2023年4月24日月曜日

2023.4.23 牧師室便り

  ~ みんなで花園作ろう ~

子ども讃美歌の中に、「みんなで花園作ろう」という賛美があります。下記はその歌詞です。

♪ みんなで花園造ろう 花を咲かそう

世界の人に み神の 愛の花 ささげましょう

福音の種をまこう 花を咲かそう

まごころこめて 十字架の み言葉をつたえましょう

み神は 世人を愛し ひとりのみ子をば くだし

すくいの道を そなえてくれた

みんなで花園つくろう 花を咲かそう

世界の人に み神の 愛の花ささげましょう ♪

 とても明るく力と希望に満ち溢れる讃美ですよね。教会の使命と夢と言えば、その歌詞の通りに世界のすべての人に、創造者なる神の愛の種、福音の種を蒔いて花を咲かせ花園を広げることにあると言えます。

 本日の礼拝後、昨年、教会の花壇から採ったマリーゴールドの種を教会の周りの方々に届ける時間を持ちたいと思います。この計画は瀬戸姉の提案で、先週の礼拝の後、神の家族の皆さんの協力によって種の包装作業を行いました。その中に瀬戸姉が書いた招きの言葉と聖書の言葉を入れました。

 ぜひ、祈りと思いを込めて周りの方々に届けましょうね。小泉町教会の花壇から採れたマリーゴールドの種がしっかりと花を咲かせ、教会の周りが美しいマリーゴールドの花園となりますように…。

 聖霊様が、立ち止まっていた福音伝道の種まきを励ましてくださり、力を賜りますように…。シャローム!



2023.4.23 本日の宣教(証し)

 『 ましてあなた方の天の父は  』 (マタイによる福音書 7章 9~11節)


今春、長男が就職しました。都会での新生活、1人暮らしを始める息子を見ながら父親という役割や責任について考えさせられています。以前お話しましたが彼が大学に進学する直前に私達夫婦が失業し大きく進路に影響を与えてしまいました。三人の子たちにとってはダメな父親という他有りません。何年か前に岳父から「お父さん(私)は息子をもっと叱らないと」と注意されたことが有りました。自分でもその自覚が有ります。子を叱るのも父親の責任です。箴言13:24に「鞭を控えるものは自分の子を憎む者。子を愛する人は熱心に諭しを与える」とあります。社会に出ると理不尽なことで叱られることも有ります。父親の叱責がそのような時の忍耐の訓練になるのかもしれません。ルカによる福音書の15章には放蕩息子の喩えがあります。父親は愛する息子の帰りを喜び祝います。この父親は神ご自身のご性質をよく表しています。「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることなくとこしえに怒り続けらることはない。(詩編103:8~9)」「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。(ヨハネの手紙第一4:8)」

人生において最も大切なことは主イエス・キリストに出会い神様の愛を受けとること、命を頂くことです。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている(ヘブライ人への手紙9:27)」裁きの日に「知らなかった」などということがないように子を主のもとに連れてくること、礼拝を守らせることが親の最も大事な務めでありましょう。父親という役目を持たせてくれている子達の救いを願いつつ。全ての導きを主にお委ねします。主イエス・キリストの恵みが全ての人々にもたらされますように。

                               S.Y.兄


2023.4.23 小さな泉の恵み

 私は、今まで一人暮らしをしていて、自分自身の私生活の問題を周りの人に語らないできました。その結果、生活空間が狭くなるという問題が日に日に大きくなり、部屋の中は、さらに多くの荷物に囲まれた状態に陥りました。

自分の体が動けない状態で困っているとも伝えたらいけないと思い、また、自分のプライドもあり、他の人に片づけてもらうと、必要な時にどこに行ったかわからなくなり、片付けてくれた人にも迷惑をかけてしまうを考え、相談できないで一人で悩んでいました。

ついに、まず教会の仲間に片付けてもらい、自分でも整理してみることを決心しました。

整理ができて助かったことは、昨年の恵みで感謝でした。

すぐ今年も整理します!そして頑張ります !

