなくてもよい時代が来るでしょうか。

聖書は、真の平和の源を明確に示しています。それは、単に戦争が終わることや争いがなくなることではなく、神と人との関係が回復することです。人間の罪によって断ち切られたその関係が、キリストの十字架の贖いによって回復されたとき、私たちは心の中に、また生き方の中に平和を持ち体験して生きることができます。パウロは「キリストは私たちの平和である」(エフェソ2:14)と告げています。平和はまず神との和解から始まり、その和解が人と人との間、また人と自然世界の関係をも変えていきます。

しかし、キリスト教が世界各地に宣べ伝えられているのに、世界は依然として争いや分裂に満ちていますし、さらに争いと分裂が激しさを増し広がっている状況です。どこを見ても希望の兆しは見えず、絶望の暗闇に覆われている世界です。

主イエスはキリスト者に向けて「平和を実現する人」(マタイ5:9)として召されています。それは受け身で待つことではなく、日常の中で小さな平和の行いを積み重ねることです。赦しを選び、対話を続け、弱い者の声に耳を傾けること。自分の正しさを振りかざすよりも、へりくだって相手と共に歩むこと。これらは世界を一気に変える力には見えないかもしれませんが、神の国の価値観では小さな種が大きな木に育つように、やがて実を結ぶのです。

平和という言葉を叫ばなくてもよい時代、それは、平和の主が再臨され神の国が完全に実現するときに訪れます。しかしその日まで、私たちは地上での使命を果たします。神との平和を土台に、隣人との平和を築き、世界のうめきに耳を傾けながら歩む。そのようにして、私たちは「平和を実現する人々」としてこの時代に生きるのです。シャローム。



2025.8.17 本日の宣教

 『 平和への神の叫び 』

                         ミカ6章6節~8節

旧約の預言者ミカは、紀元前8世紀の南王国ユダで活動した人物です。当時の社会は、宗教的には祭儀や礼拝が盛んに行われていたものの、その背後では腐敗と不正がはびこり、弱い立場の人々が虐げられていました。支配者や指導者たちは形式的な信仰に熱心でありながら、神が本当に求める正義や愛からは遠ざかっていたのです。

このような状況に対して、南ユダの人々は神に近づく方法を問いかけます。「何をもって、わたしは主の御前に出で、いと高き神にぬかずくべきか。(6節)」

彼らの発想は、より多くの犠牲、より大きなささげ物をすることによって神を喜ばせようとするものでした。「幾千の雄羊、幾万の油など」…人々は神への忠実さを“宗教的行為”や“外面的な功績”によって測ろうとしていたのです。しかし、ミカを通して語られた神の答えは、驚くほどシンプルで、しかし非常に深いものでした。

「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。(8節)」

ここでミカ預言者は、形式的な礼拝や派手な犠牲ではなく、日常の生き方そのものを問いかけています。神が求める信仰とは、祭壇の上での行為ではなく、生活の現場での人格と行動に現れるものなのです。ここには、神が人に求めている「本質」が凝縮されています。それは、儀式や献げ物ではなく、「生き方」だというのである。

第一に、「正義を行うこと」。「正義」(ミシュパート)は、旧約聖書の中心的なテーマの一つです。それは単な る法的な正しさ以上のもので、神の基準に基づく正しい関係の回復を意味します。貧しい人や孤児、やもめ、外国人といった社会的弱者が正当に扱われ、搾取や差別がなくなること。これが聖書的な正義です。

第二に、「慈しみを愛すること」。「慈しみ」(ヘセド)は、神とイスラエルの契約関係を支える愛のことです。単なる感情的な優しさではなく、約束に基づいた忠実な愛、つまり相手がたとえそれに値しないときでも変わらず示す愛を意味します。

第三に、「へりくだって神と共に歩むこと」。「へりくだる」とは、自分を卑下することではなく、神の前で自分の限界を知り、神に依り頼む姿勢です。そして「共に歩む」とは、日々の選択や行動を神と相談しながら生きることです。

平和を実現する働きは、決して人間の力だけで完成できるものではありません。むしろ、へりくだりを失うと、私たちは自分の正義や価値観を押し付け、逆に争いを生むことさえあります。平和は、神と共に歩む謙遜な人の心から広がっていきます。

この夏、どんなに厳しい暑さの中にあっても、またどんなに心が乾いていたとしても、神の叫びに耳を澄まし、神と共に新しい一歩を踏み出したいものです。平和は、遠くにある理想ではなく、今日この場所から始まる現実です。それは神の叫びに応答する者たちを通して実現されていくものであることを心がけながら歩みましょう。ハレルヤ!


