2020年5月11日月曜日

2020.4.5 本日の宣教


『今こそ、泣くとき』 ルカによる福音書ルカ福音書232728)
 受難週礼拝を迎え、主イエスの平和と慰めが神の家族お一人お一人の上に豊かにありますように…
新型コロナウイルスによる未曾有の感染拡大とそこからの被害と恐怖、そして大切な命を守るために主日礼拝を含むすべての諸集会休止という苦渋の決断を下してから献げる最初の主日礼拝であり、2020年度の最初の礼拝となります。このような暗闇の状況のただ中、示されたみ言葉の恵みをいただきましょう。
主イエスが、十字架を背負ってゴルコタの丘に向かって歩く途中でした。主イエスは、泣きながら付いてきていた女性たちに向かって、“エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな、むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け!”と語られます。彼女たちは、イスラエル社会で無視され蔑まれてきた人たちでした。しかし主イエスは彼女らをあるがまま愛し、愛の御手で優しく包んでくださいました。いつも憐れみ深いまなざしで接してくださり、生きることの素晴らしさを教えてくださったお方、何の罪も犯したことのなかった主イエスが、最も呪われた罪人の象徴である十字架にかかるなんて信じられないことでしたし、女性たちは泣き崩れてしまいました。もし私たちが、2000年前のエルサレムにいたとしても同じ悲しみに包まれていたに違いありません
しかし、主イエスは、「わたしのために泣くな」と言われる。なぜならば、主イエスの十字架の道は、究極的には復活の勝利の道であって、全人類に救いと勝利をもたらす道であったからです。むしろ私たちは、主の十字架の道に感謝し、主の命をかけた愛に感謝の讃美をささげつつ、主に従うことを心がけるべきです。
 興味深いことに、「泣くな」と言われた主イエスが、続きの言葉では「泣け」と命じられる。「自分と自分の子供たちのために泣け」…。これはやがて訪れるべきローマによるエルサレム滅亡の預言の言葉であり、その日には、泣かずにはいられなくなることを、主イエスは見ておられたのです。その日を恐れつつ、エルサレムと子どもたちを胸に抱き、涙をもって神の憐れみを乞い求めなさいと言われるのです。そうです。主イエスは最後の最後まで、人への思いやりと愛で満ちておられます。公生涯を通じていつも小さな人、弱い人、悲しむ人、病んでいる人の友となられ、彼らの傍らで手を差し伸べ支えてくださいました。そして、その愛の姿は十字架を背負う最後の時まで続きます。・・・愛なる主イエスは今日も、わたしたちに語られます。“今こそあなたとあなたの家族、あなたの国のために泣く時だ!”と。新型コロナウイルスという未曾有の災難に直面し不安と恐怖に怯えている世界と日本社会、感染症にかかって生死の戦いをしている人々、また命をかけて医療現場で働いている医療関係者の方々のために、私たちは泣きながら執り成し祈り、世界の人々に助けの手を差し伸べることを心に新たにしなければならないのです。
 ぜひ、私たちの涙と悲しむ心をいつも見つめておられる方がいることを覚えましょう。その方は私たち以上に悲しまれ、呻きをもって執り成してくださると聖書は約束しています。“この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか(ヘブライ4:1516)”        
 私たちが主イエスの十字架の前で、日本を含む世界の国々の悔い改めと救いのために涙し、神への愛の回復を執り成し祈ることができますように…。主イエスは私たちの涙の祈りを喜ばれるでしょう。ハレルヤ!


2020.3.29 牧師室便り

~キリスト者と感染症~

「わが名を畏れるあなたがたには義の太陽が昇る。その翼には癒やしがある。」(マラキ3:20

新型コロナウィルスが全世界を恐怖に陥れています。まさに「感染症には国境はない」という言葉を認めざるを得ない状況です。数えられない人が感染し、命を落とし、世界経済もマヒしてしまったかのような現状です。世界の国々は自国民を守るために入国制限を打ち出したり、人が多く集まる行事やイベントを中止させたりしています。また、キリスト教会も礼拝を休み、多くの教会がインターネットで礼拝をささげています。各国の首脳たちが言うように、第2次世界大戦以降、いやそれよりもさらに厳しい戦いに挑んでいるような日々です。しかもこの戦いがいつ終わるかもわからないだけに、人々の不安はいや増しているのでしょう。

