2021年9月23日木曜日

2021.9.19 牧師室便り

 

~ 天に積む生活を ~


 この一か月、家のどこからか小さな蛾のようなものが現れていました。どこから出たのかと探し出してみたら、何と、以前知人の方から購入した玄米からでした。その蛾についていろいろと名前を調べたら「ノシメマダラメイガ」という名前で、玄米によく出るそうです。今までお世話になった知人の方であったため、感謝のしるしとして30㎏の玄米を購入したのです。普段10㎏のお米も4人家族ですぐなくなるし、玄米は体にも良いということで買ったわけですが、それが失敗でしたね。普通のお米の中に少しだけ玄米を混ぜてご飯を炊いているので、30㎏からなかなか減らず、時が立つうちに「ノシメマダラメイガ」が入り込んでしまったようです。それが分かった時は大パニックになりましたね。でもそのまま捨てることは作られた方に申し訳ないと思い、インターネットで虫の駆除方法を調べたり、直接防虫剤を入れたりしましたが、すぐ効果は見られず、幼虫一匹ずつを探し出すに至りました。作業が終わった後は別の容器に移し、冷凍庫に入れることで「ノシメマダラメイガ」退治を終えました。

 今回のことから頭に浮かんだ聖書箇所が、「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」(ルカによる福音書12:33~34)でした。この話はある金持ちが豊作で、作物を納めきれなくなったために古い倉を壊して、もっと大きい倉を建て、そこに穀物や財産をみなしまい満足するわけですが、しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われる物語の続きで出た言葉です。

 たとえ善い考えで買い取ったものでも、虫に食い荒らされてしまうことになったらいかに悲しいことでしょうか。常に神の民としての知恵を備え、欲張らず、身を軽くし、貧しい人々への施しを通して、富を天に積むことができる神の家族でありますように、また、日々の出来事から敏感に主の御声を聞きながら、神の栄光を現わしましょう。シャローム!


2021.9.19 本日の宣教

  『 揺らぐことのない希望 』(二コリントの信徒への手紙4:16~18)

本日は、敬老祝福礼拝です。神の御手の守りと恵みによって70年以上の人生を歩まれた皆さん、おめでとうございます!新型コロナウイルス・パンデミックという大変な時代であるにもかかわらず、誰よりも生き生きと日々を過ごされ、大切に礼拝を守っている皆さんの姿から大きな慰めと励ましをいただいています。

キリスト者の人生の目標について、聖書は「主イエスに似た者になること、主と同じ姿に変えられること」であると教えます。そのことを神学用語では“聖化”と言いますし、その聖化の最終的な結果となるのが永遠の神の国における完成であり、"栄化"と呼んでいます。

聖書が主イエスと同じ姿に変えられると言っているのは、決して肉体の目に見える姿のことではありません。それが正に、本日の御言葉で記している「内なる人」、イエス・キリストの十字架の贖いによって新しく創造された霊的存在を指しているものです。その「内なる人」によって、私たちは日々イエス様に似た者として変わっていくのです。まさしく、二コリントの信徒への手紙5:17「だから、キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」の御言葉は真理なのです。

使徒パウロは、本日の16節で、「わたしたちの外なる人は衰えていくとしても、わたしたちの内なる人は日々新たにされていきます。」と宣言しています。ここで「外なる人」とは目に見える私たちの肉体を表します。そして、「衰える」という言葉は、“破壊される、使えなくなる”という意味をもっていて、歳月の経過と共に段々と衰えて、醜くなってしまう肉体、それが「外なる人」なのです。しかも、この衰えは、人間の力ではどうすることもできないことであって、かつ現在進行形であることを私たちは知っています。

ご存知のように、本日の御言葉を書いているパウロ自身、もともと体にいろんな病気をもっていた人でした。さらに、彼が主イエスを信じ伝道者になってからは、さまざまな苦しみを受けていたため、もう彼の肉体はぼろぼろの状態となっていました。ですから、彼は「外なる人」である肉体の弱さ、限界、衰え、やがて死んで滅びていくことを常に感じながら生きていたわけです。

しかし、パウロは本日の御言葉を通して、人間の存在について、何より大切なもう一つの側面を示しています。それが、目に見えないが確かに存在する「内なる人」のことです。「内なる人」とはイエス・キリストの十字架の贖いの業を信じることによって新たに生まれた魂のことを指します。パウロの宣言を聞きましょう。「外なる人は日々衰えていっても、内なる人は日々新たにされ、強くなっていきます!」。…そうです。「内なる人」は、日々、御言葉と聖霊の働きによって新しくなり、成長していく存在であり、この「内なる人」によって私たちは日々、主イエスに似た者として変わっていくのです。

「内なる人」は、私たちの患っている病に襲われることはありません。また、この世の様々な問題課題に振り回されることもありません。「内なる人」は、唯一、神様と親しく交わることにより、日々新たにされて栄光に向かっていくのです。この揺るがない希望を抱きつつ、内なる人を健康にしていく神の家族であるように…。ハレルヤ!

