2019年6月17日月曜日

2019.6.16 牧師室便り

~被造物の呻きを聞きましょう。~

  「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。・・・被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:1922

  先週、エレミヤ書を黙想する中で、自然界が人間の罪によって苦しむ内容がありました。ちょうど毎年6月5日が、国連が定めた「環境の日」であるため、環境問題について分かち合いたいと思いました。
  最近イギリスの新聞ガーディアンは、今まで使っていた気候変動(climate change)という用語ではなく、気候危機(climate crisis)、あるいは気候崩壊(climate breakdown)という用語を使うことにしたと告げました。それほど、全世界的な自然破壊による気候危機の兆候がいたるところに現れているということでしょう。
  猛暑と寒波が以前とは比較できないほど増加し、南極や北極の氷が溶け海水面が上がり、世界各地で津波の被害が増え続けています。PM2.5に代表される小粒子状物質が世界の空を覆っている状況です。その他、世界的規模の森林破壊による水不足、食料不足が連鎖的に起こり、それに伴う伝染病が私たちの生活を脅かしています。そんな中、近頃大きな問題となっているのがプラスチックゴミです。プラスチックは分解されるまでに非常に長い時間がかかるため、その多くは海や川、ビーチ、その他の生き物に多大な被害をもたらしています。人間の便利さと欲望のゆえに大量に作られ、また自然を破壊している恐ろしさを目の当たりにしている現状です。
 聖書は、創造者なる神に造られた被造物が、罪人である人間の欲望によって破壊され、呻き、産みの苦しみを味わっていると記しています。そして被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいると言っています。罪と欲望に捕われている人類が神の子の栄光を取り戻すためには、まず主イエス・キリストの十字架の前に悔い改めることです。そして、今までの罪の奴隷として、欲望のままに生きていた生き方を変え、創造者なる神の代理者の役割を自覚することです。神の人は自然界の被造物の呻きを聞くべきです。神の家族は被造物の呻きを聞いていますか。

2019.6.16 本日の宣教 


真夜中のコンサート』 (使徒言行録162534)


異邦人のための使徒として召命を受けたパウロは、聖霊の導きと幻によってマケドニアの方へと方向を定め、ヨーロッパ伝道を始めることになります。ヨーロッパ伝道の最初の町がフィリピという町でした。フィリピに着いたパウロ一行は、早速リディアという信仰深い女性に出会い、彼女の家を伝道の拠点とすることになります。そしてある日のこと、いつもの通り、祈りと伝道の働きをする中、占いの悪しき霊に捕らわれていたある女奴隷に出会い、彼女をキリストの御名で癒すという奇跡を行ないます。しかし、その女奴隷の占いによってお金を稼いでいた主人により訴えられ、不正の裁判を受けることになります。その結果、パウロとシラスは激しくむち打たれ鎖につながれて牢屋に入れられてしまいます。聖書は、その時の時刻を「真夜中ごろ」であったと教えます。神の導きに従い、献身的に伝道を続けていたパウロの身に起きた理不尽な出来事。暗く汚い牢屋、他の囚人たちは既に眠りについていて、彼らは激しい痛みと疲れに襲われていました。できれば、少しでも睡眠をとって痛めた体を休めるべきでした。
 その時、突然牢屋に響き渡る賛美の声、パウロとシラスは真夜中のコンサートをフィリピの牢屋で開いたのでした。その時パウロとシラスはどんな歌を歌ったでしょうかね。・・・その時、彼らを動かしたのは聖霊でした。彼らは聖霊の感動に満たされ、これからフィリピの地で成し遂げられる神の愛と伝道の業を賛美し始めたのです。そうです。真の礼拝者は時と場所を選びません。周りの状況がどんなに悪く思えても、十字架と復活の主が彼らのただ中におられ、真夜中のコンサートを開くようにと促しておられたのです。
 眠りについていた他の囚人たちは、パウロとシラスの讃美の声に起こされたことでしょう。恐らく「彼らはどうかしたはずだ、こんなことをする人は見たことも聞いたこともない」と不思議に思っていたことでしょう。しかし、彼らはその後、今まで見たことのない真の奇跡を体験することになります。パウロとシラスの讃美と祈りの中、突然大地震が起こり、囚人たちの足の鎖が外れ、牢の戸が開かれるという・・・。あまりにも突然起きた出来事だったので、誰も逃げようなどとはしませんでした。しかし、牢を守っていた看守は囚人たちが脱獄したと思い、自殺しようとしますが、パウロは看守を守り、すべてが神の業であることを示します。神はその夜、その看守とその家族を救いへと導かれ、フィリピでの伝道が神のご計画であったことを明らかにされます。その時看守が叫んだ「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」30節)という声と、それに続く「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」31節)というパウロの喜びの叫びは、素敵な救いのハーモニーとなり、歴史に残る名場面に変わったのです。 “神のなさることはすべて時に適って美しい!”    

