2022年12月18日日曜日

2022.12.18 牧師室便り

 ~ 真の戦争に備えよう ~

「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(エフェソ6:12~13)

今年の漢字として「戦」が選ばれました。選ばれた理由について、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻など戦争を意識した年であったことや、円安・物価高など生活の中での「戦い」を多くの人が体感したからだと説明していました。ちなみに、昨年が「金」、一昨年が「蜜」でしたね。神の家族の皆さんは「戦」が選ばれたことに同意しますか。

なるほど、人の感じることは共通していますね。とりわけロシア・ウクライナ戦争が未だに続いているわけですし、コロナとの戦い、世界的な経済戦争が繰り広げられていること、その中で弱い一般市民が戦争の被害を受けていますし、各自も物価、税金、金利などといった敵と戦っていると言えましょう。しかし、これらはすべて目に見える戦いであって、本当の戦いは見えないところにあることを私たちキリスト者たちは知っています。

聖書は「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者サタンと悪の諸霊を相手にしている」と教えます。このような霊的戦いはこれからますます激しくなっていくと思います。とりわけ旧統一協会をはじめとするカルトの問題こそ、キリスト者の信仰を揺さぶり、何より大切な神様との愛の関係を損なおうとする真の戦いであると言えましょう。その戦いに勝利の道を示してくださるために、神が人となり、天から地へと下って来られたのがクリスマスの出来事なのです。だから今、神の家族に求められることこそ、神の武具を身に着け、霊的戦いに挑むことです。そのために求められる最優先の武器こそ「神の御言葉」です。御言葉の上に立ち、日々、御言葉の武具を身に着け、戦いに備えることができれば、霊的な戦いにも、肉的な戦いにも勝利を収めることができるはずです。シャローム!


2022.12.18 本日の宣教

『 クリスマスは冒険の旅 』(マタイによる福音書2:1~12)                              

2000年前のある日、突然現れた不思議な星の後を追って旅に出た人たちがいました。聖書は彼らを東方の博士と呼んでいます。(口語訳、新共同訳では占星術の学者)彼らははるばる遠い国から、大きな期待と興奮をもって星の後を追い、旅を始めたのです。

彼らが見た星は、彼らが今まで見たことのない特別な星でした。彼らは直感的に“あの星はこの世界の本当の王が生まれることを示す星”であるということが分かりました。“あの星だけは、やはり自分で出かけていって、自分の目で見て、自分で確かめなければならない”と思ったことでしょう。実際にその星を頼りに、はるばる遠い国へと、誰よりも早く、世界の王を一目見ようと旅に出かけたわけです。王に会う時に献げるプレゼントを大切に持って・・・。でも、その旅は、彼らにとって大きな決断であったことでしょう。なぜならば、一度も行ったことのない川を渡り、砂漠を歩いて、時には山も超えなければならなかったからです。時には強盗の危険にさらされる可能性もあったでしょう。それでも彼らがその旅を途中であきらめなかったのは、彼らの目の前には彼らを導いてくれた王の星が輝いていたからです。そうです。どんな苦しみに会っても、彼らの前に星が輝いている限り、失望したり、落胆したりすることはありませんでした。

「アドベント」の意味は「到来する」、「近づく」ですが、アドベントの同類語で、「冒険」を意味する「アドベンチャー(Adventure)」という言葉があります。聖書は、クリスマス物語に登場する人々の共通の姿勢として「冒険の旅」に出たことを記しています。しかしよく考えてみると、クリスマスの出来事における冒険の旅に出たのは、私たち人間側だけでなく、愛なる神の方から先に出られたことを、ぜひ覚えましょう。御子主イエスは、私たち罪人たちを愛し死と滅びから救い出すために、栄光の天から暗闇の地へと命をかけた冒険の旅に出られたのです。その主イエスの愛に応答して、マリア、ヨセフ、東方の博士らが冒険の旅に出たのです。この両方の冒険が一つとなったのがクリスマスです。

