2023年11月23日木曜日

2023.11.19 牧師室便り

 ~ 出会わせてくださる神 ~

先週、ある店に入ったら、しばらく礼拝に来られていないA姉の姿が目に入ってきました。“○○さん!”…彼女は驚きながら、“閔先生!”と喜びの挨拶を返してくれました。その後、店の中での短い交わりでしたが、姉妹が忙しくしていることや教会のことをいつも思っていたこと、しかし、しばらく教会から離れていたことが気になっていたことなどを涙ながら話してくれました。そして、彼女から私の心にすっと入ってきた言葉が、“神様が出合せてくれたんですね!”という言葉でした。…そう、神はいつもA姉を覚えておられ、彼女の帰りを待っておられる。そして時に適って出会わせてくださる神であるということを彼女も感じたわけです。

 父なる神は待っておられます。しばらく神の家から離れてしまっても放蕩息子を待ち続けておられた父の姿は今も変わっていません。大切なことは、私たち神の家族一人ひとりが父の御心を抱きつつ、離れてしまった兄弟姉妹を呼び戻すための小さな働きを神が望んでおられるということでしょう。

 日々、出会わせてくださる神に導かれながら、久しぶりに出会う神の家族に、父なる神の愛のメッセージを伝えることでしょう。もう信仰を忘れているだろうと人間的な思いに捕らわれず、あきらめないことです。

 先週のチヂミカフェでは、町内の方や教会員の家族や友人の方々が集いました。チヂミやお茶を楽しみながら、本当にカフェに来たように和気あいあいとした時を過ごしていました。主日礼拝にはなかなか誘うことが難しいと思われる方々が、違和感なく礼拝堂に入ることができ、礼拝堂が憩いの場所となればそれ以上の伝道はないでしょう。

すべての出会いは神の御手の業です。私たちの人間的な判断や考えに捕らわれるず、出会わせてくださる神の御心に応答できる神の家族の皆さんでありますように…。シャローム!               



2023.11.19 本日の宣教

 『キリストによる逆転劇』          

                                                             フィリピの信徒への手紙2章5~11節

聖書が教える神の国の業は、いつも逆転の出来事で溢れています。まさに、今私たちが生きているこの世界の価値観や生き方を覆す逆転劇が実現するところが神の国なのです。だから、神の国の民も神の逆転劇を期待し備えておくことが重要です。そして、聖書の中でその逆転劇が起こる最も象徴的な出来事がクリスマスです。

クリスマスの逆転劇は、聖なる神の御子が私たち罪人たちの時間の中にやって来られたことです。さらに、創造者である神が被造物である人間になり、しかも最も弱い赤ん坊の姿で飼い葉おけに生まれたのです。

これらの出来事によって、高ぶる世界において謙遜の極みを現し、弱い者を勇士に、貧しい者を幸いな者に変えるメッセージが示されています。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(4:6~8)」

パウロは、主イエスが神の身分であるにも関わらず、御自ら僕の身分になり、人間の姿で現れ、十字架の上で死ぬという父なる神の計画を、生まれる時から常に確認しながら生涯を全うされたことを歌っています。ここに、クリスマスにおける主イエスの「僕としてのアイデンティティ」が示されているのです。

それでは、「なぜ神は人となられたのでしょうか」。その答えはただ一つ、愛ゆえです。神があなたと私を愛し、私たちを罪と滅びから救おうとされた愛の熱情のゆえ。その愛のほかに、クリスマスの出来事を説明する言葉はありません。

有名な神学者である小畑進は、仏教学も専門的に学び、仏教の親鸞とキリスト教を比較しながら、「親鸞の教えとキリスト教の教え、特にパウロの教えには似通ったところがいくつもある」と述べました。しかし、小畑師は、親鸞とキリスト教との決定的な違いがあるとも言います。それは、仏教が「仏に成る」という成り上がり型の宗教であるのに対し、キリスト教は「神が人となられた」というへり下り型の宗教だと。締めくくっています。

その通り、キリスト教の神は、神としての栄光や威光、尊厳をもすべて捨てて罪ある人の姿を取り、最後には十字架の上で死なれるという世の価値観からすると敗北としか思えない、どうしても理解できない道を貫かれたのです。

しかし、「このため」(9節)、神はキリストを復活の主として高く上げ、あらゆる名にまさる名を与えられたと、神の逆転劇のフィナーレを備えられたのです。

この逆転劇を成し遂げられた神は、今もなお弱さと貧しさ、苦しみの中にある神の家族の傍らに共におり、助け、導いてくださることを約束しています。愛する神の家族の皆さん、クリスマスを通して示されるキリストの逆転劇を讃美しつつ、私たちの生活においても神の国と神の義が実現する物語を信じ、期待しましょう。

ハレルヤ!




