2022年5月1日日曜日

2022.4.17 小さな泉の恵み

 皆さん、こんにちは!此処が、如何お過ごしでしょうか?今週の、水曜日から週一日の4時間程度の、副業?が決まり、4月13日が初日でした。清掃の仕事ではありますが、以前東京でやっていて、多少の経験はありますが、緊張していました。副業として、清掃業の仕事をやっていますが、職場内の雰囲気がよく、助け合いながら仕事をやるといった感じの職場で、週に一度の仕事となりますが、続けられそうです。

話が変わって、週報の小さな泉の恵みをはいけんして、自分が書くとなると、皆さんが書かれる記事は、聖書に沿った自分のことだったり、考え方を書かれているのを見て、果たして自分はどう何だろうと?と考えさせられます。自分は未だに洗礼は受けていませんが、その時が来るまで御言葉、をしっかり受け入れ、神を中心とした生活が出来る自分でありますように

                            Y.H.兄


2022.4.10 牧師室便り

 ~ 主イエスの足元に近づく ~

 十字架処刑を前にしておられた主イエスにとって、唯一とも言えるような安らぎと喜びの出来事とすれば、ペタニアのマリアが主イエスの頭から両足に香油を注いだことでしょう。「ベタニアのマリア」…。聖書の中で数回紹介されている彼女の姿には一つの特徴があることに気づきます。それは、彼女がいつも主イエスの近く、特に足元に座っているということです。

あの有名なマルタとマリアの話の時を見ると、マリアは忙しく動き回っているマルタとは違って、主イエスの足元に座って御言葉を聞いていたことが分かります。また、愛するラザロお兄さんが死んだ時、主イエスの足元にひれ伏して泣きながら癒しを乞い求めていた姿も覚えています。そして、最後に、主イエスの頭から両足に香油を注いでから、その足に口付けし、自分の長い髪の毛で主イエスの足をぬぐっている姿がとても印象深く描かれています。すなわち、ベタニアのマリアは、主イエスとの関係において足元が固定席であったのです。お姉さんのマルタから妬まれることがあっても、また、弟子たちから叱られるような声を聞いても、周りの誰から何を言われようと、主イエスの足元に近づき、御言葉に耳を傾けることを諦めることはありませんでした。そして聖書は、マリアが主イエスの足元に近づき、御言葉をいただき、高価な香油を注ぐことができた理由を「愛のゆえ」であったと教えます。

マリアの主イエスに対する愛が、十字架による救いの御業に協力することにまで至たらせたわけです。

「彼女はわたしに良いことをしてくれたのだ」 とされ、「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」と、さらに、「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」という、主イエスからの称賛の御言葉の主人公にもなれたのです(マルコ14:3~9)。

コロナ・パンデミックによって主日礼拝にも、平日の諸集会にも、普段の生活における祈りの場にも積極的に近づくことが難しく思われている近頃、神の家族の皆さんの主イエスに対する愛を、何をもって現すことができるでしょうか。マリアのように主イエスの足元に近づき、愛を表す神の家族でありますように…。シャローム!


2022.4.10 本日の宣教

 『 神の神殿は大丈夫ですか 』 (ルカによる福音書 19:45~46)

本日は受難週礼拝です。2000年前、主イエスは父なる神の御計画に従い、十字架にかかるためにエルサレムに入城されました。小さな子ロバに乗って入城される主イエスに対して、大勢の群衆は“ホサナ”と声を上げ迎え入れました。その聖書箇所を黙想しながら、ふと、その時の主イエスはどのような表情をされただろうか?という疑問が沸きました。私たちはよく天皇やオリンピックの金メダリストを喜ぶためにパレードが行われるのを度々目にします。その時、大勢の人が道を埋め尽くして歓声をあげると、それに笑顔で手を振りながら挨拶をする風景を浮かべるわけですが、主イエスのエルサレム入城の時もそうだったでしょうか。

 聖書は、主イエスがエルサレムに入城された後、最初に行った出来事を記しています。まず、主イエスはエルサレムを見つめながら泣き叫ばれていたことが分かります。「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。(ルカ19:41)」… 主イエスが泣いておられる。それも、静かに泣いたのではなく、大声で叫びながら泣いたと聖書は記していたのです。その後の主イエスが取られた行動は、あの有名な神殿浄化でした。それが本日の御言葉です。「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。(ルカ19:45)」…エルサレムに入られてから主イエスの目が向けられ、集中して語られたいたところこそ、エルサレム神殿でした。愛の主イエスの姿からはなかなか見られない行動や言葉でした。