とりわけ本日の東方の博士たちの姿から私たちは、居心地のいい場所を後にして、星に導かれて寒い夜空に出かけていくことを学ぶことができます。それは他の人に任せて置くのでなく、自分が見つけ出したメシアの星を、自分で出て行って、確かめる信仰であります。そこで、私たちは真の救い主に出会うことができるのです。そして、いよいよエルサレムに辿り着きましたが、星を見失ってしまう博士たちの姿も見ることができます。その後、再び現れた星に導かれながら博士たちはエルサレムを後にする時、「王が宮殿にいなければどこにいるだろうか。」と疑問を抱くこともあったでしょう。彼らにとってエルサレム宮殿を後にすることも大きな冒険であったに違いありません。常識から考えると、エルサレム宮殿に王がいるのが当然であるからです。それでも彼らは星に導かれていよいよベツレヘムの馬小屋に辿り着きます。聖書は、星が馬小屋の上に止まった時、博士たちが喜びにあふれたと記しています。博士たちはこの冒険の旅から新たな信仰の視点を学んだことでしょう。

皆さん、宮殿でなく馬小屋であっても、どんなに汚い場所であっても、その場所が、真の王様が生まれたのであれば、そこは喜びがあふれる場所に変わります。ただ救い主がそこにいるだけで、私たちは喜びにあふれるはずです。暗闇に包まれ苦しむ私を救うために天の御座を捨て、暗闇の世界に人として生まれた神の冒険と、救い主の星を追い続け、やがてみどり児の前にひざまずく人の冒険が一つになったクリスマスの喜びが満ち溢れますように…。ハレルヤ!


2022.12.18 小さな泉の恵み

いつも私たち家族のためにお祈りくださり、ありがとうございます。

最近私は、神召岡山教会(アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団)の第2チャペル(柿山

チャペル)での礼拝(土曜日午後)に参加させていただいています。土曜日の礼拝の参加者は牧師夫婦を入れて約10名ですが、皆さんに励まされて、通わせていただいています。

柿山チャペルは、私が住んでいるところから岡山市に出る途中の山の中、素晴らしい景色のところにあります。自動車で約35分です。教会空白地域にぜひ教会を建てて欲しいと、94歳で亡くなられた信徒の方が寄付してくださった山に、15年ほど前にチャペルを建てて、伝道に励んでいる場所です。

どうも日本は教会が県庁所在地に偏っているような気がします。学校すら廃校になっていく地域に新たに教会を建てるというのは、時代の流れに逆らうことかもしれません。

しかし、イエス様は「地の果てに至るまで、私の証人となりなさい」言われました。過疎地にも人は住んでいます。過疎地だからこそ、古い因習に囚われ苦しんでいる人が大勢います。神様の目から見れば「収穫は多いが働き人が少ない」場所ではないでしょうか?

イエス様は世界中のあらゆる地域の人々を救うために、人となってくださいました。ひっそりと馬小屋で生まれてくださったイエス様を思う時、過疎地伝道も神様の御心であり、きっとあらゆる困難を乗り越えていく道を神様が備えてくださるだろうと、希望が湧いてきます。過疎地に住む私たちのために引き続きお祈りいただけると感謝です。

                                 K.K.姉

2022.12.11 牧師室便り

 ~ マリゴールドに拍手を ~

 先週は、冬を迎え花壇の整備を行いました。雪が降る前に、花壇を綺麗にしておこうと思い、私が一番好きであるコスモスをはじめ、すでに枯れて長く伸びていた植物を片付けました。その中でも、春の終わりから夏、秋、そして冬が始まった時まで、休むことなくいっぱい綺麗な花を咲かせ続けてくれたマリゴールドに感謝の拍手を送りたいと思います。他の花のように、特別な手入れも、肥料もあまりいらず、強く、また美しく、凄まじい生命力で季節を通して楽しませてくれました。そして、最後にはたくさんの種を残してくれたことで、来年の花壇と教会の周りの風景を描くことができるようにしてくれましたね。

