「 一人ひとりが証し人になる 」
今月は夏休みもあり、牧師が三度、講壇に立つことができません。本日は金沢教会の要請に応えて宣教奉仕に参り、次週は五週目の礼拝のため、交換講壇として福井教会に出かけます。
このように八月は特別な事情も重なり、やむを得ず講壇に立てない状況となりました。以前から皆さんと話しているように、できる限り「月に一度以上、牧師不在の状態を作らない」ことを守っていきたいと願っています。
そこでお願いしたいのは、お一人お一人が生活の中で経験したイエス・キリストを証しする習慣を身につけていただきたい、ということです。もちろん、その中心には御言葉を据えることが大切です。講壇で説教や証しを語るとは、単に日常の出来事を紹介することではありません。そこに御言葉が土台としてあり、…「この御言葉が私の生活にこのように成就しました」「この御言葉によって励まされ、神の御業を成すことができました」「神は御言葉の通りにご自身を現してくださいました」と証しする時、それが真に御言葉に基づいた証しとなります。
牧師だけがイエス様を伝えるのではありません。執事だけが御言葉を語るのでもありません。信徒一人ひとりが、体験した恵みや御言葉から受けた感動、そこから得た知恵と力を分かち合うところに、本当の恵みがあります。もちろん、御言葉に基づかず、ただ自分の経験を無闇に語ることは講壇にふさわしくありません。それは交わりや食卓の中で分かち合うべきものです。
私は今後も、無牧師状態の金沢教会を定期的に訪れるでしょうし、時には他の地域に出かけることもあるでしょう。その際、まず執事の皆さんが牧師に代わって御言葉を語る器として備えられることを願います。また、信徒の皆さんも、自らの体験した神の恵みを喜びをもって証しできるよう備えていただきたいのです。そのような教会は、どのような試練にあっても揺るぎません。サタンが群れを倒そうとしても決して倒れません。なぜなら、その教会が御言葉の上に立っているからです。聖霊によって御言葉の上で一つとなる教会を、サタンは恐れ、逃げ去ってしまいます。
願わくは、私たちの教会が御言葉によって証しの建物を建てていく働き人で満たされますように…。シャローム。