それでは、何が主イエスをこれほどまで憤らせたのでしょうか。それこそ、当時のエルサレム神殿が神殿としての役割を果たせなかったことと、神の神殿本来の姿を失っていたことに原因がありました。それでは神殿の本来の姿は何でしょうか。主イエスは、「私の家は祈りの家でなければならないのだ!」と言われたことから、神殿の存在の目的が示されていますよね。

そこで主イエスは、新たな神殿を建て直そうとされました。その神殿こそ、イエス・キリストの十字架の血潮によって新しく生まれ変わった神の民の内側に建てられた神殿であります。「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神の神殿です。(一コリント6:19)」…神殿の存在の目的は、ただ建物として存在することではありません。神殿の目的はただ一つ、神を礼拝し交わることです。神を礼拝するとは、自分自身を生きたいけにえとして献げ、神の栄光を現すことを表します。それでは、今の小泉町教会の神の家族は神の神殿としての目的にふさわしく建てられていますか。エルサレム神殿をひっくり返された主イエスが、神の神殿である私たちの姿をどう見ておられるでしょうか。願わくは、主イエスに喜ばれる礼拝が献げられる神殿としての神の家族お一人お一人でありますように…。あなたの内に建てられている神の神殿は大丈夫ですか。ハレルヤ!


2022.4.10 小さな泉の恵み

 桜の花がとても綺麗な季節となりました。

我が家では、1年間余分に受験勉強していた息子が、無事希望校に合格し、先月末から県外で1人暮らしを始めました。

我が家は子供が1人だったので、夫婦2人の生活に19年ぶりに戻りました。

食卓にのぼるものも、カロリー控えめ、野菜中心。疲れているときは、冷凍食品を使うこともあり、調理の手間を省いています。

自分の時間が広がって、出掛けることも増えましたが、まだ投薬治療中の身。

家で日記や小さな物語を書いたりして、楽しんでいます。

神様の癒しを頼りに、家族3人それぞれの新しい一年を始めたばかりです。

リビングライフの存在に助けられています。

                          S.N.姉

2022年4月3日日曜日

2022.4.3 牧師室便り

 ~ 互いに重荷を担い合おう ~

「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです(ガラテヤ6:2)」

 本日から2022年度が始まります。コロナパンデミックが始まって以来、私たちの生活様式をはじめ、何もかもが変わってしまいました。“もう2年以上続いているので慣れた”という人もいれば、まだまだスッキリしない思いでストレスを受けている人もいるでしょう。とりわけコロナパンデミックによる被害を直接受けている方々のことを思うと心が痛みます。

 父なる神は2022年度の小泉町教会の歩みをどのように導かれるでしょうか。また私たちはどのような夢を抱き、どのようなチャレンジをすべきでしょうか。何より私たちの信仰の命とされる主日礼拝をどのように立て直していくかを祈りつつ取り組んでいくべきでしょう。そのためには牧師と執事、また信徒の皆さんの心を一つにすることです。

 新年度を始めるに当たり、示された御言葉がガラテヤ6:2です。「互いに重荷を担いなさい」という御言葉です。非対面礼拝が続き、コロナ疲れが続く中で、礼拝に集うことができず、一人寂しく重荷を背負っている神の家族がいます。もちろん各自、それぞれが主イエスによって与えられた「自分の十字架」を背負って従うわけですが、キリストの体なる教会共同体においては、互いに担い合える重荷があることを覚えましょう。ある人は、「自分の十字架を背負うだけで精いっぱいです!」という人もいれば、「特別に重荷と言えるようなものはありません。」という人もいるでしょう。

しかし、「自分自身も重荷を負う人間であり、誤りを犯しやすく、助けを必要とする弱い存在であること」に目覚めることからキリストの教会の愛の交わりが始まることを覚えましょう。まず、牧師が、執事が、一人一人の信徒が弱さを認めつつ、与えられた働きに臨むことです。願わくは、主イエス・キリストが十字架を通して私たちの身代わりとなり罪と罰を担われたように、私たちも互いに重荷を担い合うことによって「キリストの律法を全う」する2022年度の小泉町教会の神の家族お一人お一人となりますように…。シャローム!


