2025年8月25日月曜日

2025.8.17 本日の宣教

 『 平和への神の叫び 』

                         ミカ6章6節~8節

旧約の預言者ミカは、紀元前8世紀の南王国ユダで活動した人物です。当時の社会は、宗教的には祭儀や礼拝が盛んに行われていたものの、その背後では腐敗と不正がはびこり、弱い立場の人々が虐げられていました。支配者や指導者たちは形式的な信仰に熱心でありながら、神が本当に求める正義や愛からは遠ざかっていたのです。

このような状況に対して、南ユダの人々は神に近づく方法を問いかけます。「何をもって、わたしは主の御前に出で、いと高き神にぬかずくべきか。(6節)」

彼らの発想は、より多くの犠牲、より大きなささげ物をすることによって神を喜ばせようとするものでした。「幾千の雄羊、幾万の油など」…人々は神への忠実さを“宗教的行為”や“外面的な功績”によって測ろうとしていたのです。しかし、ミカを通して語られた神の答えは、驚くほどシンプルで、しかし非常に深いものでした。

「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。(8節)」

ここでミカ預言者は、形式的な礼拝や派手な犠牲ではなく、日常の生き方そのものを問いかけています。神が求める信仰とは、祭壇の上での行為ではなく、生活の現場での人格と行動に現れるものなのです。ここには、神が人に求めている「本質」が凝縮されています。それは、儀式や献げ物ではなく、「生き方」だというのである。

第一に、「正義を行うこと」。「正義」(ミシュパート)は、旧約聖書の中心的なテーマの一つです。それは単な る法的な正しさ以上のもので、神の基準に基づく正しい関係の回復を意味します。貧しい人や孤児、やもめ、外国人といった社会的弱者が正当に扱われ、搾取や差別がなくなること。これが聖書的な正義です。

第二に、「慈しみを愛すること」。「慈しみ」(ヘセド)は、神とイスラエルの契約関係を支える愛のことです。単なる感情的な優しさではなく、約束に基づいた忠実な愛、つまり相手がたとえそれに値しないときでも変わらず示す愛を意味します。

第三に、「へりくだって神と共に歩むこと」。「へりくだる」とは、自分を卑下することではなく、神の前で自分の限界を知り、神に依り頼む姿勢です。そして「共に歩む」とは、日々の選択や行動を神と相談しながら生きることです。

平和を実現する働きは、決して人間の力だけで完成できるものではありません。むしろ、へりくだりを失うと、私たちは自分の正義や価値観を押し付け、逆に争いを生むことさえあります。平和は、神と共に歩む謙遜な人の心から広がっていきます。

この夏、どんなに厳しい暑さの中にあっても、またどんなに心が乾いていたとしても、神の叫びに耳を澄まし、神と共に新しい一歩を踏み出したいものです。平和は、遠くにある理想ではなく、今日この場所から始まる現実です。それは神の叫びに応答する者たちを通して実現されていくものであることを心がけながら歩みましょう。ハレルヤ!


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