2020年7月14日火曜日

2020.7.12 牧師室便り

 ~北陸の地から希望の光を~

先週月曜日、北陸三教会の牧師夫婦8人(田口師ご夫妻を含む)が金沢で、初めての交わりの時をもちました。普通であれば、もっと早く集い北陸伝道のための計画を立て、実行すべきでしたが、新型コロナのこともあってやっと集うことができました。とりわけ4月から赴任された平良師ご夫妻(福井)と杉山師ご夫妻(金沢)と初めて顔と顔を合わせることができ大変うれしかったです。面白いことには、福井教会の場合、新型コロナウイルスがピークに達していた時も礼拝を休まず続けられたそうです。それはもともと礼拝出席人数が少ないため、自然と社会的距離を確保することができていたからだそうです。また、金沢の杉山夫妻は私が富山に来た時と同じように、金沢の地理を知らなかったため、地図を見て初めて場所を知ったとのことでしたね。福井教会は来る8月10日(月、休)に牧師就任式を予定しています。新型コロナウイルスのため各教会から2名に限定して行うそうです。ただし、福井教会の礼拝堂があまりにも古くなったため、雨漏りが激しく、壁の方も耐震補強しなければならず、早いうちに礼拝堂を壊して立て直さなければならないことが判明しました。そのため、就任式が終わり次第、早速取り掛かるそうです。そのため、富山と金沢の北陸二教会の協力がさらに求められている状況です。引き続き福井教会の復興のために祈りと献金の支援を広げたいと思います。
金沢教会も若い杉山ご夫妻を迎えて喜びの歩みを始めているとの話でした。お二人がもっている若さと賜物が豊かな実を結ぶように執り成し続けましょう。早速8月30日に恒例の金沢教会との交換講壇を始める予定です。きっと交換講壇は二つの教会から福井を含んだ三つの教会が執り行うことになると思います。それに、引退されたとはいえ、田口師ご夫妻の存在とお働きは北陸三教会を支える大きな力となるでしょう。願わくは、新たな歩みを始める北陸三教会を通して、全国の日本バプテスト連盟に連なる諸教会の方に希望の光が届けられるように…。    


    「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:32)

2020.7.12 小さな泉の恵み


礼拝再開、週報再開、水曜祈祷会、ディボーション再開に感謝します。新型コロナウイルス感染症の流行の為にストップしていた教会での礼拝や、諸集会が少しずつ再開し始めましたね。子供たちが楽しそうに学校での出来事を話してくれることも、とても嬉しいです。東京、大阪近辺では再度感染症が増加傾向にあるということで、一人ひとり出来る対策をしていくしかないですね。
コロナ渦の中で思ったこと。人は人をジャッジしたり裁いたりしてはいけないという事です。私はもともと人をジャッジするのは嫌いです。なぜなら、人の気持ちは聞いてみないと分からないから。マスクをせず外出している人が「肌が敏感でマスクが出来ません」というキーホルダーでアピールしなければならなかったり、県外ナンバーの車が「県外ナンバーですが県内在住者です」というプレートをつけなければならなかったりすることはとても悲しいです。
このような暗い世の中で、私たちは光の子。2020年度の主題聖句「目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々はとこしえに星と輝く。ダニエル12:3」にあるように、今こそ、いつも変わることのない主の愛、イエス様の愛を確信している私たちが光り輝き愛を伝えられる時なのかなと思います。やはり、私たちは幸いですね。愛を持ってこの闇を乗り越えましょう。
                     I.A 姉
                                      

2020.7.5 本日の宣教



『 キリストの手足となって 』(Ⅰコリントの信徒への手紙12:26~27)

