『 クリスマスは冒険の旅 』(マタイによる福音書2:1~12)
2000年前のある日、突然現れた不思議な星の後を追って旅に出た人たちがいました。聖書は彼らを東方の博士と呼んでいます。(口語訳、新共同訳では占星術の学者)彼らははるばる遠い国から、大きな期待と興奮をもって星の後を追い、旅を始めたのです。
彼らが見た星は、彼らが今まで見たことのない特別な星でした。彼らは直感的に“あの星はこの世界の本当の王が生まれることを示す星”であるということが分かりました。“あの星だけは、やはり自分で出かけていって、自分の目で見て、自分で確かめなければならない”と思ったことでしょう。実際にその星を頼りに、はるばる遠い国へと、誰よりも早く、世界の王を一目見ようと旅に出かけたわけです。王に会う時に献げるプレゼントを大切に持って・・・。でも、その旅は、彼らにとって大きな決断であったことでしょう。なぜならば、一度も行ったことのない川を渡り、砂漠を歩いて、時には山も超えなければならなかったからです。時には強盗の危険にさらされる可能性もあったでしょう。それでも彼らがその旅を途中であきらめなかったのは、彼らの目の前には彼らを導いてくれた王の星が輝いていたからです。そうです。どんな苦しみに会っても、彼らの前に星が輝いている限り、失望したり、落胆したりすることはありませんでした。
「アドベント」の意味は「到来する」、「近づく」ですが、アドベントの同類語で、「冒険」を意味する「アドベンチャー(Adventure)」という言葉があります。聖書は、クリスマス物語に登場する人々の共通の姿勢として「冒険の旅」に出たことを記しています。しかしよく考えてみると、クリスマスの出来事における冒険の旅に出たのは、私たち人間側だけでなく、愛なる神の方から先に出られたことを、ぜひ覚えましょう。御子主イエスは、私たち罪人たちを愛し死と滅びから救い出すために、栄光の天から暗闇の地へと命をかけた冒険の旅に出られたのです。その主イエスの愛に応答して、マリア、ヨセフ、東方の博士らが冒険の旅に出たのです。この両方の冒険が一つとなったのがクリスマスです。
とりわけ本日の東方の博士たちの姿から私たちは、居心地のいい場所を後にして、星に導かれて寒い夜空に出かけていくことを学ぶことができます。それは他の人に任せて置くのでなく、自分が見つけ出したメシアの星を、自分で出て行って、確かめる信仰であります。そこで、私たちは真の救い主に出会うことができるのです。そして、いよいよエルサレムに辿り着きましたが、星を見失ってしまう博士たちの姿も見ることができます。その後、再び現れた星に導かれながら博士たちはエルサレムを後にする時、「王が宮殿にいなければどこにいるだろうか。」と疑問を抱くこともあったでしょう。彼らにとってエルサレム宮殿を後にすることも大きな冒険であったに違いありません。常識から考えると、エルサレム宮殿に王がいるのが当然であるからです。それでも彼らは星に導かれていよいよベツレヘムの馬小屋に辿り着きます。聖書は、星が馬小屋の上に止まった時、博士たちが喜びにあふれたと記しています。博士たちはこの冒険の旅から新たな信仰の視点を学んだことでしょう。
皆さん、宮殿でなく馬小屋であっても、どんなに汚い場所であっても、その場所が、真の王様が生まれたのであれば、そこは喜びがあふれる場所に変わります。ただ救い主がそこにいるだけで、私たちは喜びにあふれるはずです。暗闇に包まれ苦しむ私を救うために天の御座を捨て、暗闇の世界に人として生まれた神の冒険と、救い主の星を追い続け、やがてみどり児の前にひざまずく人の冒険が一つになったクリスマスの喜びが満ち溢れますように…。ハレルヤ!
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