2020年7月14日火曜日

2020.6.21 小さな泉の恵み

 私は今から60年位前にキリスト教に出会いました。
 その当時親を亡くし妹と二人親戚の家で肩身のせまい思いで過ごしていました。妹が心の病をやんでから私は自分の境遇に悩み苦しんでいました。その時にイエス様が共にいるよと教会へ導かれたのだと思います。“神はか弱い肩に重い荷物を背負わせる事はなさいません。むしろ私達の信仰が深まる度合いに応じてふさわしい試練を与え訓練される”とありました。
 妹が11月2日天に召されました。もっと私が姉としてやさしく接していたらと悔やまれます。でも閔牧師にたびたび妹を見舞い祈ってもらいました。妹もやすらかに天に召されたと思います。私も心癒されました。感謝です。
 今世界中に新型コロナウイルスが広がっています。こんな時こそ悔い改め、まことに主は私達と共におられると信じ歩んでいきたいものです。アーメン
                                N.Z 姉

2020.6.14 本日の宣教



『 生きるにも死ぬにもキリスト 』(フィリピの信徒への手紙1:12~14、20~21)
 
 新型コロナウイルスの流行以来、人と人との対面は、なかなか難しくなっており、親しく交わることができなくなった世界です。このことはキリスト教会に福音伝道への新たなチャレンジを求めていることでしょう。特に、世界宣教の面においても、ほとんどの国が国境を封鎖し、大衆集会も禁止するような対策をとっているため、宣教師として遣わされた方々はさらなる壁にぶつかっている現状です。まさしく一歩も外に歩み出すことができない初代教会の弟子たちのように、新型コロナウィルスに閉じ込められているようなキリスト教会です。それでは、このような新たな時代をどう乗り越えていくべきでしょうか。そこで聞こえてくる使徒パウロの言葉に耳を傾けたいと思います。
「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。」(フィリピ1:12~14)
 人間的な目で見ると、今パウロがローマの牢に監禁されていることは失望であって、失敗を認めざるを得ないことでしょう。まさに福音を人々に語り、親しく交わることを中心に置く伝道者にとって、牢に監禁されるという状況は何もできないことを意味しているとも言えるでしょう。しかしパウロは、“牢に監禁されていることがかえって福音の前進に役立っています!”と告白しています。これはただ強気で言っているわけではありません。なぜならば、パウロにとって投獄という経験は、以前から何度もあったことですし、監禁されている中で働かれた神への信頼があったからです。
 パウロが聖霊の導きによってヨーロッパ伝道を始めた時、最初に監禁された場所がフィリピでした。神は、フィリピの牢屋で、牢屋を守っていた看守とその家族を救うという、驚くべき奇跡を見せてくださいましたし、リディアという同労者が与えられ、さらにフィリピ教会が立てられるという恵みの業を、次々と成してくださったのです。パウロにとって、たとえ、自由のない牢屋であっても、誰も住んでいない無人島であっても、この世のすべての場所は宣教の地であり、神が働かれる場所であるという確信がありました。人間パウロは牢屋に捕らえられていても、福音は決して捕らわれることなく、かえって力強く前進していることを、パウロは証しせざるを得ませんでした。そうです。神の御言葉は、状況や環境や人の妨げで中断することはありません。引き続き語られるパウロの告白に、耳を傾けましょう。
「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」(フィリピ1:20)
 神は時々、神の民が一歩も動けないような状況に追い込まれたり、生と死の瀬戸際に立たされたりするような方法を用いられます。今回の新型コロナウィルスも、その一つでしょう。ただ恐れに呑み込まれて慌てたり、部屋に閉じこもって恐れに怯えたりするのでなく、私たちを取り囲む厳しい状況や苦しみを前にして、その背後に働かれる神を見上げ、生きるにも死ぬにもキリストに信頼を置き、救いの御業を成し遂げてくださることを期待しましょう。主イエス・キリストは、聖霊を通して共に歩まれ、私たちの信仰を、ますます強めてくださるはずです。ハレルヤ!

2020.6.14 小さな泉の恵み


本年2月、コロナで休みになる直前の教会学校で、「聖書のイスラエル人の時間感覚」というのを学びました。聖書のイスラエル人にとって、時の流れは「将来のものが近づいてくる」のではなく「過去のものが遠ざかって行く」感覚だと言われているそうです。今日のことが昨日になり、昨日のことが一昨日になり...というのが、「時間が経って行く」こと。
 ちょうど、ボートを漕ぐ感覚だそうです。進行方向に背を向け、今近くにある景色が遠ざかっていくのを眺めながら、進んでいくのです。ということは、詩編や預言者の祈りの中で繰り返し語られる葦の海の奇跡、人のそむき、神のさばきと赦しは、彼らがときどき振り返って取り戻すのではなく、常に見つめ続けているものなのです。背中は神の御手にあずけて、人生の中で神がくださる恵みがひとつまたひとつ視界に増えて行くのを、常に見つめながら生きるのです。
 これを想像するたび、永遠というものが感じられるような気がして「ハァ〜」と思います。この学びの場にいた6名ほどの全員が「ハァ〜」と言い、わたしがこれを話した相手も次々と「ハァ〜」になりました。みなさんはどうでしょう。
                                     S.M 姉
                 

