2020年11月29日日曜日

2020.11.29 牧師室便り

 ~ 同じ思い、同じ愛で ~          

 「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」

(フィリピ2:23

毎年1123日には北陸交流会を行っていましたが、今年は残念なことにコロナの影響で行うことができませんでした。伝道の最も厳しいと言われていた北陸三県に建てられた福井、金沢、富山小泉町の三教会は、日本バプテスト連盟諸教会の祈りと協力伝道の実であると言えましょう。まさに北陸三教会は、建てられた最初の日から今日に至るまで足踏みをそろえ「協力伝道」の素晴らしい歴史を刻んでくることができました。とりわけ2020年、福井教会は平良憲誠牧師を、金沢教会は杉山望牧師を新しく招聘したことで北陸三教会はまったく新たな歩みを始めることになります。ぜひ北陸三教会が、同じ思い、同じ愛で主の喜びを満たすことができますように…。

さて、本日は久しぶりに金沢教会との交換講壇を行います。金沢教会は24年間牧会して来られた敬愛する田口先生が引退され、杉山望先生を新しい牧師として迎えることになりました。杉山先生は西南学院大学神学部を卒業された後、札幌教会で5年間副牧師として仕えられ、今年4月から金沢教会の牧師として着任されました。本日初めて杉山先生からメッセージと主にある交わりをいただくことになります。ぜひ喜びの拍手をもって杉山先生を歓迎しましょう。愛する主が杉山先生を通して金沢教会と北陸地方に新たな風を起こされますように…。

いよいよ本日からアドベントに入ります。今年はコロナで始まりコロナで終わりを迎えるような一年になると思いますが、これからのアドベントの4週間、主イエス・キリストの受肉を通して示された御心を悟る時を過ごしたいと願います。とりわけ最も尊いお方が、最も低く汚いところに下ってこられたクリスマスのメッセージを心に刻みつつ、周りの人々を招くことはできなくとも、私たちの方から暗闇にいる方々を訪ね、光を届ける働きを試みたいと願います。願わくは、北陸三教会のクリスマス諸集会が豊かに祝福されますように…。「天には栄光!地には平和!」 

 

2020.11.29 本日の宣教

 『自分を取り戻す場所』 使徒言行録3章1~10節)

 4月から金沢教会に牧師として着任した杉山望(のぞむ)と申します。新型コロナウイルスのためにご挨拶が遅くなってしまいましたが、富山小泉町教会で共に礼拝を献げることを心待ちにしておりました。今日、この日を導いてくださった主に感謝します。私は札幌バプテスト教会で5年間、副牧師として働いておりました。道内の教会はとても繋がりが強く、良い交わりが与えられました。北陸でも三教会が良い交わりをもってこられたとうかがっており、私もその中へ加えていただくことを楽しみにしてきました。

 コロナは人の繋がりを制限してきました。ただ現代はそれ以前から、様々な人の繋がりが急激に変化してきた時代でもありました。特に日本社会は「無縁社会」とも呼ばれ、人の繋がりが弱まり、居場所を失う人も世代を超えて増えています。太田明という方が、居場所には二種類あると言っています。その一つは「社会的居場所」であり、他の人たちによって自分が必要とされていることを実感できる場所です。会社や学校、あるいは家庭や様々なグループなど、自分の役割があり、それが認められている場が社会的居場所となります。そしてもう一つは「人間的居場所」であり、「自分を取り戻すことができる場、庇護的な扱いを受けて安心できる場」です。社会的居場所は変わったり、無くなったりすることもあります。それでも、人間的居場所があれば、人はそこで慰められ、励まされて、新たな歩みを踏み出すことができます。しかし、人間的居場所を失っていると、社会的居場所も失いやすいという負の連鎖が生じます。無縁社会の中で特に重要なのは、安心して自分を取り戻すことができる人間的居場所なのでしょう。

 主イエスの召天後、弟子のペトロとヨハネは神殿の門で足の不自由な男性に出会います。施しをもらうことを期待して二人を見たこの男性に向かって、ペトロはこう言いました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(3:6)ペトロが彼の手を取って引き上げると、彼は足がしっかりして、躍り上がるように歩き出しました。教会が置かれた世界は、人の繋がりを失い、神から離れる罪の力が働く世界です。その中で教会はこの世の力を持ってはいません。教会に託されたのはイエス・キリストの名だけですが、その名は人を躍り上がるように立ち上がらせる力を持っています。