                              M.T.兄

2-23.4.16 牧師室便り

 ~ 愛餐会、神の国の喜び体験 ~

過ぎ去った一週間、復活の恵みに満たされて歩まれたでしょうか。先週のイースター礼拝は、マスク姿が大半を占めてはいましたが、今まで重くのしかかっていたコロナに対する恐れからだいぶ解放されているような様子でしたね。

その中でも礼拝後の愛餐会が4年ぶりに行われたことは大きなチャレンジでもあり、教会共同体の本格的な交わりの再出発を告げるような時であったように思えました。

主イエスは神の国について話を進められる時には、ほとんどの場合、食事の席で語られたり、宴会を譬えに挙げられたりされたことを覚えます。それほど、食事を共にするということは神の国においても、神の民らの交わりを深めていくためにはなくてはならないものであることが分かります。

 さらに、主の晩餐式も弟子たちと最後の食事を共にする中で制定された聖礼典であることを忘れてはならないでしょう。

 私がクリスチャンになった時から教会共同体の中で分かち合う食事は、すべての人が父なる神の家族であることを確かめる時であり、一緒に食事をする群れの中には決して差別があってはならないことを教えられた恵みの時、まさしく神の国が実現する場でありました。

願わくは、小泉町教会の昼食をはじめ、愛餐の時が神の国の喜びを体験する時、すべての人が神の家族である感動に包まれる恵みの時となるように、心を注いで作っていきましょう。シャローム!



2023.4.16 本日の宣教

 『 砂漠で花を咲かせる人々 』(イザヤ35:1~6)

主イエスの復活の命による恵みと平和が礼拝に集われたお一人おひとりの上に豊かに注がれますように祈ります。過ぎ去った一週間、神の家族の皆さんは復活の主と共に歩む恵みを感じながら過ごされたことでしょう。

さて、預言者イザヤは、本日の35章の御言葉を通して、やがて到来すべきメシア王国で成し遂げられるべきことを描いています。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ、砂漠よ、喜び、花を咲かせよ、野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ。(35:1~2)」・・・ここで描かれている「荒野、荒れ地、砂漠、野ばら」とは、神の国、メシア王国が実現する前の廃墟となっていたイスラエルの状況、また、罪と欲望によって堕落し、神様と断絶してしまった人間社会の状態を、象徴的に描いている表現です。まさに、今現在の私たちの世界ではないでしょうか。

しかし、イザヤは砂漠や荒野のような絶望の上を歩いているイスラエルの民らに向けて、「神はあなたたちの罪と不義、堕落に対して、恐ろしい裁きをくだされたけれど、神はあなた方をそのままにしておかず、必ず大いなる御業を成し遂げられる。」という、希望のメッセージを告げます。

そうです。まことに預言者は、絶望の中から、神の希望と未来を見出す人です。私たちクリスチャンもそうでしょう。預言者としての目を持ち、神様がどのように世界の中に介入され、どのように御心を成していかれるかを見続け、神の御心を人々に大胆に告げる役割を担う人こそ、クリスチャンであります。コロナ、戦争、自然破壊、経済危機などの影響を受けている、砂漠のような厳しい現実にしっかりと目を向け、神の御業を望み、次のような全く新しい御心を伝える使命を、委ねられているのです。

「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。』(35:3~4)」

復活の主が、弟子たちの内に現される前の弟子たちは、まさしく砂漠や荒野のように、希望も、命も、讃美も見出すことができないまま、立ち上がる力も失い、絶望と憂鬱といった雰囲気に覆われていました。しかし、彼らの只中に復活のイエス・キリストが来られることによって、大いなる変化が起こり始めました。まさに素晴らしい逆転劇です。「荒野、荒れ地、砂漠」のような人々が、復活の主の現れによって花を咲かせ、喜びの声を上げるように変わる。「弱った手、よろめく膝、心おののく人々」の心と生活に、想像を超えるような変化が起こったのです。

神の教会こそ、復活の主の命と力を受けて、砂漠、荒野、荒れ地のような周りの絶望の地で、神の恵みの花を咲かせる群れにならなければなりません。「主イエスが復活されました。復活の主がいつもあなたと共におられます。」と、慰めと励ましの言葉の種を蒔き散らし続け、やがて美しい花を咲かせる人々、それが私たち小泉町教会に委ねられた使命です。ハレルヤ!


