2024年12月15日日曜日

2024.12.8 本日の宣教

 『おめでとう マリア』

                                                       ルカによる福音書 1章26~38節

 アドヴェント第二週の主の日を迎えました。「アドヴェント」とは「到来」を意味します。救い主が来られることを待ち望む「時」、私たちにとっては、御子イエス様の降誕・クリスマスを待ち望む備えをする時であると承知しています。聖書の出来事に思いを巡らしながら、主の導きを求めつつクリスマスの日を迎えましょう。

 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(ルカ1:26)

天使ガブリエルが、ナザレの町に住むおとめマリアに<受胎告知>をする時の挨拶の言葉です。「おめでとう、マリア。」という言葉のラテン語訳が「アヴェ・マリア」です。本来は「こんにちはマリア」という挨拶の言葉だそうですが、そこには単なる挨拶では終わらない、他の挨拶とは違うのだと言う意味合いを込めて、「おめでとう」という訳語を多くの翻訳者があてているのです。

 突然の天使の来訪とその言葉にマリアは戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込みました。天使は「あなたは神から恵みをいただいた」と重ねて告げます。「恵まれた方」とは何だろう。「恵み」とは何だろう。30節の直訳は「あなたは神のかたわらで恵みを発見している」(田川建三訳)となるそうです。神の恵みとは見ようとしなければ見えないものであると言うことができるのでしょう。「神の子の母となる」という事は、マリアにとって「恵み」と言えるものだったでしょうか。「おめでとう」と言われるものだったでしょうか。ヨセフと婚約中の身であったマリアにとっ て、これは当時の律法の基準から言えば、死にも値するもの、一生負わねばならない重荷であると分かっていました。ヨセフは何と言うでしょう。ナザレの町の人々はどんな目で自分を見るでしょう。どんなに弁明しても誰が分かってくれるでしょう。様々な心配事が一気にマリアを襲ったでしょう。そしてマリアは「ノー」と言うことも出来ました。

 マリアは苦渋の決断をします。「神に出来ないことは何一つ無い。」と宣言する天使の言葉を受け入れ、「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように。」と。マリアにとって「苦難の人生」の始まりであったかもしれません。けれどこの「イエス(はい)」が、「神我らと共におられる」インマヌエルという出来事を現してくれることとなったのです。

 わたしたちもまた、「何故?」と言う出来事に出会っていきます。けれど、迷いの中で、苦渋の中で、理解してもらうことは難しいと思われる中で、恐る恐る「はい」とうなずくときに、「神に出来ないことは何一つない」キリストが共に歩んで下さる人生を進んでゆくことが出来るのです。「おめでとう」と語りかけて下さる「恵み」のうちに、クリスマスを待ちましょう。

                           金沢教会員  田 口 淳 子


2024.12.8 小さな泉の恵み

 ~名古屋から~

皆さん、こんにちは。

私の弟は小さい頃から将棋が好きで、棋力があります。将棋をしようと弟から言われてもどうせ負けるからと避けてきました。それが2020年に藤井聡太棋士が初めてタイトルを獲得した戦いをライブで観たのをきっかけに、藤井聡太ファンになり、観るだけではなく自分も指してみたいと思うようになりました。今は簡単な詰将棋を2問解くのが日課になっています。弟とも将棋の話ができるようになりました。将棋好きになったことが、神様の働きに役に立てたらいいなと思っています。

                             E.N.兄

2024.12.1 牧師室便り

  「 新しい御業を期待しましょう 」

夏の時期から教会の花壇を美しく飾ってくれたマリーゴールドが、いよいよその役目を終え、花壇から姿を消すことになりました。そして、新たに花壇には冬を越しながら花を咲かせるビオラやパンジーを植えることになります。その前に、花壇の土を整え、栄養を与える作業を行う予定です。今年は酒井夫妻からいろいろと知恵をいただきながら、花壇や牧師館の周りの畑を新たに整えることに取り組んでいます。

ちょうど同じ時期にチューリップとヒヤシンスの球根を土の中に深く植える作業も行います。冬の間、土の中でどのように成長しているのかを目にすることはできませんが、来年の春頃になると、厳しい冬を越した球根から新しい芽が出て、美しいチューリップとヒヤシンスの花を見ることを楽しみにしています。

私たち小泉町教会も同様に、季節ごとに与えられた務めを果たし終えながら、常に新しいことに取り組みます。時にはビオラのように、最初から美しい花を楽しむこともありますが、多くの場合は、何も見えません。しかし、私たちの神は、時にかなって新しいことを起こされます。時には、私たちが準備し計画していたことが美しく花を咲かせる時もあれば、何も見えず、ただ不安の中で、全てを神様に委ねるしかない時もあります。そのような時こそ、神の御業を期待し、信仰を持って進むしかありません。

 今日からアドベントに入ります。アドベントは、暗闇の中に真の光としてお生まれになるイエス・キリストを待ち望む時です。何も見えない真っ暗闇であっても、信仰の目を持って過ごす時こそアドベントなのです。願わくは、アドベントの4週間、人知を超えた大いなる恵みを、神の家族お一人おひとりが味わいますように…。シャローム!