2020.6.7 本日の宣教



『 息をしていますか 』 (ヨハネによる福音書20:19~23)

 先月25日、アメリカのミネソタ州ミネアポリス市で白人の警察4人が、ジョージ・フロイド(George Floyd)という黒人を拘束する際、警察官の一人がフロイドさんの首を、膝を使って8分46秒間も押さえ続け死亡させるという悲劇が起こりました。フロイドさんは苦しみのあまり、何度も「息ができない」と訴え続け、助けを求めましたが、警察官は力を緩めず、その場で命を失ってしまったのです。・・・この一部始終をとらえた動画は、瞬く間に世界中に広がり、動画を観た人々は、赦されない人種差別に対する憤りと怒りに燃え、アメリカ全土のみならず、全世界に抗議のデモが広がっていきました。今回の悲しい出来事を受けて、「息ができない…、息ができない」という叫び声は私の心に重く迫ってきました。そして、彼の叫び声と重なって創造者なる神の御声が聞こえてきました。
 “息ができない!”…ペンテコステの季節を過ごしている私たちの心に響き渡っています。まさしく一本の鋭い矢が刺さったような痛みを覚えます。聖霊が降られた恵みの季節に起きた今回の出来事はあまりにも象徴的です。なぜならば、聖霊こそ「息」という意味をもっているお方だからです。聖霊を意味する旧約聖書のヘブライ語の「ルーアッハ」と、新約聖書のギリシャ語の「プニューマ」は、神の命をもたらす聖霊ご自身であり、命を表すシンボルであるのです。
 創世記の「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創2:7)とあるように、「命の息」を吹き込まれることによって人は命ある者となり、被造物のうち唯一創造者なる神との人格的な交わりを持つことのできる特別な存在とされました。アダム以降、世界に生まれたすべての人は同じく息をし、神の息を同じく分け合い、命の息を受けた者として互いに愛し合うようにと命じられていました。しかし、神の息を同じくいただき、愛し合って生きるように造られた人間同士でしたが、欲望から来る罪の奴隷となり、力ある者が弱い者の首を絞め、息ができなくなるようにしてしまったのです。これはただの一人の人を殺したのではなく、神の息を絶ち、神の首を絞めることになったことを忘れてはなりません。そうです。今も私たちが息をするのは、神が私たちの内に息を吹き入れられたからであって、私たちが息をしていることこそ、神の命に与かっている証拠なのです。
 さて、本日の聖書箇所にも「息」について触れています。「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ20:22~23)
 復活された主イエスは天地創造の時、神がアダムの鼻に命の息を吹き入れられ、生きる者にされたように、恐れと不安で引きこもり死人のような弟子たちに現れ、彼らに息を吹きかけて聖霊を与えられるという再創造の業をなされます。その理由こそ、弟子たちをイエス・キリストの十字架と復活の証人としての新たな使命を与えられるためでした。 
 神の家族の皆さん、あなたは息をしていますか。新型コロナウイルスに覆われている世界、その中で絶えず差別と分裂を引き起こそうとし、人々の息ができないように首を絞め、押さえ続けている世界に向けて、命の息吹なる聖霊に満たされ、神の平和(シャローム)の福音を携え出かけて行きましょう。ぜひ、忙しい日々を過ごす中、大きく息をし、聖霊との深い交わりを味わってみてください。そうすれば、人知を超えた命と力に包まれるでしょう。ハレルヤ!

 

2020.6.7 小さな泉の恵み

 新型コロナウイルスの影響によって、私たちの生活は一変しました。会社や学校にも集うことができない。さらには、教会でさえも礼拝ができなくとるとは、考えもしていませんでした。今まで当たり前と思えることができなくなる苦しさ、当たり前の生活の中で、どれだけの恵みと感謝が詰まっていたのかを強く感じさせられています。
 野方教会では4/5から礼拝を休止し、6/7からやっと礼拝を再開します。この期間は小泉町教会のようにインターネットでの礼拝に切り替えたり、メッセージを録音したCDを届けたりと、何とか工夫して共に家庭礼拝をできるようにしてきました。このように、世界中の教会が一斉に公同礼拝を中止したことは、おそらく教会史上初めてのことでしょう。もちろん、過去においても、戦時中や災害によって、局地的に中止せざるを得なくなったことはあるかとは思いますが、このようにして全世界的規模における礼拝の中止とは、教会史の中でも史上初のことであろうと思います。しかしこの危機は逆にチャンスでもあるのではないでしょうか。今youtubeで「教会」「礼拝」というキーワードで検索すると、世界中のたくさんの教会の礼拝、あるいは、メッセージが公開されています。教会に閉じ込められていたキリストの福音が、解放されて外に飛び出しているのを見ると、神さまは、この緊急事態をも用いて、ご自身の宣教の御業を進めて行こうと計画していらっしゃるのではないでしょうか。聖書の時代から神の民が守り続けてきた、礼拝の灯火をこれからも守り続けていきましょう。                  
                                     野方教会 宮田祐亮