2023年4月11日火曜日

2023.4.9 牧師室便り

 ~ 夜明けと共に ~

受難週の一週間を恵みのうちに過ごされたでしょうか。先週一週間、神の家族が来られるのを待ちながら、まだ闇が残っている朝5時30分頃に教会の玄関のドアを開けました。夜明けと共に静けさに包まれている世界に向けて、救いのドアを開けるような不思議な気分を感じながら過ごした一週間でした。まさに主イエスの復活の夜明けを迎えお墓に向かっていた婦人たちの思いを少しばかり味わったような気がしましたね。

愛する主イエスが十字架にかけられ死なれた悲しみを抱えて、お墓に埋葬された主イエスの遺体に香油を塗ってあげたいという切なる願いをもって夜明けと共に墓まで駆けつけていたマグダラのマリアと婦人たち。彼女たちの姿こそ、復活の朝を迎える人に求められる姿勢ではないでしょうか。

一昨年召天した母は、毎年のイースター礼拝に出席する時には、必ず綺麗に備えていた白いチマチョゴリ(韓服)を着ていました。復活された主を心身共に聖さをもって礼拝したかったからでしょう。そして今は天の御国で喜びに満ちて主イエスと交わっている母の姿を描いています。

さて、小泉町教会に赴任して間もない時、早天祈祷会を始めようとしたことがあります。しかし、様々な事情があって続けられなかったことを覚えています。

2023年の受難週とイースター礼拝を迎えながら、一つの望みが湧いてきました。それは、公の早天礼拝は行いませんが、毎朝6時からどなたでもお時間のある神の家族がいつでも、主の宮に集い、静けさの中で祈り、主との深い交わりの時をもっていただきたいという望みです。

昔、曙を呼び覚まそうと歌っていたダビデのように、暗闇の世界を呼び覚ます復活の証人としての小泉町教会の神の家族を主が喜ばれることでしょう。シャローム!



2023.4.9 本日の宣教

 『 傷の人、イエス・キリスト 』 (ヨハネによる福音書20:24~29)

復活された主イエスを讃美いたします!

十字架の上で死なれた主イエスはお墓に葬られました。そして聖書に約束されていた通り、主イエスは死から復活されました。そして、復活された主イエスは、部屋に閉じこもって怯えていた弟子たちの間に現れ、ご自身が死から復活されたことを見せてくださいました。しかし、ちょうどその時、弟子の一人トマスは、その場にいませんでした。だから、他の弟子たちから「私たちは復活の主を見た」という話しを耳にしてもどうしても信じられないトマスでした。そこでトマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(25節)と訴えます。…人々はしばしばトマスについて「疑い深い」という言葉を付け加えて呼びます。しかし、「疑い深い」という言葉は、決して肯定的な言葉ではありませんし、不信仰と同じ意味に受け取ることになるでしょう。

もしかしてトマスは、主イエスの復活が信じられなかっただけではなく、他の弟子たちが復活の主に会った時に、自分だけがそこにいなかったことのゆえに、一人取り残された感じがしたからかもしれません。すなわち、トマスは「復活についての疑い」と「一人残されたような寂しさ」を感じていたことでしょう。