 足が不自由だった男性にとって、神殿の門は社会的居場所だったのかもしれません。毎日、物のように運ばれてきて、わずかな金銭を施してもらう。その繰り返しが彼の生活でした。しかしこの日、彼はイエスの名によって立ち上がり、自分の足で神殿の境内へと入っていきました。そのとき、神殿は彼にとって人間的居場所となりました。彼は神の前で安心して主を讃美しました。神からの祝福を受け取れるようになり、神に創られ、愛された自分を取り戻したのです。キリストの体である教会は、金や銀のようなこの世での力を持つことはできませんが、共に神の祝福を受け、共に讃美し、神の愛を分かち合い、喜び合うことで、自分を取り戻す場となるのです。

                                   金沢キリスト教会 杉山 望牧師

2020.11.22 牧師室便り

 ~ 互いに同じ思いを抱かせる主に感謝! ~          

 「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」 (エフェソ123

新型コロナウイルスによる影響で礼拝を二部制にしてからもう8ヶ月が経とうとしています。予想外に長引いてしまったコロナの影響でなかなか本来の礼拝に戻れなくなっていたため、近頃いろんな方から“そろそろ一部と二部の礼拝を一緒にしてもいいのではないか”という声がありました。一部と二部に分かれて礼拝しているため、交われなくなった方々の顔も見たいし、とりわけ二部礼拝に集う方々の数が少ないため、二つを合わせても防疫するのにそれほどの支障はないだろうという前向きな姿勢を表してくださったのです。   

皆さんの大切なご意見を伺った以上、神の家族全員に声をかけるべきであると思い、先週の礼拝出席者を対象にアンケートを取ることになったわけです。そしてアンケートの結果、2/3の方が、今のままの二部制で礼拝を執り行ってほしいとの意見を出してくださいました。お一人お一人のご意見を心から感謝します。中には一緒に礼拝してほしいと意見をもっていたけれど、コロナが猛烈なスピードで再拡大することによって諦めてしまわれた方もいるでしょう。

バプテスト教会のあり方の一つとして、「民主的な教会運営」という立場に立っています。ただし、今回のような人の命と安全にかかわるようなことやキリスト者の福音に触れるようなことを決める時には、ただ多数決で決めるようなことはふさわしくないと思っています。時には多数決より一人の人の意見が大切な時もあるはずです。常に私たちが大切に立つべきところこそ、「イエス様が望まれることなのか否か、聖書は何と語っているのか」ということでしょう。    

いずれにせよ、神の家族お一人お一人の大切なご意見が大事にされ、また話し合いと祈りの中で一致した教会の歩みを探し出すということは主イエスが望まれる素晴らしい教会の姿でしょう。いよいよクリスマスの季節がやってきます。もちろん、コロナとの共存の中で執り行う諸行事になると思います。そのため、例年のようにチラシを作って、周りの方々を誘うことをやめ、内輪だけのクリスマスになると思います。少し寂しくなるとは思いますが、お一人お一人の信仰を原点に戻し、神が人となり私たちのうちに宿られた感動を蘇らせる時としたいものです。ハレルヤ!

2020.11.22 本日の宣教

 主がその手をとらえていてくださる』                  コリントの信徒への手紙Ⅱ 12910  詩編372324)

 コロナによる緊急事態宣言で、学校や色々な機関や教会も閉じられ、世間の多くの人々が不要不急の外出を控えるようになった3か月ほどの間、一人暮らしで無職の私は、自分の時間が格段に増えたという変な解放感から、じっくりと聖書を読み、熱心に祈るのではなく、新しいことを始めたり、色々な楽しい事に熱中したり、自分のしたいことを優先し、世の誘惑に負けっぱなしでした。ですから当然、毎日の祈りやディボーションはおろそかになりました。そんな私は、今の自分は神様の目にはどのように映っているだろうかと思いつつ、改めることなく同じような生活は続いていました。その結果、突然私に一つの試練が与えられました。それは、順調だった右の股関節が急速に悪くなり、127日に人工関節に置き換える手術をするという現実です。全身麻酔をするような大きな手術は今回10回目になり、さすがにへこみました。

