『 今日も明日も、その次の日も① 』 (ルカによる福音書13:31~35)
「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。(13:33)」
死ぬために生まれた人がいました。イエス・キリスト神の独り子がその人です。旧約聖書で繰り返し預言されていたメシア(救い主)は勝利者ではありませんでした。むしろ人々によって徹底的に見捨てられ、打ち砕かれ、ありとあらゆる痛みを味わわれる存在として描かれています。そしてやがては、すべての罪人たちの罪を背負い、罪人たちの身代わりとして死なれるという絶望の物語の主人公でした。…
聖書の預言の御言葉通り、神の独り子がベツレヘムの馬小屋で生まれました。そして貧しき少年時代を経て、30歳になられた頃、人類歴史の前面に姿を現されました。メシアが歴史の前面に姿を現されたというのは、聖書の預言通り、死が近づいているということを意味します。そしていよいよ時が満ち、主イエスは十字架にかかり死なれるという父なる神の御心を成し遂げるためにエルサレムへの旅を始められます。エルサレムへの旅の途中、本日の御言葉のように、ヘロデ王による殺人予告やファリサイ派の人々による脅しと誘惑などが続きますが、それに対して迷われたり、避けようとされたりすることはありませんでした。むしろ、エルサレムへの道をまっすぐにひたすら進んで行かれたのです。その時、語られた御言葉こそ、「今日も明日も、その次の日も」という決意であったのです。
この世におけるどのような妨害や圧力、悪しき力に脅されることがあっても、主イエスはご自身の歩む道を途中であきらめたり、投げ出したりはなさいません。最初から定められていたエルサレムまでの旅を続け、聖書に預言されていたメシアとして、エルサレムで十字架にかかり罪人たちのための贖いの死を成し遂げるまでは、進まなければならないと揺るがない意志を宣言しておられるのです。
私たちの人生にも、ヘロデ王やファリサイ派の人々からの脅し、妨害、誘惑のようなものがあるでしょう。それは、目に見える人間的な力、社会的なプレッシャーという形で現れる時もあれば、霊的な戦いになる場合もあるでしょう。そのような中で、私たちは時としてそのような力に圧倒されて、くじけてしまう事も度々経験してきたかもしれません。しかし、私たちが私たちより先に十字架の道を歩まれた主イエスに全てを明け渡し、与えられている使命と目的に生きていくならば、私たちも主イエスのように、「今日の歩みを明日にも、その次の日にも」変わらず、進めることができるようになるはずです。
本日は受難週礼拝です。主イエスのエルサレムへの旅は今日も続きます。エルサレムの十字架で死ぬために、主イエスは今日も一歩一歩と進んで行かれます。あなたと私を救うため、十字架の上で死ぬために、苦しみの道を避けることなくまっすぐに進んでおられます。そして、主イエスは旅の道端で出会われたすべての人を友として抱きしめ、彼らを励まし癒してくださいます。神の家族も、主イエスに倣い今日も、明日も、次の日も、各自の十字架の道を進みましょう。ハレルヤ!
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