2023.11.19 小さな泉の恵み

 先週の日曜日は、中1の息子といっしょに「チヂミカフェ」に参加することが出来ました。韓国では雨の日にチヂミを食べるそうです。肌寒い雨の日に食べるチヂミは美味しく、閔先生たちの温かいおもてなしや楽しい交わりに心もお腹も満たされました!(笑)

息子には祈るだけではなく、聖書から神様の御心を知って欲しいと思い、時々いっしょに聖書を開いて読んでいます。

聖句を繰り返し声に出して読んでいると、私自身が御言葉に励まされます。忙しなく聖書を読むのと違って、心に深く入り聖句に留まることが出来ます。心の平安を失う時も、聖句を思い出し神様の愛を覚えることが出来ます。

最近励まされた聖句から。

「イエスはまことのぶどうの木」

ヨハネ15:1-8

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5)

                  R.M.姉


2023.11.12 牧師室便り

 ~ 牧師のセルフケア ~

先週6日、コロナ以降初めての対面による中部連合教役者会が名古屋教会で開催されました。無牧師の金沢教会と岐阜教会を除いた中部連合に属している牧師が全員集まることができました。そして今回の教役者会では、「セルフケアを考える」というテーマで、松見享子師(宣教研究所所員)による講演が行われました。主に、牧師及び牧師家族のストレスマネジメントという観点から準備されたとのことで、その場にいた中部連合の牧師夫妻から多くの共感が寄せられました。

 特に、コロナ危機を経て、諸教会にも様々な課題が生じ、各牧師たちも大きなストレスや課題を抱えていて、実際にストレスに覆われてしまったことで牧師としての働きを休んだり、病気を患ったりした方も多くいる現状です。

 考えてみると、牧師とは神からの召命を受け、人々に神の愛と御心を伝える者としての使命に生きる存在です。だからこそ、ストレスを受けたり、弱音を吐いたりすることなどとは関係のない人であり、すべてのことを祈りと御言葉の黙想など霊的な交わりを通して、いつも力強く信徒たちの模範として神の御心を伝える者という役割を担っていくことが求められてきたのも事実でしょう。

 自分自身を振り返っても、どんなことがあろうとできるだけ肯定的に、祈りと御言葉の黙想を通してストレスを解消してきたと思いますし、どんなストレスに対しても屈することはないと思ってきました。しかし、今回の学びを通して新たに気づかれることも多く、自分自身と家族の心と魂のケアが必要であることを強く示されるきっかけとなりました。

 牧師も赦された罪人に過ぎず、ストレス状態を引き起こす刺激(ストレッサ―)を多く抱えていることを認めつつ、聖霊様との交わりの中で上手にセルフケアできるような生活を築いていきたいと願います。また、神の家族の祈りと支えをよろしくお願いします。互いに重荷を背負い合っていきましょう。シャローム!



2023.11.12 本日の宣教

 『 優れた礼拝とは? 』          

                                                         ヘブライ人への手紙11章4節

ヘブライ人への手紙の著者は、信仰を説明するために4節から信仰の英雄たちを紹介していますが、最初に紹介されるのはアベルです。なぜアベルなのでしょうか?アベルは最初の人間アダムの子であり、初めて神を礼拝した人として、しかも優れた礼拝を献げた人として描かれているからです。

旧約聖書では早速に、神に近づく方法は犠牲を用いた礼拝であったことが述べられています。礼拝の基本であり、礼拝の中心には犠牲(いけにえ)があります。その犠牲による礼拝を初めて献げた人がアベルであるのです。

創世記には犠牲がなかった時期がありました。それはエデンの園でアダムとエバが罪を犯す前の時期でした。その時は完全な状態であって、いけにえは必要ありませんでした。しかし、彼らが神の言葉に従わず罪を犯した後からいけにえの礼拝が始まったのです。罪を犯してエデンの園から追放されたアダムとエバは、神に近づくために一つの道を示されることになりますが、それが犠牲による礼拝でした。犠牲とは何でしょうか?それこそ罪の代価であって、創造者なる神に近づく唯一の道であります。

そして本日の御言葉には、二人の名前が登場します。アダムとエバの息子たち、カインとアベルです。カインは農夫で、アベルは羊飼いでした。ある日、犠牲をささげる日が来て、二人はそれぞれ神の前に立ちました。

そして二人はそれぞれ神に犠牲を献げました。カインは農夫であったため、地の産物を神に献げ、アベルは羊飼いであったため、羊の初子を献げました。

しかし、神はアベルの犠牲を受け入れ、カインの犠牲を拒絶されたと聖書は記しています。なぜでしょうか?