 世界が暗闇に包まれています。新型コロナウイルスが猛威を振るう一方、世界各地における自然災害が後を絶たない状況です。このような時に求められるものこそ、希望の光です。聖書は真の光こそ、救い主なるイエス・キリストであると告げます。誰でもイエス・キリストのうちにあるならば、その人を覆っていた暗闇は逃げ去り、光の子として歩むことができるのです。そして、主イエス様は私たち神の子どもたちに「あなた方は世の光である」と使命を新たにしてくださいます。
 慌ただしく日々を過ごしていくうちに、もう今年の半分が終わり、本日から新たな半分を歩むことになります。ぜひ、これからの半分の歩みが、インマヌエルの主イエスの十字架の恵みにあずかりながら、復活の主と共に歩む希望の旅となりますように…。
 とりわけ本日はしばらく休んでいた主の晩餐式を執り行います。主イエスは主の晩餐に与る神の家族お一人お一人に、“あなた方はわたしの血と肉によって一つとされたわたしの体である。一人一人がわたしの体の各部分として強くされ、健康な体を作り上げなさい。そして、暗闇の中にある人々に大切に福音を宣べ伝えなさい。”と語られることでしょう。
 主イエスは、神の独り子、救い主として3年間の公の生涯を通して、主イエスに出会う人々を癒され、驚くべき御業を次々と成し遂げられました。一時も休むことなく、暗闇の中で死んでいく者たちに光を照らし、命を与えてくださいました。主イエスの足は常に心貧しい者たちのところに向かわれ、主イエスの両手は病んでいる者、疲れている者、貧しい者たちに差し伸べられ、抱きしめてくださいました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられた。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であった」(フィリピ2:6-8)と聖書は主イエスのことを紹介しています。
 その十字架の主イエスは、新型コロナウイルスに覆われ苦しんでいる世界に出て行く者として、小泉町教会の一人一人に語りかけておられます。“あなたがたはわたしの体だ。あなたがたはわたしの手となり、足とならなければならない。あなたがたを通してわたしは生きるのだ”と。“あなたの手足で傍らにいる隣人を慰めることができる。あなたの手足で神のラブレターを届けることができる。お腹を空かせている人に温かい食事を食べさせることができる。また、あなたの手足で遠く離れている人を訪ね励ますことができるし、両手を合わせて祈ることができるのだ。
 そうです。「キリストの手足となる」という、なんという素晴らしい生き方でしょうか。願わくは、小泉町教会の2020年の残りの半分の歩みが、主イエスの体の各部分として忠実に生きるお一人一人によって救いの豊かな実を結び、父なる神の喜びとなりますように…。ハレルヤ!

2020.7.5 牧師室便り

~神よ、御声を聞かせてください ~

「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、          
  秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。」(エフェソ1:8~9)

3か月ぶりに牧師室便りを書いています。新型コロナウイルスによってやむを得ず、週報を臨時版にして発行していたため、牧師室便りは省略していました。振り返ると、生活のほとんどが変わってしまいましたね。まさしく、世界の歴史がコロナ以前(B.C.)と、コロナ以降(A.C.)に分けられるような気がする近頃です。
  新型コロナウイルスの時代に突入してから、常に自分自身に言い聞かせていることがあります。“神よ、あなたの御心を教えてください。あなたが語ろうとする御言葉を正しく語らせてください。”ということがそれです。旧約の偽預言者たちがそうであったように、“神が守られるから大丈夫だ、平安だ”というメッセージでなく、また“早くこの試練を終わらせてください”とか、“新型コロナウイルスにかからないようにしてください”という、ご利益の祈りで終わらせてはならない。そうではなく、「神は何を語っておられるのか、新型コロナウイルスを通して神がなさろうとすることはなんであるか、キリスト者としてどう受け止め生きるべきなのか、それらを牧師としてどのように伝えるべきなのか・・・」などなど、敏感に神の啓示に耳を傾けようとしている日々です。“草むしりをするときも、花に水をやるときも、礼拝堂内外の掃除や修理をしながらも、また、買い物のために出かけるときも、…”神が語られる御声を聞き逃してしまうことがないようにしています。神の家族の皆さんも、ぜひ不安に陥り、恐れに捕らわれてしまうのでなく、主の臨在に触れながら主の御心を聞く訓練を心がけてください。シャローム!

