2022年8月2日火曜日

2022.7.31 牧師室便り

 ~ 愛する神の家族の皆様へ ~

主の御名を賛美します。本日は、北陸三教会による交換講壇の日です。小泉町教会には福井教会の平良憲誠先生が来られ宣教してくださいます。金沢教会の杉山先生が福井教会で、私が金沢教会でそれぞれ宣教の奉仕に与ります。すべての教会の礼拝が豊かに祝福され恵みに満たされることを祈りましょう。

さて、わが家は8月3日~17日の日程で韓国に帰国します。家族全員で帰国するのは4年ぶりで、まずは、大田という町で息子と合流してから、コロナパンデミックの期間中に召された親の墓を訪ね礼拝を献げて、その町に住んでいる長兄の家で泊まることになります。その後、義理の母の療養病院のある町に移動し、しばらく時を過ごすことになります。それから、済州道のシャローム共同体を訪ね皆さんが書いてくださった感謝の色紙を渡し主にある交わりをもつスケジュールを立てています。ほぼ韓国の全国を一周するようなスケジュールとなるでしょう。一つ気になるのは、韓国も日本同様、コロナの再流行が厳しい状況なので、コロナにかかることなく健康が守られるように、ぜひお祈りください。

牧師不在の2週間ですが、次週は宮田先生ご一家が帰省され宣教奉仕をしてくださいます。ぜひ、新しく赴任した山形教会での牧会と福音伝道の働きが祝福されるように、祈りと心を合わせ執り成してください。また、次々週はS姉と神の家族の皆さんによる証し礼拝となります。とりわけ牧師と、牧師代理の役割を担うはずの代表執事のS.S兄が不在の中、牧師代理の役割を担ってくださるS執事を中心に、他の執事と信徒の皆さんが一丸となって、互いに愛し合い、励まし合う中で恵み豊かな時を過ごしていただきたいと願っております。遠くからですが、祈りをもって支えましょう。

様々なことのゆえにゆれてしまう近頃ですが、私たちの中で善い業を始められた神が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださることを信じつつ。シャローム!


2022.7.31 本日の宣教

 『 イエス様にならって宣教する 』 (マルコによる福音書6:6~13)

                    (福井キリスト教会牧師 平良憲誠)

私たちは、イエス・キリストの福音を宣べ伝えることに努めます。それは、私たちの心からの喜びであると同時にイエス様からいただいたご命令でもあるからです。しかし、そのとき、その伝え方についてもきちんとイエス様は私たちにその方法を教えていることには、あまり気づきません。よくよく福音書を見てみると、宣教の方法はしっかりと描かれています。例えば、本日の聖書箇所マルコによる福音書6章6節からのところの12人の弟子たちを宣教の働きに遣わしたときの話などは実に具体的です。まず、宣教活動は二人一組がよいということがわかります。二人の方が心強く、何か緊急事態が生じてもそれに対処できます。

宣教活動には、それまであなたの生活を支えていたものは一切いらないこともわかります。お金も服も、食べ物もいりません。杖と履物だけでよい、ということです。また、ある土地で宣教活動をする場合は、一か所に留まり続けることが大事で、あちこちと宿泊場所(宣教の拠点)を替える必要はありません。しかし、もしあなた方を迎え入れようとせず、あなたがたに耳を傾けないならば、そこを出て行くときに、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさいと言います。それは、その土地での宣教活動の終わりを意味しています。弟子たちの話も聞こうとしない、受け入れることもしない土地に執着するな、ということです。

私たち福井教会も福井から撤退するには、私をはじめ今のメンバーが、それだけのことを十分にしてからだと考えています。もうしばらく、時間をいただきたいと願っています。また、私たちの宣教目的は、悔い改めさせることにあります。また、病や困難な問題があって助けを求めたり、困っている人がいれば、その人の力に具体的になること勧められています。

イエス様は、例えば、生まれつき足の不自由な男性、不幸な結婚生活をしていた女性との関わりをとおして、彼らの力になりました。イエス様は、人との出会いは、いつでも彼らの痛みや必要、また、彼らの関心事から関係を始められました。イエス様は、彼らの痛みや必要にすぐに応じられました。教会もまた、信徒一人一人が、イエス様の福音を伝えようと真剣になるならば、イエス様のように、多くの問題を抱えている人たちのために進んでいろいろなことをなし、忍耐する必要があります。釣りを私は趣味としていますが、釣りをしますと、その最中に汚れますし、臭くもなります。それが普通です。また、その魚を捌くとさらに臭くなります。それで、釣り場で魚の鱗も内蔵も取り出し、氷でしっかりとしめてもらいます。そうすると、持ち帰ったときに魚の鮮度も保たれ、刺身にするなり、煮るなり、焼くなり仕事が楽です。また、こちらも過度に汚れることも臭くなることもありません。