 


2021.9.19 小さな泉の恵み

 今年も敬老の日、敬老礼拝の季節となりました。

 今、私の中で、なんとなく、“お年寄り”というのは、「昭和一桁生まれの方々」みたいに位置づけています。彼らは、すごい。戦争をある程度の年齢で経験しているし、戦争だけでなくても、経験ポケットがぎっしりで。何があっても怖くないオーラをいっぱい出して…私も、いいばあちゃん になりたいです。

 ものごとを判断するときに、自分の経験値に頼ります。そんな経験値ポケットには、失敗したこと、人から教えられたこと、書物の中で知ったこと、そして「み言葉から学んだこと」なんかも、あるような…

 私も年齢とともに、記憶する力が弱くなっていることが悩みですが、ポケットに良いものをたくさん蓄えて老いていく、これからを楽しんで生きたいと思っています。

                                     K.I姉


2021年9月12日日曜日

2021.9.12 小さな泉の恵み

9月、ちょうど今の季節は河原の土手にクズが生い茂り、花もたくさん咲いています。濃い牡丹色のクズの花は、自分の大きな葉に隠れるようにして咲いていることが多く、香りで存在を教えてくれます。里山を歩いていて、とてもよい香りがして何か分からず、辺りをよく探すとクズの花が咲いていたこともありました。透明感のある清々しい香りです。

わたしもクズの花のように、隠れていてもキリストの香りがする者になれたらなと思います。

                               S.M姉

2021.9.12 本日の宣教

 『 絶望の池にて 』 (ヨハネによる福音書5:1~9)

エルサレムの羊の門の傍らに「ベトザタ」と呼ばれる池がありました。その池には、「たまに天使が降りて来て、池の水を動かす時、最初に入る人の病が癒される」という伝説がありました。そのため、ベトザタの池の周りには、消えていく希望を最後まで握りしめている多くの病人たちが横たわっていました。ここは、他のところでは癒されなかった人々が最後の望みとして選択した場所でした。「ベトザタ」の意味は「憐れみの家」で、まさに多くの病人たちが神の憐れみを受けるために池の周りに集まっていたのです。しかし、「憐れみの家」であるはずのベトザタの池は、神の憐れみどころか、弱肉強食であり、常に一番にならなければ癒されない場所、ただ一番だけに意味があり、二番になることすら許されないところ、人間社会の競争が最も激しく繰り広げられる場所がベトザタであったわけです。

その病人の群れの中に、本日の箇所にあるように、38年も病気で苦しんでいた人も横たわっていました。彼も他の病人たちのようにベトザタの池の伝説を最後の望みとしてチャンスを狙っていたものの、彼を助ける人がいなかったため、たびたびチャンスを逃し、もう希望は絶望に変わっていました。

しかし、そのような絶望の池に、主イエスが訪ねて来られました。しかも、主イエスがベトザタに来られた理由、それはこの38年間病気で苦しんでいた人に会われるためでありました。とりわけヨハネによる福音書では、主イエスと一人の人との出会いが大切に記されています。サマリアの女との出会い、ニコデモとの出会いがそうです。主イエスの目の焦点が常にある一人の人に合わされていることが大切で、本日の箇所でも主イエスはある意図をもって38年も病気で苦しんでいた人に出会うためにわざわざ訪ねられたのです。

主イエスは彼に近づき尋ねられます。「良くなりたいか」。この問いかけは、癒されたいためにベトザタの池に来ている病人にとっては侮辱するような言葉として聞こえたかもしれません。なぜならば、今彼は、癒されるために、絶えず、水が動くことを待っているわけですから。しかし、ここで主イエスには「良くなりたいか」という問いかけを通して、彼自身に自分の状態を認識させ、そこから癒される方へと目を向けさせる意図があったのです。彼が、いつまでも人が作った伝説に目と心を奪われ、ベトザタの池の水ばかりを見ているのでなく、まことの癒し主の方に目を向けて、希望を回復するようにという御心のゆえだったわけです。人が変わるためには、自分に回復されるべき問題が何であるかという正しい認識と、その問題から抜け出そうとする熱望がなければなりません。そうして、その人は神の恵みにあずかることになるのです。

しかし病人は、主イエスの問いかけに対して、一見、的外れなことを言います。「良くなりたいか」という問いに、「良くなりたいです」と答えるべきなのに、彼は、「助ける人がいません。だからだめです。」という、自分が癒されない理由を並べているのです。私たちはどうでしょうか。主イエスが傍らにおられるのに、絶えず、暗かった過去と厳しい現実を並べてしまってはいませんか。主イエスは希望を語り、癒しを約束しているのに、床に横たわったまま、つぶやく私たちではないでしょうか。

そこで語られる主イエスの言葉、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」(8節)この短い文章には、3つの命令形の動詞があります。①起き上がれ、②床を担げ、③歩け、と。病人は主イエスの命令に従います。自分を縛り続けていた病と心配、絶望の池から、真の癒しと希望の方へと歩き始めたのです。ハレルヤ!