2020.5.31 本日の宣教



『 聖霊によらなければ 』 (使徒言行録2:36~42) 

 ペンテコステ、おめでとうございます!!!
 ペンテコステ(聖霊降臨日)は、主イエスが復活されたイースターから 50日目に、弟子たちの上に約束された聖霊が降られ、最初の教会が誕生した喜ばしき日です。もともと、ユダヤ教では過ぎ越しの祭りから50日目に小麦を収穫できたことを祝う祭があり、この50を指すギリシャ語のペンテコステという名前で呼ばれるようになりました。
 ペンテコステの聖霊降臨から2000年の歴史を通して聖霊なる神は、神の教会と民の上に限りなく臨まれ、時に適った変革をもたらされました。そして、聖霊は今も変わらない命と力、恵みによって教会と神の民を新たにされ、導かれています。そうです。教会とクリスチャンにとって、ペンテコステは命であり、力、希望の日です。生きておられる神が聖霊を通して神の民に今も変わらず働きかけてくださり、私たちをイエス・キリストの証人として新しく造り変え、神の国のために用いてくださるという確かな約束から来る希望です。
 聖霊が登場される聖書箇所を見ると、多くの場面で聖霊は汚れているものを聖められ、死んだものを甦らせ、個人や共同体を新しくされることが描かれています。しかし、これらの聖書箇所には一つの前提があります。
 「あなたがたの上に聖霊が降ると、…聖霊によらなければ、…」という前提です。主イエスもそのことを繰り返し言われたのです。そうです。ただ人が望んだからといって聖霊が働かれるわけではありません。すべては聖霊のご意志と聖霊の主導権によってなされるのです。
 使徒言行録が描いている弟子たちは、主イエスの十字架を前にして逃げてしまい、主イエスが死より復活され、彼らの目の前に現れても、恐れと弱さのゆえに引きこもっていました。しかし、彼らの上に聖霊が降られたことで、全く新しい人に変えられていきます。昨日までの弟子たちを覆っていた恐れと弱さは消え去り、死をも恐れることのないキリストの証人として新しく生まれ変わることになったのです。…“聖霊によらなければ”キリスト者は何もできません。いかに素晴らしい賜物を持っている人であっても、聖霊によらなければ、すべては無駄なことになります。それでは、どんな人のところに聖霊が降られるのでしょうか。本日の御言葉で使徒ペトロがはっきりとその道を教えてくれます。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(38節)…聖霊は自分の罪を悔い改め、イエス・キリストによってバプテスマを受ける人のうちに降って来られます。そして、聖霊はその人の全人格における新しい創造を始められるのです。聖霊によってその人は今まで味わったことのない恵みと交わりに入ることが許されるのです。そして、その人が今まで大切にしてきたこの世における価値観、生き方といった壁を打ち破って新たな道へと導かれることになります。とりわけ新型コロナウイルスの時代を生きる者に求められる姿ではないでしょうか。
 今年は小泉町教会宣教開始60周年を記念すべき年です。教会の誕生日であるペンテコステを迎え、これからの新しい小泉町教会の歴史が「聖霊による、聖霊に満たされた」歩みとなるように、神の家族お一人お一人が救われた感動を新たにしつつ、福音伝道に励んでいきたいものです。ハレルヤ!

2020.5.31 小さな泉の恵み

 先日、ニューヨークに住む友人から、オンライン同窓会の招待が届きました。すごい時代になったものです。コロナウイルスで不便もありますが、この事態がなければこうして旧交を温められることもなかったでしょう。
 毎週、小泉町教会のオンライン礼拝に参加させていただけるようになり、とても励まされています。岡山県に帰ってきてから丸2年が過ぎ、こちらで3つの教会をまわりました。どこかに理想の教会があるわけではないのだからと、教会巡りを批判されたこともあります。でも、どうしても満たされないものを抱えていました。そして、今、毎週閔先生のメッセージを聞かせていただいて、気づきました。閔先生は聖書全体から神様のメッセージを取り次いで下さっていますが、こちらでは、神様とのつながりが希薄になってしまって、霊的飢餓状態に陥っていたようです。
 オンラインの限界はあるでしょうが、神様との霊的なつながり、心の通い合いに重点を置くなら、今私が置かれている状況で許される最善の礼拝が、オンラインによる小泉町教会の礼拝です。主人も毎週楽しみにしていて、夫婦でともに心を合わせて礼拝に参加できる恵みに感謝しています。
 イエス様はトマスに「見ないのに信じる人は、幸いである。」(ルカ20ー29)と言われています。互いの顔を見ること、触れることはできなくても、神様はオンライン礼拝を祝福して下さっていると思います。もちろん、ウイルスが終息して、また皆様にお会いできる時を楽しみにしています。いつもお祈りに覚えてくださり、ありがとうございます。 
                                        K.K姉