2020.6.28 本日の宣教



『 行き先も知らず、旅する 』 (ヘブライ人への手紙11:8~10)

 「信仰の章」と言われるヘブライ人への手紙11章です。旧約聖書に登場する信仰の先輩たちの信仰のあり方を確認しつつ、迫害の最中にあるヘブライ系キリスト者たちを励ますために書かれている個所です。それでは、信仰についての定義に注目しましょう。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」(ヘブライ⒒:1-2)・・・信仰の先輩たちの信仰のあり方の中心的なポイントは、まだ実現していない事柄を確信し、見えない事実を見えているように生き続け、やがてそれを確認することであると示されています。もちろん、その信仰の対象こそ、生きておられる創造者なる神です。
 その信仰の中心的な人物として、大切に紹介されている信仰の人が、「信仰の父」とも呼ばれるアブラハムです。
 本日の聖書個所には、信仰に関連する3つの重要な概念が紹介されています。まずは、「召し出される」ということです。すなわち、私たちの信仰は、語りかけられる神から召し出されることによって、始まるのだということを忘れてはなりません。二つ目は、「服従」です。アブラハムは、神の召しに対して服従します。神の召しのことは、創世記12章に書かれていますが、その召しの内容は、「アブラハムの生活の基盤であった生まれ故郷から出て行く」ことでした。初めて語りかけられる神という方からの召し、アブラハムは、語りかけられる神にすべてを賭け、服従の選択をしたわけです。当時のアブラハムの年は75歳、もう旅に出ることも、新たなチャレンジをすることもなかなか難しい年でした。しかし、アブラハムには、自分に直接声をかけ、将来を約束してくれる神への信頼があったため、すべてを賭けることができたのです。最後は、「出発した」ということです。しかも「行き先も知らず、出発した」ことは、信仰に生きる人としてのアブラハムを決定づける出来事でした。「行き先も知らず、出発した」とは、「見えない事実を確認すること」に当たるわけです。そうです。信仰に生きた先輩たちは、すべてのことを目で見て確認し、すべてのことを知っていたから服従したのではありません。ただ、神が召し出されたから服従したのであり、その神の約束を信頼したから、出発することができたわけです。
 私たちは信仰する者として、常に主イエス様に聞きたがることがあります。“いつ神の国が実現しますか。いつ神が世界を裁かれますか。…”と。しかし、主イエスは聖書に書いてある通りに言われるでしょう。“時と時期はあなた方の知るところではない。それは神の領域だから!”と。ただし、あなた方はいつ主イエスが来られても揺れることのない信仰をもって日々を生きなさい!“と語られることでしょう。常に明日のことを計画し、しっかりとした安定を手にしたい私たちですが、今こそ、自分の計画や考えをすべて捨て、神が導かれるままに自分自身をゆだねるべき時です。
 新型コロナウイルスによって、私たちの生活も、またキリスト者としての信仰生活も大きな変化を迎えることでしょう。とりわけ第二波、第三波が来た場合に、“主日礼拝、平日の諸集会、福音伝道、チャペルコンサート、ファミリーキャンプ、クリスマス、イースターなどなど、どのように変わるだろうか?…” まさに全く見えない現実を目の当たりにすることになります。そこで、ふと頭に浮かんだのが、荒野で旅を続けるイスラエルの民を導いた「火の柱、雲の柱」のイメージでした。そう、これから旅を始める時も、旅を終える時も、火の柱と雲の柱に従えばいいわけです。もちろん、今の私たちの旅には目に見える火の柱も雲の柱もありませんが、常に神の臨在を信じ、導かれるまま歩み出すことです。

2020.6.28 小さな泉の恵み


コロナのせいと言ったらいいか、コロナのお陰と言ったらいいか、家にいる時間が増えて、マーティの散歩も朝、晩することになり、今まで気づいていない神様の創造された素晴らしい自然を見ることができました。本当に言葉には表せない位に、神様の創造の御業に感動して胸がいっぱいでした。