2025.8.17 小さな泉の恵み

 ~ 結婚式の働き ~

私は今年度から山形市にある結婚

式場パレスグランデールで結婚式司式の働きをはじめました。クリスチャン人口1%以下の日本ですが、不思議と結婚式は約7割がキリスト教式で挙げるといわれています。しかし、結婚式場で牧師として司式をしている方の中には、本物の牧師ではなく平日は英語の先生をしている人や、留学生といった、一般の外国人の方がアルバイトとして行っている場合が多いことも事実です。または本物の牧師が副業として結婚式の司式をするということもよく聞く話です。ところが、今回私が加わった働きはそれらのものと違い、宣教的意味合いがある働きです。これは、クリスチャンの創業者の熱い思いによってはじめられました。

特徴的なのは、牧師がただ結婚式の司式だけをするのではなく、事前にお2人とお会いし、カウンセリングを行うことが義務付けられている点です。新しく結婚されるお二人に、じっくりと聖書から本当の結婚の意義と福音を伝えることができる尊い働きなのです。さらに、結婚式を挙げられる2人には聖書もプレゼントされます。現在、山形市内の教会から5名の牧師たちがこの働きに加わっています。毎月の式場スタッフとの会議もまず、礼拝から始めています。何よりも祈りを大切にし、全ては聖書に基づきながらこの結婚式のスタイルを30年間守ってこられたのです。しかし現在は、経営者も代替わりし、時代の流れとともに、会社側からの要望が聖書的から商業主義的に変化してきている状況です。そのような時に、この働きに加えられたことに感謝しつつ、心からの祝福を携えて司式の働きに仕えてまいります。

                            山形キリスト教会 宮田祐亮


2025.8.10 牧師室便り

 「いつどのようなときも」

「どのようなときも、わたしは主をたたえ、わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。」(詩編34:2)

本日、牧師夫婦は韓国の光明市にある教会を訪れ、宣教奉仕をさせていただきます。もともと予定していたスケジュールではなかったため、戸惑いもありましたが、これもまた神の導き、そして主の命令であると信じて、与えられた御言葉をお伝えし、富山に戻りたいと思っております。

ふと心に浮かんだのは、私は富山の小泉町キリスト教会の牧師であると同時に、いつ、どこにいても神の御言葉を伝える者である、ということです。すべての場所が、神がおられる場所であり、神の聖霊が働かれる場所である、ということを改めて思わされました。私は富山にいるときだけが牧師なのではなく、たとえアメリカにいても、中国にいても、アフリカにいても、その場所が神の栄光を現すために備えられた場所であり、神が不思議な出会いを通して私を用いられる時なのだと信じています。

聖書の中にも、思いがけない出会いが与えられ、そこから新たな神の御業が始まっていく子が多く記されています。これから夏の期間を利用して旅に出られる方々のことを覚え、出かけられるそれぞれの場所において、神と共に歩み、キリスト者として神の栄光を表していただきたいと願っています。そしてぜひ、それぞれが置かれた場所での出会いや交わりを通して得られた恵みを、富山に戻ってから、小泉町教会の神の家族の群れの中で証ししていただければ幸いです。

この厳しい夏の日々が、神の家族お一人おひとりにとって、恵みの時、神を深く体験する時、そしてそれぞれの場所で神の栄光を現す夏となりますように。そして何よりも、苦しむ人々のために執り成す者として、それぞれが良き役割を担ってくださるよう願っております。

それでは、来週お会いしましょう。聖霊の守りが、神の家族お一人おひとりと共にありますように。

シャローム!