 それと同時にコロナ以降、今まで経験のないことが次々と起きている世の中で、私の心にコロナ禍の不安とは違う、漠然とした不安な気持ちがが、ほぼ毎日のどこかのタイミングで顕れるようになりました。勿論、激しい痛みや手術という試練を与えられたことの不安もあるでしょうが、それよりももっと心の奥の方で感じる自分がしっかりと立っていないような不安です。その感覚は以前に何度も感じたことで、「あ~この得体のしれないような不安感は神様から離れているから起きたことだ」と気が付きました。いえ、本当は気が付いていたのに、日常の優先事項の中に埋もれさせて見ないようにしていたのでしょう。でも心は正直です。その気持ちと罪の意識が不安となって表れたのです。

 私達クリスチャンのアイデンティティ(クリスチャンとしての本質・自己同一性)は、イエス様を信じ、イエス様を自分の中心に置いて生きること、イエスキリストの十字架の贖いと蘇りの恵みと希望に感謝して生きるということだと思います。「イン・クライスト、キリストにあって」の言葉のようにイエス様を離れては肉体として生きてはいても、魂は死んだと等しいのだと思います。そして、今回のことを通して、主はこのような情けない私を決して見放さず、とげを与えることによってブドウの木から離れて、死んでしまう枝ではなく、生きた枝として主に立ち返る機会を与えてくださったのです。神はご愛のお方です。

 振り返ると、私は何度も試練を与えられています。そしてそれは、主がご愛をもって私のような小さな者にも、日々気づかされ立ち返るチャンスを下さっているのだと思っています。主の大きなご愛と恵みに感謝します。

願わくは、何度もチャンスを下さっている神様が、これ以上悲しい思いをされないように、そして、お願いの祈りばかりするのではなく、自分ではできないことでも聖霊様のお力を頂いて祈り、神様に喜ばれる自分になれる日が来ますように。

最後に、今回のことで、また両方の手に握りしめることになった私の大切な聖句を記します。

「すると、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。力は、弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。』と言われましただから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(中略)なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。  (コリント信徒への手紙Ⅱ12:9-10 一部抜粋)」

「主は人の一歩一歩を定め、み旨にかなう道を備えてくださる。人は倒れても、打ち捨てられるのではない、主がその手をとらえていてくださる。(詩編37:23-24)」 アーメン。     
                                              S. Y執事          

2020.11.15 牧師室便り

  ~ 子どもたちの信仰告白を喜ぶ ~

 先週の礼拝では久しぶりに主の晩餐式を執り行いました。コロナが始まってから中止していた配餐を再開することを決め、コロナ時代においてみんなが参与できる主の晩餐式を工夫し執り行うことができたのです。10ヶ月ぶりに主の晩餐に加わった皆さんの喜姿を見ながら心から感謝せざるを得ませんでした。

 そんな中、私にとって特別な感動を与えてくれたのが、小学生以下の子どもたちも主の晩餐に加わったことでした。今は大人の礼拝と子ども礼拝を分けて献げているため、子どもたちが主の晩餐を経験することはできませんでしたが、今年のクリスマス礼拝の時にバプテスマを予定している娘を主の晩餐の恵みに与らせ、また他の子どもたちにも良き刺激を与えるために全員参加させることにしたわけです。

 まず、主の晩餐の意味を説明し、配餐をする前に子どもたちにイエス・キリストの十字架の愛の御業が自分自身のためであることを信じる人がいるかを聞いたところ、陸央くんが控えめではありましたが、小さく手を挙げ自分の信仰を公に表し、“自分も主の晩餐に与りたい”という意思を示してくれました。その陸央くんの信仰告白と姿に第二礼拝に集ったみんなは大きな喜びと感動を覚えましたね。もちろん、ご両親の方の喜びは比べられないものであったと思います。おそらく、陸央くんの目に映っていたご両親の日々の信仰姿勢と信仰告白に影響を受け、自然と信仰が芽生えたことでしょう。彼の心に信仰を与え、また信仰を表す勇気を与えられた聖霊を讃美します。

 そうです。大人は子どもたちの信仰を大人の立場で判断し、信仰を表す場をなかなか与えない流れがあることも事実でしょう。しかし、ここで私たちが立ち止まって耳を傾けなければならない御言葉があります。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(マタイ183…   子どもたちの信仰がますます祝福され、大胆に主イエスへの信仰を表し救われる恵みを期待しつつ。シャローム!