2000年前、フィリピの牢屋で開かれた「真夜中のコンサート」の恵みを小泉町教会の神の家族も開いて見てはいかがでしょうか。神は真夜中で賛美の声を響かせる人を通して素晴らしい御業を現わされるでしょう。

2019.6.16 小さな泉の恵み


~迷った一匹の羊を大切にする羊飼い~
  ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。(マタイ18:1213より)
神様の愛は、安全な所にいる九十九匹にではなく、迷い、傷だらけになっている一匹に向かっています。羊が迷い出たのは、羊自身の過ちですが、羊飼いはその過ちに対して叱ってはいません。私たちは過ちを犯しますが、神様はそのために救いをあきらめたり、愛することを手控えたりはなさいません。私たちが完全な人になって教会に来ることを願っておられるのではなく、罪人の姿のままで来ることを願っておられます。同時に、私たちが危機的な状況に陥ったとき、積極的に介入してくださいます。羊飼いは羊が自分で戻って来るまで待ってはいません。真っ暗な夜、山中を命懸けで捜します。一匹を救うために払う苦労と犠牲のほうが多いにもかかわらず、そうするのです。神様の関心は、さ迷っているひとりのたましいに向けられているのです。
イエス様は、失敗し、罪深く、咎の多い私たちをそのまま受け入れてくださいます。人間は利己的で高慢で自己中心的です。しかし、神様はそのような人間を条件なしに愛し、ひとり子をこの世に送り、その方は私たちのために十字架で死なれました。そこに神様の愛が現れています。
                                     (リビングライブ6月号より)

2019.6.9 牧師室便り

~今こそ執り成す時!~

 「あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために嘆きと祈りの声をあげてはならな
い。災いのゆえに、彼らがわたしを呼び求めてもわたしは聞き入れない。」(エレミヤ11:14

 先日、川崎で起きた殺傷事件で日本中が衝撃と痛みに包まれていました。あっという間という、一分足らずの時間に多くの子どもたちを傷つけ、犯人自らも命を絶つという、どこに事件の原因があるのか、誰に罪の責任を問うべきかも分からなくなってしまったことに人々は戸惑いと空しさを感じたのではないでしょうか。 
 実は、私が来日した199510月から2年間、兄と共に生活していたのが、事件が起きた川崎市登戸でした。来日した時の無知と、24年前という時間的な限界もあったので、町の細かいところまでは覚えていません。しかし、事件のあったその日の夜、韓国の兄から電話がありました。“あの事件のあった場所は私たち兄弟がいつも通っていた街なんだ”という・・・。兄の声を聞きながら、2年間その町に住んでいたということで、何か自分もその事件に関わっているような気がしました。そして、命が軽んじられている日本社会を覚え、ただただ主の憐れみを祈るのみでした。 
 振り返って見ると、大阪でも、下関でも、渋谷でも、今回のような衝撃的な事件は起きていました。その度毎にマスコミや日本中が騒ぎましたが、しばらく時間が経つとすぐ忘れてしまうということの繰り返しでした。おそらく、自分の身の周りで起きてないためでしょう。あまりにも簡単に忘れてしまう日本社会です。 
 今月のリビングライフのテキストはエレミヤ書です。エレミヤは南ユダ王国の滅びを涙の叫びと共に執り成し続けていた預言者です。やがて、エレミヤに命じられたように、執り成しさえも禁じられる時が来る前に、わが家族、わが町、日本の国のために涙をもって執り成し、神の御心を伝える私たちでありますように…。命が軽んじられる今の時代、すべてを新しくされる聖霊の力をいただき、すべての人が救われるべき神の子どもであること、またイエス・キリストが命を捨ててまで救おうとされた尊い存在であることを伝えるため、執り成しつつ出かけて参りましょう。シャローム!
 

 
 





2019.6.9 本日の宣教

『 一致をもたらす聖霊 』 (使徒言行録2:43~47)
 
  ペンテコステおめでとうございます!!!
 ペンテコステ(聖霊降臨日)は五旬節とも言い、ギリシャ語で数字の50という意味です。主イエスが復活されて50日目に約束された聖霊が来られた日であり、キリスト教会が誕生した日でもあります。ですから、キリスト教会においてクリスマス、イースターと並ぶ3大祭の一つです。