教会は、ときに、鱗をとり、内臓を取り除き、洗浄し、鮮度の保たれた魚が来ることを待ってはいやしないでしょうか。イエス様が人間を獲る漁師になれと言われた所以です。           


2022.7.31 小さな泉の恵み

 ドイツ・サマヨエル人の第1の手紙

「彷徨のはじめ」

2022年7月3日~9日デンマーク・オーフスで開催された第20回世界YMCA大会(4年ごとに開催)に参加後、コペンハーゲンから一番近いリューベックという世界遺産となっているドイツの古都に来ました。ここで喉の異変を感じ、新型コロナに感染したことが判明し、15日の帰国ができなくなり、予約で満員のため8月10日の帰国便になってしまいました。

1階にレストランのある小さなホテルの部屋で8日間にわたり療養しました。湖畔のホテルで窓からの眺めも良く、部屋にこもり療養するには最適でした。レストランはかなりの人気店で、窓から下を見ると湖畔のオープンテラスにはたくさんの客が来ていました。レストランのレジがホテルのフロントを兼ねていて、そこを通らないと外には出られないので、最低5日間の隔離期間と陽性反応が弱まるまで部屋に留まりました。

食事は、部屋にあったメニューで注文したのですが、ほとんどステーキなどの肉と高級な魚料理で、リューベックにしては比較的安いのですが、それでも円安で物価が高かったために悩まされました。他に食べるものがないので、やむを得ず初日からステーキなど贅沢な食事の隔離療養になりました。おかげで栄養は満たされました。

神様に不思議な旅の恵みを頂き感謝です。

                              S.S.兄


2022.7.24 牧師室便り

~ 万事を益に変えてくださる神を期待して ~

先週、インドネシアのG兄から8月13日に結婚式を挙げるとの知らせが届きました。新郎新婦の素敵な映像でできた招待状でした。神の助けと導きの中で祝福された結婚式が挙げられますように祈りましょう。また、今やむを得ず事情によってヨーロッパに滞在しているS兄がインドネシア経由で日本に帰国することになり、G兄の結婚式に教会の代表として出席することになりました。本当に不思議なことですね。予想もしなかった出来事に遭い、帰国が延ばされてしまった島田兄とインドネシアに帰国していたG兄の結婚式の日程がうまく合わされお祝いすることができるとは!

私たちの日々の歩みの中で、まったく予定に入っていなかったことが起きることを経験します。そこで私たちは失望し、戸惑い、不安になっていくでしょう。しかしその時、私たちを支えてくれるものこそ、神の御言葉です。御言葉に親しんでいる人は、予定していたことが駄目になり、計画していた道が閉ざされてしまうことを目の当たりにしても、その背後で働かれる聖霊の働きを期待し祈りの座へと進むでしょう。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(ローマ8:28)」…この御言葉は、ただ幸運を期待するという内容ではありません。つまり、神を愛する者たちの歩みにおいて、たとえ悲劇的なこと、不幸と思われること、期待外れのことが重なることがあっても、神は、神を愛する者たちのために、それらすべてを用いて益となるように、働きかけてくださるという堅い信頼と信仰の告白なのです。

S兄を通してG兄の結婚式がさらに祝福され、神の国の恵みで満たされますように…。シャローム!


2022.7.24 本日の宣教

『 然りとアーメンの信仰 』(Ⅱコリントの信徒への手紙1:18~22)

パウロは、伝道旅行の計画を変更した経緯と主の御心をコリント教会の信徒たちに説明します。パウロはもともとの計画では、エフェソからマケドニアを経てコリントを訪問する計画を立てていましたが、計画通りに進まず、二度も計画を変更せざるを得ませんでした。ところがパウロを批判していた人々は、パウロがコリント教会を訪ねるという約束を破ったということのゆえに「パウロは使徒でもなく、うそつきで決して信頼できない人」だという主張を広めました。すなわち、“パウロは「然り」と同時に「否」と言う二枚舌で、いつも軽々しく約束して破ってしまう人だ!”という批判でした。

 これらの批判に対してパウロは、自分の伝道旅行の日程を変更したことに対してコリント教会の信徒たちに「真実なる神の導きであったこと」を理解してくれるようにと願っています。神の約束は、キリストにあってすべて「然り」となるゆえ、パウロはアーメンと答えて神に栄光を帰しています。