2024.12.1 本日の宣教

 『言、命、光なる主 』

                                                   ヨハネによる福音書 1章1~5節

本日からアドベント(待降節)が始まります。救い主の誕生を待ち望みつつ、互いに心に灯りを灯しましょう。

ヨハネによる福音書は、マタイやルカのように主イエスの誕生物語を羊飼いや天使の訪れなどを用いて描きません。代わりに、ヨハネは天地創造の始まりにまで遡り、壮大な視点からイエスを「言」「命」「光」として紹介します。

1. 「言」として来られたイエス

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。(1~3節)」

ヨハネによる福音書の冒頭のこの言葉は、聖書の始まりである創世記の冒頭の言葉「初めに、神は天地を創造された」と同じく、「初めに」という言葉で始まっています。これらの個所を見ますと、ヨハネによる福音書の記者は、「創世記」の天地創造に先立って、その天地創造が、「神の言」によって始まったことを告げようとしていることが分かります。さらに、ヨハネは「初めにあった言」こそ、「神の独り子」イエス・キリスト御自身であることを明らかにしています。すなわち、ヨハネは福音書の最初で「言」(ロゴス)という表現を通して、イエス・キリストが神と共に天地創造を成し遂げられた「言」として存在され、そのイエス・キリストこそ、神の御子であったことを記しているのです。そして、今も神は、生ける「言」によって、新しい創造の業を成しておられることを私たちは知っています。 2. 「命」として来られたイエス

ヨハネは続けて、「言のうちに命があった」と語ります(4節)。「命」という言葉は、ヨハネによる福音書には「36回」も登場しており、それほどヨハネは「命」を大切に伝えたかったことが分かります。すなわち、この「命」は、ただ肉体を生かすものではなく、霊的な命、すなわち永遠の命を意味します。罪によって死んでいた私たちに、イエスは命をもたらしてくださいました。この命は、イエスを信じる者すべてに与えられる約束の命です。クリスマスは、その命の贈り物を感謝して受け取る日なのです。

3. 「光」として来られたイエス

「その命は人の光であった。光は暗闇の中に輝いている。」(4-5節)

主イエスは、暗闇の中に輝く光として来られました。暗闇は、罪と死、絶望を象徴します。しかし、主イエスが来られたことで、その暗闇は打ち破られ、希望の光が差し込みました。

クリスマスの星が輝き、羊飼いたちや占星術学者たちがその光に導かれたように、主イエスという光は今もすべての人を神の御もとへ導いています。この光は、私たちの罪を照らし出し、悔い改めに導く光であると同時に、絶望の中にいる人々を慰め、希望を与える光でもあります。願わくは、今年のクリスマスを通して「言、命、光」なる主イエスとの深い交わりが与えられますように…。ハレルヤ!


2024.12.1 小さな泉の恵み

 12月の放送で約5年半66回続いた富山シティFM SDGsカフェ〜七色と十色の店長としての番組ナビゲーターを降板することになりました。

  今回は、東日本大震災発生後すぐに宮古市を訪問し、YMCA宮古ボランティアセンターを開設・運営された盛岡YMCA総主事の濱塚有史さんと柳田公民館で活動を開始した閔丙俊先生との対談となりました。

特に、被災された方々の心のケアについてお話ししていただきました。 閔丙俊先生にギターの弾き語りで3曲歌っていただきました。 ぜひ、お聞きください。 番組は、6回再放送されます。

以下の時間帯で富山シティエフエムのWEBサイト【ネットでラジオ】にアクセスすれば、世界のどこからでもスマホで聴くことができます。

12月4日・11日(水)14時~15時   

  5日・12日(木)18時-19時   

  8日・15日(日)11時-12時   

 富山シティエフエム https://city-fm.co.jp/

                                                        島田 茂


2024.11.24 牧師室便り

  「アーメンを叫ぼう」

クリスマスの季節がやってきました。街にはイルミネーションが広がり、スーパーや商店街にはクリスマスの商品が並べられています。また、教会ではクリスマスを良き伝道の機会とし、さまざまな準備を進めています。