子ども讃美歌の中に「このままの姿で」という美しい曲があります。

~小さな野の花でも、主の愛をうけてかがやく、あふれる主の恵みはいついつまでも。    バラはバラのように、すみれはすみれのように、わたしもこのままのすがたでついてゆきます~

本当に心温まる歌詞になっています。精一杯、神から造られたままの美しさをもって、最後まで花を咲かせ続け、私たち人間に良き香りと感動を与え、また、神を賛美し礼拝したマリゴールドでありました。とりわけ今年は昨年収穫していたマリゴールドの種を礼拝堂と駐車場の前の花壇だけでなく、礼拝堂の後ろや牧師館の周りにも蒔いたことで、本当にたくさん咲いてくれました。しかも虫にも強く、どんな栄養のない土であっても綺麗に花を咲いてくれましたね。

神の家族の皆さんも、各自、神が造られた御心にふさわしく「ありのままの姿で」主に喜ばれる花を咲かせる日々でありますように…。みんなは主の愛を受けて造られた尊い存在であり、絶えず主の恵みが注がれていること覚えましょう。 また、各自に与えられている賜物をもって礼拝し花を咲かせることを主なる神は待っておられます。シャローム!


2022,12,11 本日の宣教

 『闇から光が輝き出よ 』 (コリントの信徒への手紙二 4:3~10)

宗教改革者マルティン・ルターはクリスマスイブ礼拝を終えてから、夜中にモミの木の森の中を散歩していました。 いつもは暗い森でありましたが、その夜の森は灯りをつけたかのように輝いていたので、ルターは驚きながら上を見上げました。その時、雪が積もった美しいモミの木の森の間に明るい月の光が注がれていて、暗い森には光の饗宴が広がっていたのです。彼はその光景の中で大切な悟りを得ました。「人間もあのもみの木のようなもので、みんなはみすぼらしい存在に過ぎないが、主イエスの光を受ければ美しく輝く人生を生きることができる」と。…ルターはその教えを人々に説明しようと、もみの木一本を家に持ってきました。そしてその木に雪模様の綿と光を放つ小さなろうそくを飾りました。これがクリスマスツリーの起源であると言われています。…アドベントの大切な意味の一つとは、世の初めの混沌で、闇が支配していた世界に向けて「光あれ!」と命じられた神は、暗闇に覆われている現代の私たちの心に「光」として来られ、すべての人を照らし救いの道をプレゼントしてくださる季節であることを、ぜひ覚えましょう。

使徒パウロは、本日の御言葉を通して「滅びの道をたどる人々に対して覆いが掛かっている」(3節)と教えます。まさに「この世の神」なる悪しきサタンは、暗闇の中に生きる人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないように妨害し続けます。その通り、福音を知らず、暗闇に止まっている人々は、この世の神であるサタンによって心の思いがくらまされ福音が遮られてしまい、滅びに至るのです。そのような不幸な状態に置かれている人々に、どうすれば福音の光を照らすことができましょうか。

そこでパウロは、彼自身がどのようにしてイエス・キリストの僕になったのかを告白します。それは、「闇から光が輝き出よ」(6節)と命じられた神が、彼の心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださったからだと明かします。同様に、現代の私たちの心と人生にも神の栄光を悟ることのできる光が輝いていることを覚えましょう。…イエス・キリストの御顔に神の栄光があります。私たちが日々、主イエスの御顔の光を見ることができれば、神の栄光の素晴らしさを悟ることになるでしょう。

私たちの心は、壊れやすい土の器のようです(7節)。「土の器」とは今にも割れてしまいそうな人間の弱さと限界を象徴していますし、パウロ自身を指している言葉です。そして「宝」とは、「イエス・キリストの栄光の福音」を表しています。ここでパウロが強調しようとしたのは、「器が宝の価値を決めるのではなく、宝が器の価値を決める」ということだったでしょう。すなわち、価値なき土の器のような私たちの内に、「宝」なる主イエス・キリストがおられることによって、神の力が私たちに与えられました。だから私たちは、どんな患難や苦しみにあっても、絶望したり恐れたりする必要はないのです。私たちの内に住まわれる「宝」なる主イエスの力によって、すべてのことに必ず勝利できるからです。

サタンと暗闇の力がいかに強くとも、神の力である福音の光はその暗闇を突き抜け、救いの光を照らすことができます。今私たちが待ち望みながら求めるべきことこそ、神が私たちの心を照らし、神の栄光を悟らせてくれる真理の光を照らしてくださることでしょう。アドベントの季節を過ごす神の家族が「宝と光なる主イエスを納める土の器として、暗闇の中で光を探し求める罪人たちにイエス・キリストという真の光と宝をプレゼントすることができますように…。ハレルヤ!