それでは、キリスト者はこのような時にどうあるべきでしょうか。人類の歴史において全世界的な感染症との闘いは何度も繰り返されてきました。とりわけルマルティンルターが生きていた中世ヨーロッパにおいて黒死病と呼ばれていたペストは何度もヨーロッパを襲いました。人口のほぼ半分の人がペストで死んでいきました。そこでルターは、「死に至る病ペストから逃げることは許されるか」という手紙を書きました。

手紙の中でルターは、「他者へ奉仕する者は誰でも、職業上逃げない責務がある」ことを強調します。「彼らは死の危険を前にしても、しっかりと踏み留まらなければならない」と書きます。また、ルターは病人を世話することを医者だけに任せてはならないと言います。神を愛するということは人を愛するということで現れるからです。すなわち、感染症が広がる時には、自分の能力を尽くして感染症を防がなければならないことを強調し、その中でも検疫と診察のような医療活動と清潔な生活を勧めました。彼は、キリスト者が「ただ信仰」という言葉を語りながら感染症を軽んじることは無知であると考えていたのです。だからと言って、感染症で死んでいく隣人を救うことは一般市民の義務ではないこと、むしろその場から離れることも教えました。…ルターは感染症にかかることを恐れませんでした。なぜならば、キリスト者にとって苦しみと死という言葉が終わりでないことを知っていたからです。…受難節を過ごす私たちキリスト者への主イエスの御声をしっかりと心に受け止めながら、知恵ある者として最善の道を選んで歩みましょう。このような試練の時こそ、キリスト者が執り成し祈る時、恵みの時なのです。シャローム!

2020.3.29 本日の宣教

『 たとえ死の陰の谷を歩むとも 』 (詩編編23:16)

今年になって父親の本棚にあった鄭念(チェン・ニエン)という中国の女性が書いた『上海の長い夜』(Life and Death in Shanghai)という本を読みました。

 この本は、中国の文化大革命の時代に国民党政府の外交官未亡人であった作者が、迫害や拘置所での独房生活を通して、寒さと飢え、病苦と拷問に耐え、人間の尊厳を失わず生き延びた奇跡的な回想記です。チェン・ニエンは、夫を1957年に癌で亡くし、女優を目指す梅平(メイピン)という美しく優しい娘と二人で、洗練された居心地の良い家で暮らしていました。

66年代に毛沢東に扇動されて始まった文化大革命は、当時実権を握っていた党幹部、学者、旧地主の子孫などを「反革命分子」とみなし、紅衛兵と呼ばれた熱狂した学生・高校生による組織的・暴力的な吊るし上げが中国全土で10年間に及び横行しました。チェン・ニエンも資本家の手先として攻撃の対象となり、突然上海の家と財産を若い紅衛兵に暴力的に略奪・破壊され、669月に逮捕され拘置所の独房に収容されてしまいました。

娘と別れ離れになったチェン・ニエンは、劣悪な環境の独房で、繰り返される看守による暴力、罪の告白を強要する拷問、そして、何よりも孤独と病苦に耐え、19733月まで6年半の監獄生活を生き延びました。

 独房では、埃まみれのセメントの部屋をトイレットペーパーで清潔に保ち、劣悪な環境の中でも人としての尊厳を維持する工夫が描写されています。絶望的で孤独な日々の中で、窓から入ってきた小さな蜘蛛に目を凝らし、蜘蛛が正確に巣をつくる不思議さに、生命の奇跡、創造主である神様に感謝する描写は、読む人の心を打ちます。

 クリスチャンであったチェン・ニエンは、暴力的な迫害の最中に、詩編234節「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。」を心の中で何度も暗唱し、耐え続けました。チェン・ニエンという一人のクリスチャンを通して、聖書を読めない環境の中でも、信仰が苦難を乗り越える力となることに改めて感動しました。

 今、世界中を新型コロナウイルスの嵐が吹き荒れています。多くの人々が命を失い、感染する恐れと、経済的にも将来の不安で押しつぶされそうな我々です。どんな困難な中でも信仰を失わず、試練を希望に代えてくださる神様に祈りつつ歩みたいと思います。
                                            島田 茂