2025.8.10 本日の宣教

 『 炉に投げ込まれる草でさえ 』

                      ルカによる福音書12章22~32節

私は五十歳を過ぎて農業に導かれました。未だに何が解らないのかも判らないド素人です。はじめの頃から「農業は雑草との戦いやちゃ。」と何度も聞かされてきました。いざ戦ってみると雑草というのは不思議がいっぱいです。そもそも「雑草」とはなんでしょう。一般的にはその辺に生えている邪魔になる草という感じでしょうが、しかし雑草の定義はあいまいで、その種が雑草であるかはみる人によって異なります。農業従事者としては、イボクサ、ホタルイ、クサネム、ヒエ、スギナなど様々です。斑点米の原因となるカメムシの温床になったり、農作物の栄養を横取りして作物が生育を妨げたり、収穫の時機械の妨げになるなどの厄介な存在です。今はクサネムの除去に努めています。クサネムとは秋に黒い種が出来て、これが米に混入すると米の等級が下がります。スギナも神出鬼没でどこにでも生えてくる厄介者です。地下茎で横に伸びてあっという間に広がっていきます。農作物は弱酸性の土壌が適していると言われています。日本の国土は酸性が強くなる傾向が有ります。火山性の地質に加え、雨が多くてカルシウムやマグネシウムの流出によって酸性化が進みます。酸性の土壌は作物の根を痛め、生育を阻害し、アルミニウムなどの有害物質が溶け出しやすくなったり、リン酸の吸収を妨げます。スギナはそんな酸性の土壌に生えてきて嫌われてきましたが、他の作物が生えることが出来ない過酷な環境、強い酸性の土地に生えて酸性からアルカリ性の方へ向かわせています。スギナの根には沢山の微生物やトリコデルマ菌などの細菌がいて  土壌を改良しています。スギナのような植物の根の周りには有機物がたまって微生物が定着しやすくなるそうです。スギナは刈ると茎や根が良い肥料になります。思ったより「イイ奴」でした。

「万物は言によって成った。成ったもので、言によらず成ったものは何一つなかった。(ヨハネによる福音書1:3)」  農業を通して雑草には様々な神様の恵みが施されていることを思わされます。全てのものを造られた方は、造られたものの細部にまで心を留め微睡むこともなくいつも傍らで守ってくださっています。神様はそのご計画にしたがって私たちを今有る場所に導かれました。周りから理解されなくても、自分でも何が出来るかわからなくても御手の中の平安を味わうことが出来るのではないでしょうか。「恐れるな。」「思い煩わないように。」「何でも神様に願い求めなさい。」私たちを愛して愛し愛し抜いてくださる方、御子をさえ惜しまず私たちの罪の贖いとして死に渡された方の御心は全ての人が救われることです。私たちの周りの全ての人に福音を届けましょう。私たち富山小泉町教会に呼び集められた者たちはただ福音を全ての人にお伝えすることのために有ります。聖霊が私たちに燃えるような情熱と信仰を下さるように。主の栄光がとこしえにありますように。御名が崇められますように。

                               S.Y.兄


2025.8.10 小さな泉の恵み

 ~祈りについて~ 

この1年、私は周りのクリスチャンが奉仕の中で祈る時や、礼拝中の牧師の祈り、また献金の祈りなどにおいて、「祈りの内容」に深く耳を傾ける機会が多くありました。というのも、日常の中で「何と祈ればよいのか」迷ったり、いざ祈ろうとすると言葉が出てこなかったりすることがあったからです。

その背景には、私自身の自信のなさや信仰の弱さがあるように感じています。 そんな中、ある日の礼拝説教で「何を祈ればよいか分からないときは、主の祈りを唱えるとよい」ということや、「私たちは何でも神様に打ち明けることのできる自由と恵みを与えられている、それが祈りである」というメッセージを聞き、心が軽くなり、素直になれたような気がしました。 

これまでの私は、お祈りの際に“かっこよさ”や“力強さ”といった外面的なことを気にしていたように思います。
けれども今は、自分の本心に耳を澄まし、それをそのまま神様に打ち明けることの大切さを実感しています。 これからも、何でも神様に打ち明けられるという大きな恵みに感謝しながら、歩んでいきたいと思います。

                               A.M.姉

2025.8.3 牧師室便り

 「打ち上げ花火から…」

おととい、8月1日の夜、毎年恒例の富山花火大会が行われました。今年も楽しみにしていましたが、諸事情によって行くことができませんでした。

今年で77回目を迎えたこの花火大会は、もともと富山大空襲の犠牲者をしのび、また平和への願いを込めて、毎年8月1日に開催されているものです。

私はできる限り、毎年この日に花火を見るようにしていますが、神通川のメイン会場は人混みが多いため、行くことができません。そのため、花火がよく見えるこの科学博物館にシートを持参して鑑賞するのが、わが家の恒例となっています。