2020.11.15 本日の宣教

   『 主イエスの喜びであるあなたへ 』フィリピの信徒への手紙41)

今世界を覆っている暗闇があります。人間の尊厳が価値なきものとされ、生きる意味を失ったまま死に向かうという流れが人々を捕らえています。とりわけコロナによる社会封鎖や関係の断絶、また経済的困窮によって、自分の存在の尊厳を奪われ、自ら命を絶ってしまう人が後を絶たない日本社会の現実です。ニュースを見ると、先月自殺した人が去年の同じ時期より39.9%増加したそうです。日本社会を覆っている暗闇の力をどうすればいいでしょうか。どうすれば人々の心を暗闇ではなく光に、死ではなく命に満たすことができるでしょうか。

本日与えられたフィリピの信徒への手紙は、喜びの手紙として知られています。この手紙には「喜び」という言葉が際立っています。しかし、パウロがこの喜びの手紙を書いていた場所は、たくさんの本が置かれた書斎でもなければ、安楽な椅子に座っての余裕のある生活の中でもありません。手紙を書いた場所はローマの牢でした。この世の価値観からすれば、暗闇であって、失望すべき場所でしょう。しかしパウロは牢という絶望の環境を喜びに変え、祝福の場所に変えることができたのです。パウロは殺されることもあり得る状況の中で、「喜びの書簡」とされている「フィリピの信徒への手紙」を書いたわけです。

パウロは同手紙129で次のように告白しています。“つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。(129)”・・・私たちはここでキリスト者の信仰では、救われた恵みを受けているだけでなく、キリストのために苦しむことも恵みとして与えられているという驚くべき事実を教えられ、パウロの喜びの源がどこにあるかを知ります。

それでは、パウロがこれほどまで喜ぶことができた理由はどこにあったのでしょうか。そのことをパウロは、フィリピ教会の信徒たちのゆえ、そしてフィリピ教会の信徒たちに蒔かれた福音の種をキリスト・イエスの日に完成してくださる真実な神への確信のゆえであると告白します。とりわけその喜びは「主によって」味わうことができ、実現できるものであると言います。すなわち、真の喜びは人が作り出すものではなく、イエス・キリストとの交わりによって得られる恵みであることを忘れてはなりません。・・・「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。」(41

本日は子ども祝福式です。本日の御言葉の主語をパウロでなく主イエスに替えて読むことで私たちが抱くべきキリスト者のアイデンティティーを確認することができるでしょう。また、小泉町教会の子どもたちにも同じくしっかりと心に刻んでほしいと願っています。まず、自分自身が主イエスに愛され慕われている存在であること、そして主イエスに喜びとされ、冠とされていることです。そして何より、各自が日々の生活の基準を「主によってしっかり立つ」ことにあると心がけて歩むことでしょう。さらに、暗闇の中で自分の存在の尊厳を失っている隣人に神の愛とその存在の尊さを伝え、真の喜びの光をプレゼントできるような人に成長することを執り成していきましょう。ハレルヤ!

2020.11.15 小さな泉の恵み

 

南砺市の南部、城端、福光地区の干し柿農家では、干し柿作りの繁忙期です。わが愛するW農園でも干し柿作りの三年目です。この時期だけお手伝い頂く7名の高齢者と共に1日に三千個の柿を吊るしています。社員は私一人なので、皆が働き易い環境をつくるよう心掛けています。

干し柿作りはいまのところ順調で、生の柿の売れ行きも好調です。どんなに忙しくても日曜日には快く礼拝に送り出してくれ、教会の為にと野菜を持たせてくれる社長と農園を主が覚え酬いて下さっているのを感じます。

「あなたを祝福する人をわたしは祝福しあなたを呪う者をわたしは呪う。地上のすべてあなたによって祝福に入る。(創世記12:3)」祝福の源なる小泉町キリスト教会に集う全ての皆様と大切な方々の上に主の豊かな恵みがありますように。主の栄光が永遠にありますように。

                                      S. Y兄