クリスチャンにとって、ペンテコステは喜びと希望の日です。それは、父なる神が聖霊を通してキリスト教会とクリスチャンの一人一人に、今もなお働いて下さるということを喜ぶ日であって、神の国の広がりを夢見る希望の日でもあるのです。初代教会の一人一人は、聖霊によって新たにされ、力をいただいてイエス・キリストの証人として全世界に出かけるように変えられました。そして、聖霊は現代のキリスト教会と、クリスチャン一人一人に変わらない力と命、希望をもって働きかけておられるのです。

 本日の聖書が教えてくれる聖霊による、新たに生まれた教会の姿、現代のキリスト教会が夢見るべき教会の姿が描かれています。 最初の教会の信徒たちは、聖霊の助けと働きから力をいただいて、毎日神殿で祈り、家庭ごとに集い食事をし、主の晩餐の恵みに与りました。そして、互いの必要に応じて喜んで自分のものを分け合うことを実践しました。彼らの集いには、常に聖霊の働きと助けによる喜びと感謝で溢れていました。初代教会共同体には、偉い人、みすぼらしい人、強い人、弱い人、金持ち、貧しい人、白人、黒人、ユダヤ人、異国人など、階級や差別などもありませんでした。ただ、聖霊に満たされた神の家族がいるだけでした。そのことを最もよく表現している言葉が、“一つになって、一つにして”444647節)という表現でしょう。そうです。聖霊によって生まれた初代教会の最も大きな特徴こそ、共同体の一致にありました。聖霊が臨まれるところには、喜びによる心の一致が生まれたのです。そして、その結果として、“民衆全体から好意を寄せられ、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた(47節)のです。
 
 小泉町教会の神の家族が、初代教会がそうであったように、主イエスを信じる信仰によって一つとされ、お一人お一人が聖霊の助けと恵みをいただき、互いの違いを尊重する中で、互いを受け入れ合い、補い支え合って、キリストの健康な体なる教会を建て上げられるように心がけましょう。また、互いが赦された罪人であることを告白しつつ、聖霊がもたらしてくださった一致に励みましょう。聖霊が働かれる共同体は一致の恵みの中で、すべてを新しくされる創造と復活の命に満ち溢れることでしょう。ハレルヤ!  

2019.6.9 小さな泉の恵み


~ハグのチカラ~
“大人だってぎゅうってしてほしい?”
私は、ハグが大好きです。愛する小泉町キリスト教会では、毎月、讃美礼拝の時に♪「神の家族」が流れる中を、全員が握手したり、ハグをしたりしながら、兄弟姉妹一人一人に挨拶をします。その時、教会堂にはみなさんのステキな笑顔と明るい声が溢れます。
小さな子どもは、悲しかったり不安だったりすると、愛する人や信頼できる人に抱きついて、ぎゅうっとハグしてもらいます。そして、安心して、泣きやみ笑顔を取り戻します。悲しかったり不安だったりは、子供だけでなく大人にこそ多くあります。そんな時に、愛する人たちからギュウッとハグしてもらう事で、安心と慰めが得られます。ハグの持つ力です。ハグは、簡単に確実に、愛をあげたりもらったりできます。
  今の社会は複雑になり、大人も子供も生きにくい時代になっているのかもしれません。
  様々なことに不安を抱いたり、傷ついたり悩んだり。そんな時、私達はイエスさまに心
  にある不安や悩みを聞いて頂き、祈ることで安心して、また一歩前に進む愛と勇気と元気
  をもらいます。イエスさまは、祈りと共に、今この時も、私たちを優しく、時にはギュ 
  ウッと力強くハグして下さるために、すぐ傍で待っていてくださいます。 
                                                                     S.Y姉

2019年6月6日木曜日

2019.6.2 牧師室便り

~ 神の国の回復を望む ~

 「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」(フィリピ2:12

 次週9日はペンテコステです。わが教会では、昨年に続き、多言語礼拝としてそれぞれの国の言葉で特別讃美をしていただき、それぞれの国と民族と言葉を喜ぶひと時を過ごしたいと思います。今現在わが教会には日本人、中国人、台湾人、フィリピン人、インドネシア人、韓国人が集い礼拝をささげ、神の家族としての祝福に与っています。
 聖書の物語を見ると、世界中は同じ言葉を使って同じように話していたと記しています。世界中が一つの言葉を使っていたということは皆が神の民であったことを意味し、恵みを表すものでした。ところが、彼らは同じ言葉を使っていたがために頑なになり、創造者なる神に反抗し、天にまで届くためのバベル塔を建てようとしました。神は彼らの欲望の企みに対し、言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにされたのです。それゆえ、彼らはバベル塔を建てるのをやめ、世界の各地に散らされることになりました。その日以来、世界の人々はそれぞれの言葉をもち、それぞれの言葉を使いながら今日まで生きてきたわけです。
 そして神は、ペンテコステの聖霊降臨を通して、違う言葉を使っていた人々の壁を打ち破り、一人一人を繋いでくださいました。主イエスは至上命令を通して「聖霊の力を受け、全世界に出て行き、地の果てに至るまで福音を宣べ伝えるように」と頼まれました。ペンテコステこそ、聖霊による言葉の統一、創造の祝福の回復、神の国の成就の日であって、それらを成し遂げるために誕生したキリスト教会の誕生日です。ぜひ、ペンテコステの聖霊降臨の恵みに満たされつつ、国と民族と言葉を乗り越える神の家族の愛と一致の交わりの恵みに与りましょう。シャローム!