2020.3.29 小さな泉の恵み




先日二週間ぶりに礼拝に出席。久しぶりに自宅から駅までの道路、しばらく見なかったが、道路脇の木々は春のいぶきが感じられ、それとしばらくぶりに電車の車窓から見る光景も何かなつかしい感じがしました。
先週この欄に瀬戸姉が書かれた日本中、いや世界中のこの新型肺炎の記事を読ませていただきました。
本当にわが地区でも老人会や公民館の行事等は、全て中止。外出を控えるようにとの町当局よりの伝達。
私は雨天の日は部屋で読書、晴天は農作業や除草。
私の住むこと村一帯は、かつて縄文遺跡として文化庁の指定を受けている地域。
75年前に、村の人々がここに来て開拓した時には、沢山の縄文の遺物が出土したのです。私がこの地に住んだ時は、某大学の考古学専攻の学生達が、遺物の発掘に来て研究しているのを見ました。私は農作業をしていると、時々、土器等の破片等を見つける時もあります。縄文の人々は、ここに生活していたのだ。人々はどんな生活をしていたのだろうか。その頃にはコロナウイルスのような病気もなく、自給自足の集団生活だったと想像。彼らは彼らだけの協力し合いの生活。医者も居無く、病気も無く、娯楽も無く、今一度縄文時代に帰ってみたらと想像しました。その頃は神様は無く、日々に昇る太陽をみては彼等は拝んでいたと言うこと。それでも彼等は幸せであったらしいこと。
現在はどうだろうか、文化や日々の生活が発達過ぎて、不自由の無い生活しているのに、不足ばかり言う私達です。縄文の方々の生活を思い、今の生活に感謝して過ごしたいと思います。外出のできない毎日、私はこのように、思っております。早く新型肺炎の終息を願っております。自宅にいてこのように考えました。
A.M姉

2020.3.22 牧師室便り

 ~ 愛する北陸三教会共同体へ ~

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」(詩編1331

本日は、敬愛する田口先生をお迎えしての今年度最後の交換講壇であると同時に、田口先生の金沢教会の主任牧師としての最後の交換講壇でもあります。今まで24年間、金沢教会に遣わされ、北陸三教会の交わりと伝道の働きをリードしてくださいました。先生のリーダーシップがあったからこそ、北陸三教会の現在の祝福も訪れたと言えましょう。4月からは杉山望先生ご夫妻が北海道から赴任されるため、田口先生は牧会の現場から一線を引くことになりますが、神は先生の賜物を有効に用いられることでしょう。

また、来週29日は、小泉町教会による福井教会への宣教支援も終わりを迎えます。4月から福岡から平良憲誠先生ご夫妻が赴任されるからです。ここ数年間、無牧教会の現状を、土肥兄を含む数人の教会員が大切に守ってきたことを私たちは知っています。そのため、3年前からわが教会は金沢教会と協力して2ヶ月に一度ではありましたが、微力ながら支えることができ、福井教会の復興のために執り成し続けてきました。そしていよいよ協力伝道が実を結び、平良憲誠先生ご夫妻という素晴らしい働き人が与えられたのです。ハレルヤ!

新型コロナウィルスで騒ぐ中で始まる2020年度の北陸三教会の歩みですが、主イエス・キリストを頭とした共同体としての豊かな愛の交わりと御業を期待しつつ執り成し続けたいものです。田口先生、今までの尊いお働きを心から感謝いたします。また、杉山先生ご夫妻、平良憲誠先生ご夫妻の働きの上に豊かな祝福が注がれるように祈ります。シャローム!