小さな草も、豆よりも小さな花も、なんと綺麗でしょう。本当に感動の毎日です。神様の素晴らしさを賛美します。ハレルヤ!
                                  A.S 姉

2020.6.21 本日の宣教



『 証しとなる歌を歌おう 』  (申命記31:19~23)

 先週のリビングライフで、神の人モーセがカナンの地を前にして、イスラエル共同体に向けての告別説教を終え、神から命じられた歌を教える場面を黙想しました。とても興味深いことに、神御自らモーセに、イスラエル共同体に信仰告白としての歌を覚えさせ、その歌を永遠に忘れることのない証しとするようにと命じられる場面です。
 モーセは、イスラエル共同体の指導者としての召命を受けてから、全生涯をかけて、ひたすら戦い続けた神の人でした。神からカナンの地へのビジョンをいただいてから、イスラエル共同体をエジプトから導き出し、荒野での40年間のありとあらゆることを経験しながらも、一時も逸れることなく、神とイスラエル共同体の間に立ち、信仰の旅を続けてきました。そして、いよいよカナンの地が見えるところまで来て、神からのメッセージを一つ残すことなく語り続けるモーセでした。しかし、モーセにはカナンに入ることが許されなかったことを聖書は教えます。全生涯をかけてカナンの地だけを夢見て、様々な試練を乗り越えてきたのに、神はモーセの夢を叶えてくださらなかったのです。その時受けたモーセの失望は言葉では言い表せないものだったでしょう。そこで神は、モーセにもう一度大切な働きを命じられます。その命令こそ、イスラエル共同体に対する神の証しとなる歌を書き記せ!ということでした。…「今、次の歌を書き記し、それをイスラエルの子らに教え、彼らの口にそれを置け。この歌をイスラエルの子らに対するわたしの証しとするためである。」(申命記31:19、新改訳)…モーセは神の命令に従い、最後まで御心を成し遂げていきます。
 申命記32章にはモーセが書き記した歌をイスラエルの民らに語り聞かせる場面が描かれています。そこには、天と地、大自然を証人と立てて、大いなる神について、神がイスラエル共同体をどのように見いだし愛して来られたのか、また、イスラエル共同体の罪と背信、堕落について、それに対する神の怒りと裁きについて、最後には神の贖いによる勝利が記されています。神と神の民との歴史を振り返りながら、イスラエルの子らに教え、彼らへの証しとして作られた歌でした。この歌は一度だけ歌うものではなく、イスラエルの子らに受け継がれ、決して忘れないようにするために作られた歌でした。この時から、イスラエルは賛美する民とされたのです。イスラエルの民にとって賛美は、彼らのアイデンティティーであり、歴史であり、礼拝であり、呼吸でありました。このことは、私たちにも当てはまるでしょう。賛美は信仰する者と共同体を生かす力となり、神を愛し見上げる賛美は証しとなって神の栄光を世界に現すことになるのです。
 今年は私たち小泉町キリスト教会の宣教開始60周年を迎える年です。それを記念していくつかのことを進めています。その中に小泉町教会のオリジナルの賛美歌を作ろうというビジョンが与えられ、一人の姉妹に作曲していただき、その曲に合わせた歌詞を募集したところ、多くの神の家族から素晴らしい歌詞が寄せられました。そして先週、ミルトス三姉妹により、曲に歌詞を合わせて一つの曲にまとめられました。「小さな泉を与えられた主」という歌です。
 きっと、この讃美を歌いながら、富山小泉町キリスト教会の宣教60周年を思い起こすことになるでしょう。最初に富山の地に宣教の旗が掲げられた日から、60年の歴史に刻まれた数々の恵みの御業、また、8名の牧師たちの献身、それから、神の家族一人一人の信仰の足跡、そして新たな明日への希望が歌となって歌われることでしょう。願わくは、私たちの賛美が証しとなって今暗闇の中で苦しむ人々の心に届けられますように・・・。ハレルヤ!