2019.6.2 本日の宣教

『我、イエス・キリストを信じる①』(使徒言行録4:8~12)
   今週から使徒信条の第二項、神の独り子イエス・キリストについての信仰告白の部分を分かち合うことになります。使徒信条には三位一体と言う言葉はありませんが、しっかりと「父なる神、子なる神、聖霊なる神」の三位一体の神への告白という構造になっています。その中で、イエス・キリストへの告白となる第二項は、父なる神を告白する第一項や聖霊なる神を示す第三項に比べて、その内容や文字数が比較にならないほど多いことに気づきます。それはつまり、キリスト教信仰の中心こそ、イエス・キリストとその救いの御業にあることでしょう。
 「我、神の独り子イエス・キリストを信じる」、つまり、「キリスト」なるイエスを信じるということです。度々、「イエス」が名で、「キリスト」が姓だと誤解する人がいますが、そうではなく、「イエスはキリストである」という説明の言葉であると言ってもいいでしょう。「イエス」とは、「主は救い」という意味の、聖書時代によく使われた名前です。聖書の中にも語源同じくする名前として「ヨシュア、イザヤ、ヨシヤ、ホセア」などがいるほど、よく用いられていた名前でした。
それでは、「キリスト」とは何でしょう。これはギリシャ語で、「油注がれた者」という意味の言葉で、「救い主」のことを指します。キリストに当たるヘブライ語は「メシア」です。聖書時代から現代に至るまでイスラエルの民は自分たちを救ってくれる政6.2 治的メシアを待ち望んできました。
「油注がれた者」は、旧約聖書において、「王と預言者と祭司」の三つの職務の人に限られていました。すなわち、キリストとは、「真の王として、また真の預言者として、真の祭司として」の権限をもって、神と神の民の間に立ち執り成し、神の民を神の国にふさわしい者として導き治めておられ、やがて神の国を完成されるお方です。
まず、真の王なるキリストは、私たち神の民のために十字架の上で命さえ与えてくださるお方、そして復活の王として日々導き、訓練し、治めておられ、神の国にふさわしい者に備えられるお方です。また、真の預言者なるキリストは、神の民に、時に適って父なる神の啓示と御心を伝え、御言葉をもって進むべき道を示されるお方です。最後に、真の祭司なるキリストは、神の小羊、完全な生け贄としてご自分の命を十字架で献げ、神の民の贖いを完成されたお方、そして今も弱い私たちのために執り成し、生きた礼拝者とするために聖めてくださるお方です。
 神の家族の皆さん、私たちには「キリスト」がおられることを覚えましょう。日々、真の王として、真の預言者として、真の祭司として交わってくださるイエス・キリストの前に近づき、キリストの愛と恵みの支配と導き、執り成しにすべてを委ね、生きた信仰告白をささげるお一人お一人でありますように・・・。ハレルヤ!

2019.6.2 小さな泉の恵み


 私たちが、お世話になった富山小泉町教会を去ってから12年余になりました。今も常毎月の週報、クリスマスカード、誕生日カードをお送り下さり恐縮しております。誠に、ありがとうございます。  
 頂戴する週報を通して、教会の現況と祈りの課題を覚え、お祈りしています。懐かしい方々、当時はなかなか教会に来られなかった方々が出席され、奉仕しておられること、知らない方々のお名前が多いことなどだけでも、主の御業を讃え、感謝しています。様々な現実の中にも、御教会が福音宣教と教会形成に励んでおられることは、大きな喜びです。  
 私共、夫が78才、私は75才となりました。老いて、体力的衰えと何かと危うさも覚えつつありますが、主のお支えを頂いて今を励んでいます。引退後の落ち着き先も定かではなく、不安が頭をもたげることもあります。しかし、「恐れるな、わたしが共にいるからだ。」(イザヤ43:5)のみ言葉に信頼して、主のお導きに従いたいと願っています。主の恵みに与っている幸いを感謝し、希望の源である方(イエス・キリスト)を証ししていけますように。ちなみに私の愛唱讃美歌は「イエスに導かれ」(新生554)です。祝福の祈りをこめて。
                                 H.M姉