著者は「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げた」と述べています。ここで著者は「優れたいけにえ」という言葉を使っています。二人は同じように礼拝を献げているが、神が喜ばれるより優れたいけにえ、より優れた礼拝があるというのです。つまり、神が望むいけにえを献げる人を、神が喜ばれるのです。 

「アベルは信仰によって、より優れたいけにえを献げた」…そうです。アベルは神の前で信仰に基づいたいけにえを献げました。神との関係において基本的なものは信仰です。いけにえを通して罪が赦され、神の前に近づけるという確かな信仰がなければ、神に真実な礼拝を献げることはできません。すなわち著者は、信仰がない礼拝もあるということを示しています。カインの礼拝がその例です。彼は神が犠牲を通じて何を望んでいるかを十分に理解していなかったのです。単にいけにえ(犠牲)を献げれば神が受け入れるというわけではありません。

愛する皆さん、神は霊であり、生きておられるお方なので、私たちが献げる贈り物に興味を持っているのではなく、その人の信仰に関心を持っておられます。どのような信仰によって神の前に出るのかが大切なのです。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならない(ヘブライ11:6)」…その通りです。

神の家族の礼拝が、神に受け入れられ、神に喜ばれる優れた礼拝でありますように…。ハレルヤ!




2023.11.5 牧師室便り

 ~ 神の秩序が崩れている ~

連日クマに襲われたというニュースで騒がれている日本列島です。環境省の発表によると、10月の全国のクマによる人的被害件数が13道県で発生していて、立山連峰に囲まれている富山でも被害に遭われた方々が増えている状況です。

 考えてみると、地球温暖化による気候変動の影響で、クマが食べる餌が減少してしまった結果、山で生息するはずのクマが人間の住宅地や農地にまで降りてきて食物を求めるようになったことがあるでしょう。特に今は冬眠に入るクマにとってエネルギーを蓄える季節であるため、クマたちにとってはやむを得ない選択であると言えましょう。

それに加え、クマたちの生息地が人間社会の欲望による開発、破壊などによって、彼らも生息の場所を求めて人間の住む町の近くまで出没するようになったことを忘れてはなりません。

動物たちは神に創造されたまま、神の御計画と秩序、さらに本能に忠実に生きているわけであって、特別に悪いことを行ったわけでもなく、彼らに責任を負わせることもできないのです。

しかし、神が造られた被造物の中で人間だけが神の御計画に逆らい、罪を犯し、神が造られた秩序を破壊してしまっているのが現実です。

神の代理として自然の管理者の責任を任せられているのに、管理どころか各自の欲望のゆえに破壊に走ってしまった。また、神に定められた領土の境界線を越えて、他の民族や国家を侵略し殺戮の道を選んでしまった。さらに、神の領域とされている生命さえも科学という名のもとに犯してしまった。どうしても赦し得ないところまで来てしまった。「互いに愛し合いなさい」という戒めに対し、愛は冷えていくばかり…。