パウロ自身、神の導きに対して常に「然り、アーメン」と答えてきた人でした。そのパウロの生き方こそ、主イエスが歩まれた「然り、アーメン」の道への従順であったのです。「わたしたちが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。(1:19)」 …主イエスは徹底的に神の御心に対する「然り」であられました。主イエスの唇からは「然り」と「アーメン」が途切れた時はなく、聖書は主イエスの別の名前として「アーメンである方(ヨハネの黙示録3:14)」と呼ぶほど、主イエスは徹底的にアーメンを貫かれました。そのアーメンの究極の証しこそ、十字架であるのです。

「アーメン」とは“その通りです。信じます。御心がなりますように。”という意味です。私たちは生活の中で祈りの終わりに、聖書を読む時、恵まれた時、感動した時においても“アーメン”と唱え、アーメンで結びます。しかし、アーメンは単なる形式でもなければ、呪文でもありません。「アーメン」は、私たちの考えと言葉と行いを通して、信仰によって証明されなければなりません。真実なアーメンとは、人や状況など目に見えるものを見るのではなく、常に目には見えないが、すべてを治めておられる神の約束と御業を見ることです。歴史を通じて、神は「然り」と「アーメン」の告白で満ち溢れる人を通して御業を成していかれたことを知っています。

ヘンデルのオラトリオのメサイアの最後を飾るのも“アーメンコーラス”です。天地創造からイエス・キリストの十字架と復活、そして、永遠の神の国の実現を歌いながら、最後は信徒たちのアーメンで終わります。…そうです。神は私たちの唇からアーメンという言葉が溢れ出ることを望んでおられます。そして、唇の「アーメン」と共に、自分自身を神の御前に献げる「アーメン」を喜ばれます。とりわけ、小泉町教会の神の家族の群れが、コロナ時代、戦争危機、食糧危機、気象変動の危機など、暗闇に包まれてしまう日々であっても、主イエスに倣い、「しかり、アーメン」と応答しつつ、アーメンコーラスをもって主に栄光を帰する生きた礼拝者でありますように…。ハレルヤ!


2022.7.24 小さな泉の恵み

 ~あきらめず、祈り続ける~

病を癒す奇跡が起こると言われた、ベトザタと呼ばれる池があった。そこに、38年間病気で苦しみ横たわっている人がいた。イエス様がその人に「良くなりたいか」と尋ねられると、彼は「水が動く時、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。」と答えた。私は以前より、ここでの2人の会話はどこか噛み合っておらず、この人は「はい。良くなりたいです。」と答えるべきでは?と思っていた。それなのに彼は、癒されないのは周囲の人のせいだと言わんばかりで、もう癒しをあきらめているようにも思えた。

しかし最近、私自身が病気を経験し、ここでの解釈が少し変わってきた。病を得ると、意識はしなくとも、心のどこかにいつも不安があり、癒されたいという思いも常にある。彼のそんな思いをこの一見ずれているように思える返答から、すぐに感じ取ったイエス様は「起きて、歩きなさい。」と彼に命じられた。そこで癒しの奇跡が起きた。38年間、祈り続けることは容易ではないが、人の心の中にあるものを全てご存じのイエス様を信頼し、あきらめず祈り続けることの大切さを改めて教えられた。感謝。

「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。(ヨハネ14:13〜14)」

                              A.T.姉

2022.7.17 牧師室便り

~ 状況に応じて大胆に ~

「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。(Ⅱコリント4:8~10)」

楽しみにしていたファミリーキャンプがコロナの再流行によって中止になってしまいました。本当に残念でなりません。ちなみに、地域社会においても、中止にしていた諸行事が次々と再開の方向に動いていたのですが、突然のコロナの再流行によってそれぞれ再開を見合わせている状況です。これからもコロナが完全に終息することは難しいと言われているし、これからも、感染力は強く、致死率は低くなるコロナの変異株が次々と出現することが予想されています。恐らくインフルエンザや風邪のように、私たちもコロナの土着化を想定して対処していかなければならないと思います。

そのため、小泉町教会もその都度、聖霊の知恵と助けを求めつつ臨機応変に対応していかなければなりません。そこで何より大切なことは、神の家族のお一人お一人がコロナの変異株の出現や感染者数の増加の度に騒いだり、怯えたりするのでなく、今日まで守ってくださった神に信頼しつつ、今できることを一つ一つ淡々と行っていくことでしょう。とりわけコロナの土着化に伴い、コロナとの共存のための生き方を身に着けていくことです。風邪やインフルエンザのように、私たちの生活の一部分として定着しているものに対しては、落ち着いて対処してきたことを糧とし、各自が状況に応じて、何か怪しいことが起きたかのように騒ぐことなく、常に傍らで私たちを強めてくださる主イエスの力を受けて、大胆に歩むことです。

混沌としている世界、四方から苦しめられている私たちの状況ですが、主イエスの十字架の命をかけた愛と復活の希望の信仰に生きる証人としての思いを新たにしつつ、主に喜ばれる礼拝者の歩みを続けていきましょう。シャローム!