2022.4.3 本日の宣教

 『 世の罪を取り除く神の小羊 』(ヨハネ1:29、イザヤ53:6~7)

近年、イエス・キリストの十字架の贖いの死を認めない動きがあります。すなわち十字架が神の御心ではなく、ただ当時の政治権力による暴力によって殺されたのだと主張します。しかし、どうでしょうか。イエス・キリストの十字架を神の御心でないとすれば、十字架を誇るというキリスト教会とキリスト教信仰はどうなるでしょうか。十字架の信仰を否定することは、旧新約聖書の御言葉と主イエスの救いの御業を否定することになるでしょう。また、私の信仰の中心に立っている十字架による感動と恵みを消してしまうことになるのです。                                                  

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ(ヨハネ1:29)。」… これは、バプテスマのヨハネが、主イエスを紹介した最初の言葉です。ヨハネはなぜ「小羊」という言葉で主イエスを表現したのでしょうか。偶然、頭に浮かんできた動物を表しただけでしょうか。ここで、彼が「世の罪を取り除く小羊」と言った時、恐らく彼の頭には「わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった(イザヤ53:6~7節)。」というイザヤの「いけにえとしての小羊」として来られるメシアを根拠としたことでしょう。すなわち、罪人たちの罪の重荷をすべて背負われて屠られる小羊、しかも、その小羊は、受身的にただ、死刑の刑罰を受け入れたのではなく、自ら選び、進んでその命を献げ、最後の血の一滴までも世の人々のために注ぎ尽くされた小羊となられたのです。 

私たちキリスト者は、主イエスの十字架によって贖われ赦された存在です。十字架こそ、罪の中で滅んでいく人類を救おうとされた神のご計画でした。主イエスは、聖書に書いてある通り、神の独り子としてこの世に生まれ、ご自身の体をもって、全人類を救う贖いのいけにえとなり、赦しを得るための救いの道を開いてくださったのです。そしてその十字架で死なれた主イエスのゆえにすべての人を赦すことができます。 

愛する神の家族の皆さん、真にこの世は罪と汚れに満ちています。どこを見ても罪に汚れ悪に満ちています。何より、私たちの心が罪で汚れていますし、常に欲望と自己中心に満ちて神に背く性質をもっているのも事実です。そんな互いの欲望と自己中心というものがぶつかり合っているのが世の中ですし、その中で傷つき、傷をつけ合っている私たちです。しかし、主イエスは、私たちの欲望と自己中心の罪を打ち砕き完全に取り除くために十字架にかけられ、ご自身の体を裂いて、最後の一滴の血までも注ぎ出し死んでくださったのです。それゆえ、私たちは聖められ救われる道が開かれたのです。

願わくは、神の小羊なる主イエスの救いの御業を褒めたたえ、十字架を見上げる神の家族の日々でありますように…。罪の力に負けそうな時、“主よ、私の罪を取り除いてください”と祈りつつ御前に近づきましょう。ハレルヤ!


2022.4.3 小さな泉の恵み

 小泉町の神の家族の皆さん、お久しぶりです!

2月初に渡韓し、3月からはc大学校人文大学史学科で大学生活をしています。

初めての大学生活、寮生活、独り暮らし、(本格的な?)韓国での学校•教会生活、、、何重もの初めてを前に、不安と期待が複雑に入り交じった気持ちでスタートラインを切りました。

寮や学科、キリスト教学生会や教会で、神様が大切な出会いを豊かに恵んでくださって、今は最初に比べて大いにリラックスして、この生活に慣れてこられた気がします。

富山では雪が溶け、桜が咲くころでしょうか。こちらは天気が少しずつ春めき、黄色いレンギョウが愛らしく咲き誇っています。

新しいことを始められる神様が、私がどんなに愚かで弱くて揺れ動いても、不安と不信の中にいても、導いて善きことを成し遂げてこられたことを賛美します。

大学での学びの時が、変わらない真理を追究し、み言葉と深く向き合い、大事な隣人と出会い、神様が喜ばれる姿に成長する時でありますように。

皆さんの祈りに支えられて、皆さんに感謝して、皆さんを覚えて、これから善き大学生活を送っていきたいです!

主に栄光、主の平和

                               M.J. 兄