キリエ・エレイソン!主よ、憐みたまえ。

マラナタ!主よ、来たりたまえ。



2023.11.5 本日の宣教

 『 現在の苦しみから永遠の栄光へ 』          

                                                                    ペトロの手紙一 5章10~11節

使徒ペトロは、苦難に遭っている小アジアの信徒たちに、恵みの神に目を注ぎ、神がしてくださったこと、そして、今からしてくださることについて言及することで、キリスト者こそ永遠の栄光に招かれている存在であることを確かにしています。
ペトロは、「あらゆる恵みの源」である神が、苦難の中にある神の子どもたちをキリスト・イエスを通して永遠の栄光へと招いてくださると告げます。そして神は、苦しみを受けている信徒たちを「完全な者とし」「強め」「力づけ」「揺らぐことがないようにしてくださる」ことを約束しておられます。これら4つの言葉は、どれも神が苦しむ信徒たちを堅く立たせ、揺らぐことがないように守ってくださることを示しています。その通り、永遠の栄光に招き入れられるまで神の恵みと守りは中断されることがないということを、ペトロは明らかにしているのです。
特にペトロは、「しばらくの間の苦しみ」(10節)という言葉を用いて、この世におけるキリスト者が経験する苦しみについて表現します。それでは、彼はなぜ「しばらくの間」という言葉を用いているでしょうか。それは言うまでもなく、神の民に約束されている神の国の栄光が「永遠」であることを強調することで、当時のキリスト者たちの一時的な苦しみは終わり、永遠の栄光が与えられることを約束しているのです。
実際、人生の中で、厳しい試練や苦しみが長く続くと、私たちは「この苦しみを早く取り除いてくれ!」と叫ぶでしょう。もう神に忘れられているような絶望感に捕らわれても
おかしくありません。しかし私たちの信仰の目を神の栄光の約束の時間に照らして見ることができれば、想像を超えるような慰めと恵みに包まれることになるでしょう。そうする内に、私たちが味わっている苦難は限られている時間のうちの出来事であって、やがて迎えるべき永遠と比べれば、それは一瞬の内に変わって見えるでしょう。
 それでも、耐え難い試練に直面している人に、「あっという間だよ、もう少しで終わるよ、だから大丈夫だ!」とは言えないはずです。だから、私たちはイエス・キリストの十字架を見上げ、十字架による慰めと恵みを慕い求めるのです。十字架の主イエスは私たちの苦しみをすべて知っておられ、共に苦しまれ執り成してくださっていることを味わうことができ、その十字架のイエスから大きな励ましをいただくことになるわけです。
 あなたの人生において、耐えられないような苦難はいつでしたか、その苦難はどれほど長く続いたでしょうか。今も苦しみの只中にあるかもしれません。…ぜひ、主イエスの言葉に耳を傾けましょう。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(ヨハネ16:33)」…主イエスはあなたが被っている苦難をすべて知っておられ、勇気を与えてくださり、勝利の道を開いてくださっていることを信じましょう。
願わくは、神の家族の皆さんがしばらくの間の現在の苦しみに呑み込まれず、永遠の栄光の約束に目を注ぎつつ、福音を宣べ伝える歩みを続けますように…。ハレルヤ!


2023.10.29 牧師室便り

  ~ 常に新しい革袋を備える ~

4年ぶりに行われたチャペルコンサートが恵みのうちに終わりました。何より演奏者のミルトスの三姉妹と共演してくださった箏の金丸姉、ピアノの發田姉、クラリネットの安田姉の尊いご奉仕に感謝の拍手を送ります。また、朝早くから軽食準備に加わってくださった女性会の皆さん、さらに、受付と案内、駐車場奉仕、写真と撮影、トイレ掃除、そしてその他の奉仕と執り成しの祈りをしてくださった神の家族お一人お一人のお陰で祝福されたチャペルコンサートを開くことができました。感謝!

 出席された方の中には、「何かわからないけど、コンサートの間ずっと感動して涙が出ていた」という声も聞こえるほど、恵みに満たされたひと時でした。さらに、奉仕する皆さんの生き生きとしたお姿に、私の心もワクワクしていたと思います。願わくは、チャペルコンサートに来られた方々の心が神の愛と臨在に応答できますように…。

 明後日31日は、宗教改革記念日です。500年以上前に、形式と伝統に捕らわれていた古い革袋のような当時のローマカトリック教会を破り、マルティン・ルターをはじめとする宗教改革者たちを用いて恵みの福音と信仰によって新しくされたキリスト教会という革袋を与えてくださった御業を覚え記念する日です。

 ぶどう酒である神の御言葉はすべてのものを常に新しくする性質をもっています。「新しいぶどう酒は新しい革袋へ」という主イエスの福音のメッセージは、一度限りの新しさを指しているのでなく、常に起こる創造の業を現しています。とりわけ神は、キリスト教会を歴史の中で絶えず新しくして来られましたし、一人ひとりのキリスト者を新しく誕生させ、日々新たな信仰生活へと招かれ、常に新しい革袋の備えを求めておられることを覚えましょう。

 小泉町教会を新しくしてくださる聖霊の御業を信頼し、礼拝をはじめ、すべての信仰生活において喜びをもって常に新しい革袋を用意できる神の家族でありますように…。シャローム!