2022.12.11 小さな泉の恵み


礼拝前の教会学校で、信仰を持って苦難を耐え忍ぶ創世記のヨセフについて学びをしました。ヨセフがエジプトに売られてファラオの前に立つまでの困難な時は約13年でした。この試練の時は神がご計画されたものでした。

世間では『Ⅴ字回復』という言葉をよく耳にします。低下傾向にあった指数が好転を見せる事です。でももっと現実的なのは『U字回復』です。底に張り付いた停滞の時期をすごした後にやっと光が見えてくるのです。

私は去年の11月から右肘を痛め、更に左肩、肘、手首と痛みが悪化しました。この1年間何より辛いのは、4歳から私の人生の大きな部分を占めているヴァイオリンが満足に弾けない事です。神から与えられたこの試練には、いったいどんなご計画があるでしょうか?痛みはなかなか収まりませんが、治ってから振り返った時に「なるほど!」と納得できる神さまの導きとご計画を楽しみにしています。

                              KU.K.姉


2022.12.4 牧師室便り

 ~  お金ではなくあなたの心を ~

「富は、天に積みなさい。…あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。(マタイ6:20~21」

  サッカーのワールドカップで燃えている世界です。ワールドカップのゆえに戦争、経済危機、自然災害やコロナ感染などのニュースが薄れてしまいます。もちろん、たまにはワールドカップやスポーツ競技がもっている楽しさと感動に浸されるのもいいことでしょう。しかし、ワールドカップが終わり、しばらく時が過ぎるとその感動や楽しさは消え失せていき、再び厳しい現実を目の当たりにすることになるでしょう。とりわけコロナと戦争がもたらした物価の高騰、円安、高金利などによる一般庶民の置かれている厳しい状況は悪くなる一方です。神の家族の家計においてもジワリジワリと圧迫を感じていることでしょう。

そんな中、今年も世界祈祷週間を迎えています。世界祈祷週間においては11月の最後の日曜日から12月の最初の日曜日までの間、祈りの中で世界に出かけて福音宣教に励んでいる日本バプテスト連盟に連なる宣教師や世界の貧しい国々の子どもたちや緊急支援を要する団体を支援するために献金を集めています。しかし、自分の生活も厳しいのに、どうやって周りに目を配ることができるだろうか、いや日本にも助けを必要としている貧しい人がたくさんいるのに、海外にまで助けの手を差し伸べることは欲張りではないかと思う方がいるかもしれません。

 しかし、ぜひ覚えていただきたい。私たちの献金は豊かな中で献げるものではなく、いつどのような時でも、たとえ貧しい時であっても、救われた者として神の恵みを覚え、自分でできる限り、御業のために喜んで献げることに意味があるのです。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすればすべてが加えて与えられる」、「もらうより与える方が幸いである」という御言葉の上に立ち、心から湧き出る喜びと感動に導かれて献げればいいのです。お金の余裕があるかないかの問題ではありません。最も小さな一人に、わずかでも温かいもてなしができればあなたは幸いでしょう。シャローム!