2021年9月9日木曜日

2021.8.29 小さな泉の恵み

 


~野生のものたちの平安~                        


絶望が私の中で成長する。

自分の人生、わが子たちの人生がどうなるだろうかと恐怖して、

夜中、ほんの小さな物音にも目を覚ます。

私は雄鴨が美しい姿で水の上に休み、

青鷺が餌をついばんでいるところへ行き、

身を横たえる。

深い悲しみを先取りして

人生に重荷を負わせることをしない、

野生のものたちの平安の中に行く。

静かな水辺に行き、

昼間は目の見えない星々が、

自分の光が上空に輝くときを待っているのを思う。

私はいっとき、この世界の恵みの中に休らい、

そして自由になる。


                ウェンデル・ベリー『詩集』より


2021.8.29 本日の宣教

 『 すべては神の恵み 』 (士師記7:1~9)

 私たちキリスト者にいつも迫ってくる父なる神の御言葉があります。それは“恐れるな!”という御声です。天と地を造られた神が私たちと共におられる、御子イエス・キリストを十字架につけて死なせてまで私たちを愛してくださる父なる神が今も生きて働かれ力を賜る!…だから恐れるな!というのです。

今日の御言葉に登場するギデオンはもとも弱虫で、臆病な人でした。しかし、神は彼を士師として選ばれイスラエルの民をミディアン軍から救い出す使命を与えられたのです。そして神は、神の民の戦い方について教えられます。

本文の御言葉によると、イスラエルに攻めてきたミディアン軍の数は何と13万5千人、それに比べてイスラエル軍は、まともに訓練も受けてない3万2千人、ミディアン軍の4分の1にも及びませんでした。ところが、それほど厳しい状況であるのに、納得のいかない驚きの命令が出されます。“あなたの率いる民は多すぎるから、それを少なくしなさい!”という。その結果、1万人しか残らなくなりましたが、神は「民はまだ多すぎる。もっと減らしなさい」と言われます。

兵士の数が多いほど、勝算が大きいと思うのが当然なのに、神はなぜこのように語られるのか。その理由が2節に書かれてあります。「もしこのまま勝利をイスラエルに与えたとしたら、イスラエルは私に向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったというであろう。」

つまり、3万2千人、いや1万人でも、何とか頑張れば勝ち目がないわけではないと人々が考え、もしそれで勝った場合には、神の力と助けではなく自分たちの力で勝利したと勘違いしてしまうというのです。主なる神はそれを良くご存知の上でこの命令を下されたのです。

その結果、最後に残った兵士が300人。300人で13万5千人のミディアン軍と戦うとは、まさに自殺行為とさえ見えます。すなわち、勝ち目は全く消えてしまったのです。その時、300人の内に芽生えてくるのが、徹底した神への信頼でありました。ギデオンと300人の兵士たちは、彼らの戦いが主の戦いであることを信じ、神の命令に従うことにあることを決断したわけです。そうです。神の民の戦いの勝利は数の多さによるのでなく、すべてを支配し治めておられる神に拠り頼む信仰と従順にあるのです。聖書はそのことをモーセを通して、ヨシュアを通して、ダビデを通して、ヨシャファテを通して示されました。

そして、主が300人の兵士を選ばれる基準を忘れてはなりません。その1つ目が、“戦争を恐れる人々を家に帰しなさい”ということであって、2つ目が“水を飲む時の姿勢”でありました。すなわち、その人の普段の生活を見ておられるということです。いつも目を覚ましている人を主は選ばれるということなのです。

もちろん主なる神は、お一人だけでも戦争に勝利されるお方です。しかし、主は、信仰による勝利を神の民に経験させ、すべては主の御手にあると信じ、主だけを信じて戦う主の勇士として、また、他の民らに主の勝利を伝える証人として生きることを望んでおられることを心がけましょう。

新型コロナウイルスという強力な敵を前にした民らに、主なる神は、「戦いは主のもの、すべては神の恵み」であるという証しを求められるでしょう。願わくは、時代を見極めつつ、日々、目を覚まして生活できる神の家族でありますように…。