2023.10.29 本日の宣教

 『 とこしえに立つ神の御言葉 』          

                                                                    イザヤ40:1~11

 イザヤ書の40章から55章は、第二イザヤという人物が記したと言われています。40章は、イスラエルの捕囚の民が、故国へ帰還することになるという内容になっています。
 まだ、このときのイスラエルの民は、捕囚から解放されてはいませんが、神様は、もう十分に、イスラエルの民は、自分たちの罪のゆえに国が滅ぼされ、捕囚として苦難を味わうことになった、そのような形で、罪の報いを受けた、それも十分に受けたと判断され、彼らをバビロンにおける捕囚から解放し、エルサレムの地へ御戻しになることを決められたのでした。そのときの冒頭の言葉が「慰めよ、わたしの民を慰めよ」というものでした。これが第二イザヤの使命(ミッション)だったのです。「エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と」と、イザヤは捕囚にある民に語ったことでしょう。十分にイスラエルの民は、罪の報いを受けました。苦難は終わりました。服役をしていたけれど、もうその期間も終わった、あなたがたはこれから自由の身になるのだと、イザヤは御使いから受けた言葉を語り告げることになりました。
 しかし、イザヤには、一つの迷いがありました。それは、この知らせは果たして人々のほんとうに喜びになるのかどうか、ということでした。というのも、彼らの中には捕囚の身になって既にこの地で、生活ができる地盤を築き挙げている者たちもおれば、逆に、長きにわたる疲労困憊の生活で、何の希望も見出すこともできず、そのことを信じることがもはやできない者たちもいたからです。そこでイザヤは、わたしは言う。何と呼びかけたらよいのか、と」。それに対して、「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」というものでした。私たちのこの肉の体は、有限であり、神様は、無限です。神様のお言葉もまた、永遠なるものとして、普遍的なものとして、存続しつづけ、私たち限りある人間のありようを導き続けていくのです。否、命を与え続けていくのです。
 「高い山に登れ、よい知らせをシオンに伝える者よ」。伝令がそのつとめてして、勝利のよき知らせをもたらすように、彼はことをなすのです。そして、11節「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」。神様は散らされていった人々を再び集めます。そして、この小羊を懐に抱くお姿は、険しい谷底から一匹の失われた羊を救い出しているイエス様のお姿とも重なるのです。神様は、イスラエルの民を見捨てたわけではありませんでした。今なお、「わたしの民」と、神様は言ってくださっています。今の捕囚の状況の中で暮らすイスラエルの民にとって、第一に必要なことは、慰められることです。刑罰のときが十分に過ぎ、終わったことの宣言です。赦され、解放されて都エルサレムに戻れることです。大きな希望が語られています。神様の永遠に生き続ける力ある言葉によって、再び、彼らが命をえて生きていくことが可能となるのです。
                       平良憲誠牧師
                      (福井キリスト教会)


2023.10.29 小さな泉の恵み

 今日は、4年ぶりとなる「敬老の集い&町内懇親会」を地元の古い公民館で主催します。今年度私が属する5班から町内会長を出すこととなり、会長を経験していない私が引き受けることとなりました。コロナ禍以前は、富山と東京のアパート暮らしの生活で殆ど町内の行事にも出ることがなかったのですが、2020年4月からは在宅で仕事をしていることが多く、暇だと思われたのかもしれません。妻からは、「お父さん、コロナで殆どの行事が中止だから、大したことないよ。」と説得され、地域に貢献できるチャンスなので、喜んで受けたのですが、新型コロナも5類になり、ほとんど一気にすべての行事が再開することとなりました。

昨日、公民館に役員が集まり、テーブルや音響などのセットを行いました。終了後地域の相談役で公民館長のNさんが「もう敬老の集いという名前はやめんまいけ?敬老は老人を敬うということだけど、出席する人が殆ど老人なので、敬老はおかしいよ。もっと若い人も参加したくなるような横文字の、例えばシルバーフェスティバルはどうかな?」 するとやはり顔役のMさんが、「シルバーも年寄りなので、『サンクス・ギビング』がいいんじゃないかな?」と、Nさんも「何だろうと思わせるのがいいね。」と。私は、心の中でいいねぇと思いました。来年は、クリスマス会をやろうという風になるかもしれません。

あと半年、町内会の仕事を頑張りたいと思います。人々に仕える働きを通してイエス様の福音を伝えられることをお祈りください。

                              島田 茂兄