復活の主はトマスの要望に応えるために再び弟子たちの間にご自身を現されます。そしてトマスに向けて、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(27節)と言われます。主イエスはただトマスだけのために、再びご自身を現され、傷跡を見せてくださったのです。そして、その後に続くトマスの告白「わたしの主、わたしの神よ」は、復活の主の傷跡に触れた人だけが告白できる言葉であります。ようやく、トマスの疑いの夜は過ぎ去り、新しい信仰の歩みが始まったのです。 

トマスが求めていたのは「主イエスの十字架の傷跡」でした。その傷跡に触れた人が、復活の主の栄光と永遠の命をいただくことができるのです。その通り、主イエスは傷の人でありました。主は私たちの手を取って両手、両足、また脇腹に、鮮明に刻まれている5つの十字架の傷跡を見せられ触らせてくださいます。そして今も傷ついた御手で、あなたが抱えている傷、あなたの痛みを癒そうとしておられます。そうです。復活された主イエスの傷跡に触れる時こそ、私たちの傷が癒される時、新しい信仰の世界に入る時であることを覚えましょう。

私たちは時々、トマスのように復活の主を疑ってしまう時があります。コロナや戦争、自然災害、経済問題など、どう

しても自分の頭では納得のいかない出来事を前にして“本当に神は生きているだろうか”と疑ってしまいがちです。しかし主イエスは、私たちに傷跡の手を差し伸べ、「あなたの傷を私の傷跡に重ね癒されなさい。私と共に歩もう」と御声をかけてくださいます。願わくは、あなたも主イエスのために傷を身につけられることを喜びとしますように…。 ハレルヤ!


2023.4.9 小さな泉の恵み

 高一の息子が聖書の話をしてほしいと言い出した。3分クッキングになぞらえ、3分ブッキングを週1くらいのペースでと決めた。創世記から始めて1章のうちの1節から考えることとした。 

いざ始めると3分で済まず、30分は超えてしまう。歳を取ると話が長いと言われるが、私も漏れなく長いようだ。息子は神がいるなら大変な世の中を見過ごしているのはおかしいと考えている。神は見過ごしているのではなく、待っておられるのだが、神と個人的に向き合わないと分からない。3分ブッキングを神の導きと信じ、これからも続けられるように祈っている。            

                                    E.N.兄


2023.4.2 牧師室便り

  ~ 人々の前に輝かせよ! ~

「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。(マタイによる福音書5:16)」

 先日、ある姉妹との分かち合いの中で、みんなの前で証しをすることについて、最初は自分が過去に体験した恵みを証しすることが楽しかったし、嬉しかったけれど、証しの材料が無くなってからは苦しくなったという話をしていました。

 しかし、ぜひ知っていただきたいのは、私たちの証しというのは、過去のある特別な事柄だけが証しの内容ではないということです。むしろ、私たちの証しとは、生きておられる神様との交わりとイエス様の十字架の恵みに感動を覚えながら、すべてを神様に拠り頼んで生きる人が、毎日、いや一歩一歩の歩みの中で味わえるもの、常に新たにされていくものが証しであって、決して限られているものではないのです。

 毎日の御言葉の黙想から、大自然を通して、また道端で出会う人々との交わりの中から、さらに突然私たちの生活の中で起きてくる出来事のすべてが私たちの証しの内容となることができます。キリスト者はそれらを証しすることによって父なる神の栄光を表すことになりますし、父なる神は神の家族の証しを喜ばれるのです。
 本日から2023年度の52週ある主日礼拝が出発します。願わくは、3年間のコロナによって中止せざるを得なかった伝道活動や周りの人々との親しい交わりが再開される中で、証し人として私たちが持っている光を人々の前に輝かせますように…。主イエスはあなたに期待しています。シャローム!