「富山市民クリスマス」では、毎年恒例の「メサイア」を歌います。小泉町教会からは6名の兄弟姉妹が参加し、イエス・キリストのご降誕を賛美をもって祝うことになります。

メサイアのフィナーレは「アーメン・コーラス」です。この曲は、「アーメン」という言葉だけで構成されています。そのため、4つのパートが、「アーメン」という言葉に合わせて、それぞれのメロディを調和させて歌うことになりますが、合わせるのは至難の業です。しかし、最後に全員が声をそろえて「アーメン」と賛美し、メサイアを締めくくるときには、言葉では表現しきれない感動と歓喜を味わうことになります。

ご存じのように、「アーメン」は「信じます」「まことにそうです」「その通りになりますように」などの意味を持つ、信仰告白の言葉です。ぜひ、聖歌隊の賛美の声とその賛美を聞く聴衆たちが「アーメン・コーラス」で一つになりますように…。

以前、私が東京にいた頃、末期がんを患っていた一人の姉妹との交わりを思い出します。彼女の病室に入ると、肉体が腐敗していくような悪臭で満ちていました。本当に、一瞬でもそこにいることが耐え難いほどの厳しい臭いでした。おそらく彼女自身も、死が近いことを感じていたでしょう。それでも彼女は、牧師である私の祈りの言葉に「アーメン、アーメン」と声を上げて応答していました。まさに、パウロが語ったように、彼女の「外なる人」は日々衰えていき、やがて滅びてしまいます。しかし、彼女の「内なる人」は日々新たにされ、やがて永遠の神の御国で栄光に輝く姿に復活するという約束を信じていたのです。その信仰の告白として、希望を込めて「アーメン」と応答してくれたのでしょう。

クリスマスを迎える私たちに、主イエスは「あなたはアーメンをもって私を迎えられるか。アーメンをもって、あなたのすべてを委ねられるか」と問いかけておられるでしょう。皆さんの生活がアーメンで満ち溢れますように…。シャローム!



2024.11.24 本日の宣教

 『沖に漕ぎ出しなさい』

                                                    ルカによる福音書 5章1~11節

イエスが最初の使徒4人を召命するこの箇所は、マタイとマルコの福音書では、ほとんど同じ内容の記述になっています。マタイは4章18~22節、マルコは1章16~20節とそれぞれ5節で記述されています。この二つの福音書では、イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられるときに、ペテロと呼ばれるシモンと兄弟のアンデレが網を打っているのをご覧になって「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。さらに、少し進んでゼベタイの子、ヤコブと兄弟のヨハネが、船の中で網の手入れをしているのをご覧になり、彼らを呼んで、この二人も父と雇い人たちを舟に残してイエスの後について行ったとあります。この個所の記事だけでは、まだ弟子のいないイエスがガリラヤ湖畔を歩いて行って、出会った漁師の4人に「人間をとる漁師にしよう」と語り、漁師たちはイエスの言葉に従って弟子になったという内容で唐突感があります。学問のない漁師たちがなぜイエスの「わたしについて来なさい」という言葉に「すぐに網を捨てて従った」のだろうかという疑問が残ります。

ヨハネによる福音書1章36~42節では、アンデレはもともとバプテスマのヨハネの弟子であったことが分かります。彼は、ヨハネがイエスのことを「見よ、神の子羊だ」と言っていたのを他の弟子と聞いていました。そして、ヨハネがヘロデに捕らえられてから、イエスに他の弟子と従っていったのです。

アンデレは、自分の兄弟シモン・ペテロに「わたしたちは メシアに出会った」とイエスのことを伝え、シモンをイエスのところに連れて行きました。そこでイエスはシモンを見つめて「あなたはヨハネの子シモンであるが、『ケファ』(「岩」という意味)と呼ぶことにする」と記述されています。『ケファ』はアラム語で、ギリシャ語では、ペテロと訳されます。「人間をとる漁師にしよう」というマタイ・マルコ福音書の記述は、唐突に思われますが、同じ記事をヨハネの福音書を読み、ルカの福音書の記述を読むとよくわかります。

イエスは、ケネサレト(ガリラヤ)湖畔で群衆がイエスの言葉を聞こうと押し寄せて来たため、すでに知っていた二人の漁師が漁を終えて岸に上がるのを見かけて、シモンの舟に乗せてもらいました。岸から少し離れたところまで漕がせて、腰を下ろして落ち着いて岸にいる群衆に神の言葉を語ったのです。

もちろんシモンもアンデレも、そして、岸で網を洗っていたヤコブと兄弟のヨハネも、イエスの語る言葉を聞いていたのです。話し終えて、一晩中漁をしたが何も取れなかったシモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われたのです。その言葉に従ったシモンは、おびただしい魚をとることになるのです。

 これまでの生活を捨てて、イエスの言葉に従い、「沖に漕ぎ出す」ことは、どのようなことを私たちに伝えているのでしょうか?


                                                          島田 茂