『キリストによる逆転劇』
フィリピの信徒への手紙2章5~11節
聖書が教える神の国の業は、いつも逆転の出来事で溢れています。まさに、今私たちが生きているこの世界の価値観や生き方を覆す逆転劇が実現するところが神の国なのです。だから、神の国の民も神の逆転劇を期待し備えておくことが重要です。そして、聖書の中でその逆転劇が起こる最も象徴的な出来事がクリスマスです。
クリスマスの逆転劇は、聖なる神の御子が私たち罪人たちの時間の中にやって来られたことです。さらに、創造者である神が被造物である人間になり、しかも最も弱い赤ん坊の姿で飼い葉おけに生まれたのです。
これらの出来事によって、高ぶる世界において謙遜の極みを現し、弱い者を勇士に、貧しい者を幸いな者に変えるメッセージが示されています。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(4:6~8)」
パウロは、主イエスが神の身分であるにも関わらず、御自ら僕の身分になり、人間の姿で現れ、十字架の上で死ぬという父なる神の計画を、生まれる時から常に確認しながら生涯を全うされたことを歌っています。ここに、クリスマスにおける主イエスの「僕としてのアイデンティティ」が示されているのです。
それでは、「なぜ神は人となられたのでしょうか」。その答えはただ一つ、愛ゆえです。神があなたと私を愛し、私たちを罪と滅びから救おうとされた愛の熱情のゆえ。その愛のほかに、クリスマスの出来事を説明する言葉はありません。
有名な神学者である小畑進は、仏教学も専門的に学び、仏教の親鸞とキリスト教を比較しながら、「親鸞の教えとキリスト教の教え、特にパウロの教えには似通ったところがいくつもある」と述べました。しかし、小畑師は、親鸞とキリスト教との決定的な違いがあるとも言います。それは、仏教が「仏に成る」という成り上がり型の宗教であるのに対し、キリスト教は「神が人となられた」というへり下り型の宗教だと。締めくくっています。
その通り、キリスト教の神は、神としての栄光や威光、尊厳をもすべて捨てて罪ある人の姿を取り、最後には十字架の上で死なれるという世の価値観からすると敗北としか思えない、どうしても理解できない道を貫かれたのです。
しかし、「このため」(9節)、神はキリストを復活の主として高く上げ、あらゆる名にまさる名を与えられたと、神の逆転劇のフィナーレを備えられたのです。
この逆転劇を成し遂げられた神は、今もなお弱さと貧しさ、苦しみの中にある神の家族の傍らに共におり、助け、導いてくださることを約束しています。愛する神の家族の皆さん、クリスマスを通して示されるキリストの逆転劇を讃美しつつ、私たちの生活においても神の国と神の義が実現する物語を信じ、期待しましょう。
ハレルヤ!
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