皆さんもご覧になったでしょうか。今年はあまりの暑さのため、外出を控えられた方も多かったのではないかと思います。

8月は「平和を覚える月」です。日本バプテスト連盟でも、平和宣言を共に唱えながら、聖書を通して語られる神の平和への御心を分かち合っています。

平和は、花火を打ち上げて一時的に歓喜に沸くようなものではありません。むしろ、それは命を懸けて守るべきものであり、互いに受け入れ合い、赦し合い、互いを尊い存在、共に生きる存在として認めるところから始まります。

しかし、戦争を、まるで花火を打ち上げるかのように、軽く考えている人たちがいるでしょう。また、武器を売って利益を得ようとする者たちや、戦争を続けることで権力を維持しようとする人々もいます。さらに、悪意ある噂を流し、人々の葛藤や緊張を煽り、戦争があたかも当たり前であるかのように思わせる勢力が存在するのも事実です。

それでも私たちクリスチャンは、イエス・キリストが十字架によって成し遂げてくださった真の平和と和解の福音を、周囲の人々に伝えていく使命があります。この時期、あらためてそのことを心に刻みながら過ごしてまいりましょう。シャローム。


2025.8.3 本日の宣教

 『 被造物のうめきに答えて 』

                  ローマの信徒への手紙 8章18~22節

私たちが生きるこの世界は、今、大きな痛みの中にあります。激しさを増している戦争、気候変動や自然災害、飢餓、環境破壊…。日々届くニュースは、まるで世界そのものが悲鳴をあげているかのようです。かつて当たり前だと思っていた季節の移ろいや、自然との調和が、今や過去のものとなりつつあります。人間の経済活動や欲望の追求が、地球という家を激しく揺るがし、そこに生きる被造物たちの命までも脅かしています。

こうした現実の中で、本日のパウロの言葉は私たちに鋭く、そして優しく問いかけてきます。

「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」(8:19)

被造物、それは、私たち人間を含まない自然界全体を指します。動物、植物、大地、空、海…あらゆる存在が、私たちの目には見えないところで、神の子たちの「現れ」を待っているというのです。なぜでしょうか?

それは、創世記にさかのぼります。アダムとエバの罪によって、人間は神との関係だけでなく、自然との調和をも失いました。神は言われました。「お前のゆえに、地は呪われるものとなった」(創世記3:17)。以来、被造物は「虚無」に服し、調和を失ったまま、もがき苦しんでいます。

しかし、被造物は決してあきらめてはいません。

「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるのであり、同時に希望も持っています。」(8:20) 希望、それは、神の子たちが回復され、神との関係、 そして被造物との関係が回復される時が来るという約束です。つまり、私たちキリスト者が神の子としての姿にふさわしく変えられていくことこそが、被造物にとっての希望なのです。…ここに、私たちに課せられた大きな責任と使命があります。神の子とされた私たちは、ただ個人的な救いを待ち望むのではなく、被造物全体のうめきに耳を傾け、それに応える存在へと召されています。すなわち、私たちが神の栄光を映し出す生き方をするとき、自然界は本来の秩序と美しさへと近づいていくのです。

「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:22)

私たちは今、痛みと混乱、そして未来に対する不安が満ちる時代を生きています。自然災害が多発し、気候変動は年々深刻になり、地球の各地では戦争や飢餓、破壊と死が繰り返されています。教会は、この被造物のうめきに応える者として立つべきです。自然を無関心に搾取するのではなく、それを愛し、ケアし、癒す働きに参与していくべきです。

平和を覚えるこの時、私たち一人ひとりが神の子としての姿を生きること、それこそが被造物にとっての「福音」であることを自覚しつつ、歩みたいものです。ハレルヤ!


2025.8.3 小さな泉の恵み

 ALT(外国語指導員)になった当初、周りの人々が神様の善さを知らないことをよく考えていました。それが残念に思えて、毎朝仕事に行く前に「主の光が私の上に輝きますように。周りの人が、私の言動を通して主の善さを知ることができますように」と祈っていました。

けれども、年月が経つにつれて仕事が習慣となり、その祈りもしなくなってしまいました。

しかし最近、またその祈りを再開するようになりました。そのおかげで、仕事が以前よりも軽やかに感じられるようになり、よく笑うようになって、同僚たちとももっと仲良くなりました。

                             S.K.姉