2020.3.22 本日の宣教


喜びの信仰  (ローマの信徒への手紙15章13節)

私たちがいただいている信仰は「喜びの信仰」です。「喜び」はいらない、という人はいないでしょう。みな喜びに満たされた幸な人生を送りたいと思っています。にもかかわらず、それを得られず、他者を批判し、世の中が悪いと言い、こんなはずではなかった、という人が周囲にあふれています。イエスさまの語られた言葉が次々に思い出されます。

.まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、あなた方が欲しいと願っているものは、おまけとして与えられます。

.必要なことは多くはない。いや一つだけだ。 .恐れることはない。ただ信じなさい。

.「できれば」というのか。信じる者にはなんでもできる

イエス様はいつも、今生きている私、あなたの信仰に命の息を吹きこもうとされます。イエス様は、からし種一粒の信仰を問題にされました。信仰は今、ここで生きる力になるものです。私たちは、信仰で毎日を生きるのです。この世にあって、しかし、あたかも神の国を生きるように生きるのです。信仰によって、神の国に生きるのです。

信仰は、神のご計画が必ず実現すること、神の勝利を硬く信じることでもあります。しかし、過去と未来に私たちは悩まされ続けています。ああしなければよかった。あのようにすべきではなかった。あのようにしなければならなかったのだ。ああすべきだった。悔いと後悔と責めと非難、批判がつきまといます。

また、どうなるだろうかこの先。もし、事態が悪くなったらどうしよう。このようにして、過去と未来が今を責め立てます。そうすると、後悔と罪責感とそして、もしという不安と恐れが私たちを襲います。その結果、私たちは今を失うのです。

どのようにしてこのようなジレンマから抜け出せるのでしょうか?

それは、愛の神に目を向け、心を開くことによってです。具体的には、神に聞くことです。イエスはいいました。私を見たものは神を見たのだ。私に聞いているとき、神にきいているのだ、と。私たちの信ずべき神は、私の今を支配する方です。過去の重荷と未来の思い煩いを取り除くために、イエスはこられたのです。

今・ここを生きるために不可欠なものは、祈りです。祈るときに、私たちは神の前に出るからです。祈るとき、私たちは一人ではなく、神とともにある事を信じるのです。神が私たちに仕えてくださったのです。神は無力な方ではなく、また、神は暴君でもありません。私たちの幸いのために、何でもしたいと願っておられる方だからです。

イエスは「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良いものを与えることを知っている。まして、あなた方の天の父は求める者に良いものをくださるにちがいない。」

祈る事は、愛の語りかけを聞く事です。耳を傾ける事です。聞き従うということです。これは信仰の本質です。英語では、obedienceといいます。それは、もともと、ラテン語の「注意深く聞く」ということばから生まれたのです。注意深く聞かなければ、神の愛の語りかけは聞こえないのです。祈らないという事は、神に聞かないという事です。神の愛の声を聞かなければ、私たちは過去に埋没し、未来の心配によって振り回され、エネルギーを吸いとられてしまうのです。

だから、どんな時でも神を信じ、神の愛が豊かに注がれていることを信じ、愛され、守られている私を思い描きましょう。誰もこの神の愛を私から奪うものはいないのです。私は愛されている。神はインマヌエル。私はただ信じる!         
                                      金沢キリスト教会牧師 田口昭典

2020.3.22 小さな泉の恵み





目に見えない小さな新型コロナウイルスがあっという間に、世界中を席巻し、WHOはパンデミック宣言をしました。国と国は閉じられ、人々は見えないウイルスという敵に、多かれ少なかれ不安や不自由を抱きながら生きているこの数か月です。
マスクや消毒液が市場から姿を消してだいぶたちますが、次はトイレットペーパーが、たった一人のデマによって、皆が買いに走り、一夜にして消えるという出来事にびっくりしました。もっと驚いたのは、その後、十分に在庫があるとテレビやネットが伝えても、相変わらず棚は空のままです。情報はたくさんあるのに、どれを信じればよいかわからず、とにかく買っておこう!というパニック時の心理でしょうか。情報があふれる時代の皮肉のようです。
物不足やウイルスのこと、受診や検査のことなども色々な情報が溢れ、県によっても対応が様々で、不安が残ります。
ウイルス戦争と一部で言われているように、戦争もこのようにして情報が多くても真実がわからないまま、始まるのかもしれないと背筋が寒くなりました。感染者が増え続ける新型肺炎は、まだまだ終息の出口は見えないままです。主は、今のこの世界をどのような目で、ご覧になっておられるのでしょうか。
ご愛の主の御心を思いつつ、毎日コロナのことを祈らない日はありません。世界祈祷日集会は中止になりましたが、今こそ、それぞれの場所で心を一つにして、時を合わせて執り成し祈りたいです。
                            S.Y 姉