『 然りとアーメンの信仰 』(Ⅱコリントの信徒への手紙1:18~22)
パウロは、伝道旅行の計画を変更した経緯と主の御心をコリント教会の信徒たちに説明します。パウロはもともとの計画では、エフェソからマケドニアを経てコリントを訪問する計画を立てていましたが、計画通りに進まず、二度も計画を変更せざるを得ませんでした。ところがパウロを批判していた人々は、パウロがコリント教会を訪ねるという約束を破ったということのゆえに「パウロは使徒でもなく、うそつきで決して信頼できない人」だという主張を広めました。すなわち、“パウロは「然り」と同時に「否」と言う二枚舌で、いつも軽々しく約束して破ってしまう人だ!”という批判でした。
これらの批判に対してパウロは、自分の伝道旅行の日程を変更したことに対してコリント教会の信徒たちに「真実なる神の導きであったこと」を理解してくれるようにと願っています。神の約束は、キリストにあってすべて「然り」となるゆえ、パウロはアーメンと答えて神に栄光を帰しています。
パウロ自身、神の導きに対して常に「然り、アーメン」と答えてきた人でした。そのパウロの生き方こそ、主イエスが歩まれた「然り、アーメン」の道への従順であったのです。「わたしたちが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。(1:19)」 …主イエスは徹底的に神の御心に対する「然り」であられました。主イエスの唇からは「然り」と「アーメン」が途切れた時はなく、聖書は主イエスの別の名前として「アーメンである方(ヨハネの黙示録3:14)」と呼ぶほど、主イエスは徹底的にアーメンを貫かれました。そのアーメンの究極の証しこそ、十字架であるのです。
「アーメン」とは“その通りです。信じます。御心がなりますように。”という意味です。私たちは生活の中で祈りの終わりに、聖書を読む時、恵まれた時、感動した時においても“アーメン”と唱え、アーメンで結びます。しかし、アーメンは単なる形式でもなければ、呪文でもありません。「アーメン」は、私たちの考えと言葉と行いを通して、信仰によって証明されなければなりません。真実なアーメンとは、人や状況など目に見えるものを見るのではなく、常に目には見えないが、すべてを治めておられる神の約束と御業を見ることです。歴史を通じて、神は「然り」と「アーメン」の告白で満ち溢れる人を通して御業を成していかれたことを知っています。
ヘンデルのオラトリオのメサイアの最後を飾るのも“アーメンコーラス”です。天地創造からイエス・キリストの十字架と復活、そして、永遠の神の国の実現を歌いながら、最後は信徒たちのアーメンで終わります。…そうです。神は私たちの唇からアーメンという言葉が溢れ出ることを望んでおられます。そして、唇の「アーメン」と共に、自分自身を神の御前に献げる「アーメン」を喜ばれます。とりわけ、小泉町教会の神の家族の群れが、コロナ時代、戦争危機、食糧危機、気象変動の危機など、暗闇に包まれてしまう日々であっても、主イエスに倣い、「しかり、アーメン」と応答しつつ、アーメンコーラスをもって主に栄光を帰する生きた礼拝者でありますように…。ハレルヤ!
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