2022.12.4 本日の宣教

 『 主が望まれる教会⑦ 』~ラオディキア教会②~(ヨハネ黙示録3:14~22)         

:主イエスの霊的診断を受けなさい   

私たちは「主が望まれる教会」という主題のもと、ヨハネの黙示録の7つの教会に送られた主イエスからの手紙の内容を分かち合ってきました。7つの教会はそれぞれ独特な背景をもち、固有の問題を抱えていました。そして本日は、最後の7つ目のラオディキア教会について分かち合います。

ラオディキアは7つの都市のうち、最も豊かな商業の町で、金融業と羊毛、また薬、その中でも目薬で有名な町でした。そのためでしょうか。ラオディキア教会も裕福で経済的に満たされていたため、「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない。」と公に言っていたようです。しかし、そのような自己満足などの思いが、彼らの信仰に致命的な悪影響を及ぼしていたことでしょう。しかし、外面的な豊かさが彼らの信仰的な豊かさを保証してくれるわけではありません。それどころか主イエスの目に映るラオディキア教会の本当の姿は、「惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者」であり、そのようなことが彼らには分かっていないと大変厳しく咎められていることが分かります。

その通り、自己満足や周りの人々の評価は空しいものです。重要なのは、神がどのように評価されるかということです。このままだとラオディキア教会はなまぬるい水のように主の口から吐き出されてしまうことになるはずでした。

そこで主イエスはラオディキア教会が救われるべき道として、三つの物を「買いなさい」と命じられます。①火で精錬された金を買いなさい ②白い衣を買いなさい ③目に塗る薬を買いなさい、と。それでは、なぜ主イエスは「買いなさい」と言われたでしょうか。それは、霊的な回復は、自然に与えられるものではなく、それにふさわしい代価が求められるからです。まず、「火で精錬だされた金」とは、厳しい試練の過程を通ることで聖い神の民が造られることへの比喩であり、ラオディキア教会の信徒たちが「真の裕福になるために」、主からいただく試練と苦難に直面しながら神の国の真の宝物を手にするようにとの命令です。また、「白い衣」とは、「裸の恥をさらさないため」とその目的が示されている通り、この世の偶像や欲望によって失ってしまった神の民としてのあるべき真の姿を、主イエスの血潮によって回復するようにとの命令です。最後に、「目に塗る薬」とは、「見えるようになるため」という目的で、この世の富や欲望によって見えなくなった神の民としての霊的な目の分別力の回復を求めていることが分かります。

主イエスはこれほど厳しくラオディキア教会の信徒たちを叱ったり、鍛えたりする理由を「彼らを愛しているから」だと告げられます。「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。(3:19)」

だから、今ラオディキア教会の信徒たちに求められるのは、「熱心になって悔い改めること」そして、「戸の外に立って叩いておられる主イエスの御声を聞いて、その戸を開いて主イエスを迎え入れること」です。

私たちは40歳を超えると、定期的に健康診断を受けるようにと勧められます。なぜならば、私たちの体の中に悪いがん細胞の発生や体の各臓器の機能に異常が生じてはいないかという確認をし、どこかに問題が生じたら即治療を受けて健康な体を保たなければならないからです。神の家族の霊的な体、各部分は健康ですか。すでに病にかかっていて手遅れ状態になってはいませんか。真の医者なる聖霊に診ていただき、癒されることです。ハレルヤ!  


2022.12.4 小さな泉の恵み

もう12月、教会はクリスマス  の準備、礼拝の終了後のツリーの準備、私の心の中では、地球の回転の早くなったような感じがしてならないのである。記憶はつい先日クリスマスが終わったような感じがしている。

いわくら地区の集まりに参加して、男性よりも、女性の方がボケるのが早いとの会話。ボケるような生活習慣を止めて、ボケないような生活習慣をすれば良いとのこと。話し合い。

鏡をよく見ると顔のシワや頭髪の白いことや、足腰の筋力の衰えなど、地域の人々と話題が多く、皆さんの考えていることなど全て同感のこと。

その時ある方が私に向かって「貴女は気持ちが若いねえ・・・。」と言われました。私は嬉しかったです。

私はこうして週一回だけど、教会の礼拝に出席して、心の老化を予防していると信じております。

しかし筋肉の方の老化は、少しずつ進行して困っております。

とにかく自分の意思で体を動かそうと、動かしております。

笑うだけでボケの予防になると言われています。そうして人を愛すること等実行していきたいと思います。

                               A.M.姉