2022年8月2日火曜日

2022.7.17 本日の宣教

 『 顔を壁に向けて 』  (イザヤ38:1~6)

「彼はイスラエルの神、主に依り頼んだ。その後ユダのすべての王の中で彼のような王はなく、彼の前にもなかった。(列王記下18:5)」…これは、南ユダ王国13代目の王ヒゼキヤに対する聖書の記述です。それほど、彼は神と南ユダ王国の民にとって素晴らしい王でありました。ヒゼキヤは滅びに向かっていた南ユダ王国の信仰、政治、社会において改革を実行し、偉大な国の再建を夢見ていた称賛されるべき王でありました。

ところが、ある日突然、神は預言者イザヤを通じてヒゼキヤ王に死の宣告を告げられます。

「主はこう言われる。『あなたは、死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい。』(38:1)」…聖書は、ヒゼキヤのかかった死の病気がどのようなものであったかは教えていません。確かなことは、人の医学では治せない病にかかっていたということです。当時のヒゼキヤの年齢は39歳、まだ若い。また南ユダ王国の改革のためには遣り残したことがたくさんあったはずです。しかも当時は、アッシリア帝国が南ユダを攻めてきている厳しい状況の中でした。ヒゼキヤ王のリーダーシップがなおさら求められていた時でした。…人は一度限り生きることが許されています。それはすべてが神の領域、神の計画の中に置かれていることです。このことから逃れる人は誰一人いません。しかも、預言者イザヤから告げられた御心であったため、ヒゼキヤの選択肢は、ただ神の御心に従うしかありませんでした。

しかし、そこでヒゼキヤが取った行動について聖書は次のように記します。「ヒゼキヤは顔を壁に向けて、主にこう祈った。(38:2)」…ヒゼキヤは「顔を壁に向けて」祈り始めます。 彼は人に助けを求めたり、癒してくれる医者を探したりはしませんでした。今彼が選ぶべきことは、ただ全能なる神の御前にひれ伏すことでした。ヒゼキヤは、神だけが希望であり、神に祈ること以外、命の道はないことを知っていたのです。

それでは、「壁」とは何を表しているでしょうか。「壁」こそ、人がどうしても乗り越えられない限界を指します。だからその壁の前で、人は絶望し、人間的な努力を諦めるしかないのです。しかし、ヒゼキヤはそのような絶望の壁に顔を向けます。それは、すべての人間的な努力を捨てるという彼の意志を示すとともに、神の前に命をかけて、独りとして存在する決断をしたことを意味します。その通り、ヒゼキヤは涙の祈りをもって顔を壁に向けたのです。「ヒゼキヤは涙を流して大いに泣いた。(38::3)」…祈りは形式的な信仰行為ではありません。また、きれいな言葉を並べるものでもないのです。人に聞かせるものでも、遠慮して献げるものでもありません。祈りは生きておられる神に向かって叫び求める神の子どもの強力な力であり特権ですし、神の御計画を変えていただける唯一の手段なのです。

ヒゼキヤの祈りに対する主の御声に耳を傾けましょう。「わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。(38:5)」

キリスト者にとって一番の試練の時とは、祈れない時です。祈りをあきらめ、祈りを忘れてしまった時が絶望なのです。今、私たちにできる最善は、私たちの祈りを聞いておられる神を信頼し、人間的な方法や考えをあきらめ、顔を壁に向けひざまずくことです。全能なる主は、絶望の壁を打ち破り、新しいことを起こしてくださるでしょう。ハレルヤ!


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