2023年11月23日木曜日

2023.10.29 本日の宣教

 『 とこしえに立つ神の御言葉 』          

                                                                    イザヤ40:1~11

 イザヤ書の40章から55章は、第二イザヤという人物が記したと言われています。40章は、イスラエルの捕囚の民が、故国へ帰還することになるという内容になっています。
 まだ、このときのイスラエルの民は、捕囚から解放されてはいませんが、神様は、もう十分に、イスラエルの民は、自分たちの罪のゆえに国が滅ぼされ、捕囚として苦難を味わうことになった、そのような形で、罪の報いを受けた、それも十分に受けたと判断され、彼らをバビロンにおける捕囚から解放し、エルサレムの地へ御戻しになることを決められたのでした。そのときの冒頭の言葉が「慰めよ、わたしの民を慰めよ」というものでした。これが第二イザヤの使命(ミッション)だったのです。「エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と」と、イザヤは捕囚にある民に語ったことでしょう。十分にイスラエルの民は、罪の報いを受けました。苦難は終わりました。服役をしていたけれど、もうその期間も終わった、あなたがたはこれから自由の身になるのだと、イザヤは御使いから受けた言葉を語り告げることになりました。
 しかし、イザヤには、一つの迷いがありました。それは、この知らせは果たして人々のほんとうに喜びになるのかどうか、ということでした。というのも、彼らの中には捕囚の身になって既にこの地で、生活ができる地盤を築き挙げている者たちもおれば、逆に、長きにわたる疲労困憊の生活で、何の希望も見出すこともできず、そのことを信じることがもはやできない者たちもいたからです。そこでイザヤは、わたしは言う。何と呼びかけたらよいのか、と」。それに対して、「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」というものでした。私たちのこの肉の体は、有限であり、神様は、無限です。神様のお言葉もまた、永遠なるものとして、普遍的なものとして、存続しつづけ、私たち限りある人間のありようを導き続けていくのです。否、命を与え続けていくのです。
 「高い山に登れ、よい知らせをシオンに伝える者よ」。伝令がそのつとめてして、勝利のよき知らせをもたらすように、彼はことをなすのです。そして、11節「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」。神様は散らされていった人々を再び集めます。そして、この小羊を懐に抱くお姿は、険しい谷底から一匹の失われた羊を救い出しているイエス様のお姿とも重なるのです。神様は、イスラエルの民を見捨てたわけではありませんでした。今なお、「わたしの民」と、神様は言ってくださっています。今の捕囚の状況の中で暮らすイスラエルの民にとって、第一に必要なことは、慰められることです。刑罰のときが十分に過ぎ、終わったことの宣言です。赦され、解放されて都エルサレムに戻れることです。大きな希望が語られています。神様の永遠に生き続ける力ある言葉によって、再び、彼らが命をえて生きていくことが可能となるのです。
                       平良憲誠牧師
                      (福井キリスト教会)


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