2022.7.17 本日の宣教

 『 顔を壁に向けて 』  (イザヤ38:1~6)

「彼はイスラエルの神、主に依り頼んだ。その後ユダのすべての王の中で彼のような王はなく、彼の前にもなかった。(列王記下18:5)」…これは、南ユダ王国13代目の王ヒゼキヤに対する聖書の記述です。それほど、彼は神と南ユダ王国の民にとって素晴らしい王でありました。ヒゼキヤは滅びに向かっていた南ユダ王国の信仰、政治、社会において改革を実行し、偉大な国の再建を夢見ていた称賛されるべき王でありました。

ところが、ある日突然、神は預言者イザヤを通じてヒゼキヤ王に死の宣告を告げられます。

「主はこう言われる。『あなたは、死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい。』(38:1)」…聖書は、ヒゼキヤのかかった死の病気がどのようなものであったかは教えていません。確かなことは、人の医学では治せない病にかかっていたということです。当時のヒゼキヤの年齢は39歳、まだ若い。また南ユダ王国の改革のためには遣り残したことがたくさんあったはずです。しかも当時は、アッシリア帝国が南ユダを攻めてきている厳しい状況の中でした。ヒゼキヤ王のリーダーシップがなおさら求められていた時でした。…人は一度限り生きることが許されています。それはすべてが神の領域、神の計画の中に置かれていることです。このことから逃れる人は誰一人いません。しかも、預言者イザヤから告げられた御心であったため、ヒゼキヤの選択肢は、ただ神の御心に従うしかありませんでした。

しかし、そこでヒゼキヤが取った行動について聖書は次のように記します。「ヒゼキヤは顔を壁に向けて、主にこう祈った。(38:2)」…ヒゼキヤは「顔を壁に向けて」祈り始めます。 彼は人に助けを求めたり、癒してくれる医者を探したりはしませんでした。今彼が選ぶべきことは、ただ全能なる神の御前にひれ伏すことでした。ヒゼキヤは、神だけが希望であり、神に祈ること以外、命の道はないことを知っていたのです。

それでは、「壁」とは何を表しているでしょうか。「壁」こそ、人がどうしても乗り越えられない限界を指します。だからその壁の前で、人は絶望し、人間的な努力を諦めるしかないのです。しかし、ヒゼキヤはそのような絶望の壁に顔を向けます。それは、すべての人間的な努力を捨てるという彼の意志を示すとともに、神の前に命をかけて、独りとして存在する決断をしたことを意味します。その通り、ヒゼキヤは涙の祈りをもって顔を壁に向けたのです。「ヒゼキヤは涙を流して大いに泣いた。(38::3)」…祈りは形式的な信仰行為ではありません。また、きれいな言葉を並べるものでもないのです。人に聞かせるものでも、遠慮して献げるものでもありません。祈りは生きておられる神に向かって叫び求める神の子どもの強力な力であり特権ですし、神の御計画を変えていただける唯一の手段なのです。

ヒゼキヤの祈りに対する主の御声に耳を傾けましょう。「わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。(38:5)」

キリスト者にとって一番の試練の時とは、祈れない時です。祈りをあきらめ、祈りを忘れてしまった時が絶望なのです。今、私たちにできる最善は、私たちの祈りを聞いておられる神を信頼し、人間的な方法や考えをあきらめ、顔を壁に向けひざまずくことです。全能なる主は、絶望の壁を打ち破り、新しいことを起こしてくださるでしょう。ハレルヤ!


2022.7.17 小さな泉の恵み

  小泉教会の皆様、こんにちは。

  先日、右手の薬指の付け根が痛くなりました。握ると薬指だけ伸びなくなりました。痛みが増してきましたので医者に行くとばね指と診察されました。痛み止めを飲みながら自然治癒を待つか、すぐに治るもん絶注射を打つかと聞かれ、もん絶とはと尋ねますと、かなり痛いからとのこと。看護師さんに打っちゃいなよと勧められるまま打つことになりました。どんな痛さなのだろうと思う間も束の間、薬指の付け根にブスッときました。こっから痛いからねと押し付けるように薬剤が注入されました。5秒ほどですが、もん絶注射と言われた意味を体験しました。2日後には薬指はすっかり良くなりました。注射は痛くても治ったので感謝です。

  肉体の痛みに弱い自分です。でも罪の痛みに鈍感な自分です。それでも主イエス様が十字架で身代わりに痛みを引き受けてくれました。本当に感謝です。

                         E.N.兄