2023.4.2 本日の宣教

 『 今日も明日も、その次の日も①  』  (ルカによる福音書13:31~35)

「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。(13:33)」 

 死ぬために生まれた人がいました。イエス・キリスト神の独り子がその人です。旧約聖書で繰り返し預言されていたメシア(救い主)は勝利者ではありませんでした。むしろ人々によって徹底的に見捨てられ、打ち砕かれ、ありとあらゆる痛みを味わわれる存在として描かれています。そしてやがては、すべての罪人たちの罪を背負い、罪人たちの身代わりとして死なれるという絶望の物語の主人公でした。…

 聖書の預言の御言葉通り、神の独り子がベツレヘムの馬小屋で生まれました。そして貧しき少年時代を経て、30歳になられた頃、人類歴史の前面に姿を現されました。メシアが歴史の前面に姿を現されたというのは、聖書の預言通り、死が近づいているということを意味します。そしていよいよ時が満ち、主イエスは十字架にかかり死なれるという父なる神の御心を成し遂げるためにエルサレムへの旅を始められます。エルサレムへの旅の途中、本日の御言葉のように、ヘロデ王による殺人予告やファリサイ派の人々による脅しと誘惑などが続きますが、それに対して迷われたり、避けようとされたりすることはありませんでした。むしろ、エルサレムへの道をまっすぐにひたすら進んで行かれたのです。その時、語られた御言葉こそ、「今日も明日も、その次の日も」という決意であったのです。

 この世におけるどのような妨害や圧力、悪しき力に脅されることがあっても、主イエスはご自身の歩む道を途中であきらめたり、投げ出したりはなさいません。最初から定められていたエルサレムまでの旅を続け、聖書に預言されていたメシアとして、エルサレムで十字架にかかり罪人たちのための贖いの死を成し遂げるまでは、進まなければならないと揺るがない意志を宣言しておられるのです。

 私たちの人生にも、ヘロデ王やファリサイ派の人々からの脅し、妨害、誘惑のようなものがあるでしょう。それは、目に見える人間的な力、社会的なプレッシャーという形で現れる時もあれば、霊的な戦いになる場合もあるでしょう。そのような中で、私たちは時としてそのような力に圧倒されて、くじけてしまう事も度々経験してきたかもしれません。しかし、私たちが私たちより先に十字架の道を歩まれた主イエスに全てを明け渡し、与えられている使命と目的に生きていくならば、私たちも主イエスのように、「今日の歩みを明日にも、その次の日にも」変わらず、進めることができるようになるはずです。

 本日は受難週礼拝です。主イエスのエルサレムへの旅は今日も続きます。エルサレムの十字架で死ぬために、主イエスは今日も一歩一歩と進んで行かれます。あなたと私を救うため、十字架の上で死ぬために、苦しみの道を避けることなくまっすぐに進んでおられます。そして、主イエスは旅の道端で出会われたすべての人を友として抱きしめ、彼らを励まし癒してくださいます。神の家族も、主イエスに倣い今日も、明日も、次の日も、各自の十字架の道を進みましょう。ハレルヤ!


2023.4.2 小さな泉の恵み

 ~ 聖書を読まれ!~

 愛する小泉町教会のみなさん、お久しぶりです!

   ちょっと前のことですが、わたしが所属している教会の教会学校小学科のためにトルストイの「靴屋のマルチン」の動画と脚本を頼まれました。声の出演は小学科のスタッフです。

   「マルチンおじいさん」に自暴自棄な生活をやめて聖書を読むように勧めるのは、原作では友達のおじいさんですが、ここは「おばあさん」にしたほうが、華があると思いました。

  そのおばあさんのセリフとして「おえさんもちゃんと聖書を...」とまで書いて、そのあとをハタと悩みました。「読みなされ」では疎遠、「読め」では乱暴。ソフトながらもしっかりとした、親しいながらも丁寧な口調を考えていると、「おまえさんもちゃんと聖書を読まれ」がバチンとハマりました。脚本には「『ま』にアクセントを置いてください」と注釈を書きました。

  声の出演の方は高知出身ですが、気品のあるおばあさんを演じてくれました。

 動画は大井バプテスト教会のホームページ「教会学校」-「子どもメッセージ」から見られますので関心のある方はどうぞ。                        

                               S.M.姉