~突然~ 私には3人の姉と1人の弟がいて、私以外は皆、神奈川などの首都圏に住んでいます。離れていても姉妹は仲が良く、「みんなで頑張って母さんの享年80歳まではとにかく元気でようね。」とよく話しています。 その5人の中で、上から2番目の一番働き者で頑張り屋の姉が、先日突然、くも膜下出血になり意識不明の危篤状態になったのです。ショックでした。 姉が倒れた知らせを受けた時、一番に頭に浮かんだのは、姉がこのまま目を覚まさず命を亡くしたら、あんなに頑張って他者のためにたゆまず働いていた姉は、どこに行ってしまうのだろうという事でした。 そして、次に浮かんだのは14年ほど前に同じ病気で倒れた登喜雄さんのこと。 そして、私の両親のことでした。父は58歳で母は80歳で、二人とも突然死でこの世を去っています。何も語ることなく、突然別れを告げられることは、本人はもとより周り者もにも、より深い悲しみを与えます。 幸いにも、姉は皆さんのお祈りのおかげで8日後に目を覚まし、命の主に助けて頂きました。感謝でいっぱいです。 聖書には、「見よ。わたしは盗人のように来る。…」 ヨハネの黙示録16:15(抜粋) |
2020年9月21日月曜日
2020.8.2 小さな泉の恵み
2020.7.26 牧師室便り
~声を上げて叫ぶ恵み~
「声をあげ、主に向かって叫び、声をあげ、主に向かって憐れみを求めよう。
御前にわたしの悩みを注ぎ出し、御前に苦しみを訴えよう。」(詩編142:2~3)
神の家族の皆さんは神の前で声をあげて叫んだことがありますか。もちろん、元気のいい賛美を歌う時は声を上げて歌うことは当然でしょう。しかし、自分が置かれている状況がまるで洞窟に閉じ込められているような、命からがら洞窟に身を隠し、洞窟の暗闇に包まれて時を過ごす時にも皆さんは声を上げて神に叫ばれるでしょうか。
詩編142編は、ダビデがサウル王に追われ洞窟に身を隠した時に書かれたとされています。実に厳しく希望の見えない洞窟の中で、ダビデにできることは神に“声を上げて叫ぶ”ことでした。ダビデの信仰の特徴は、神の前に常に素直であったということでしょう。彼は嬉しい時は喜びの賛美を、楽しい時は踊りを、感動に満ちた時は賛美の声を上げました。また、苦しい時は苦しい!と、寂しい時は寂しい!と、悔しい時は悔しい!と、叫びました。決して神の前で恰好をつけたり、力んだり、飾ったりすることはありませんでした。常にあるがままの親しい交わりを貫いた人でした。
今こそ、私たちに求められることが神の前に「声を上げて叫ぶ」ことではないでしょうか。洞窟はこの世の人々の目から見たら、寂しいところ、嫌なところ、絶望のところと思われるかもしれませんが、神の人にとっては祈りの場所、賛美の場所、黙想の場所となるからです。新型コロナウイルスによってどこにも出かけられず、なかなか人に深く交わることも、旅をすることもできない。経済的にも、精神的にも疲弊してしまいそうな時が続いています。まさに洞窟に閉じ込められているような状況です。しかし、ダビデは私たちに勧めます。“声を上げて主に叫ぼう。御前に進み出て悩みを注ぎ出し、苦しみを訴えなさい。そうすれば、愛なる神の臨在に触れ、人知を超えた慰めと恵みに包まれるでしょう。”と。シャローム!
2020.7.26 本日の宣教
『私たちの信仰告白』 (ローマの信徒への手紙10:8~10)
新型コロナウイルスが世界的に流行し、一時休止していた礼拝再開後も、昨年から続けてきた使徒信条の学びはしばらくの間、休んでいました。しかし、いよいよ本日から使徒信条の残りの部分を分かち合う中で恵みを確かめたいと思います。
使徒信条は、初代教会が始まってから2000年の間、キリスト教会とキリスト者の中で告白され続けてきた信仰告白です。まさに、使徒信条はキリスト教の中心的メッセージを、短い文章で仕上げたものです。したがって、その言葉が何を意味しているか、神学的に何を指しているかなど、細かいことまでは記されていません。しかし、使徒信条では、短くても、決して揺るがすことのできない信仰の核心が一つ一つの言葉にまとめられていることを覚えましょう。それから、現代を生きる私たちは、「使徒信条」という信仰告白を、自分自身の信仰告白として、また教会共同体の信仰告白として噛み砕いて味わう必要があるのです。そうする中で、私たちはキリスト教が何を教え、また何を信じているのかを確かめることができるわけです。
そこで、本日は今まで分かち合ってきた使徒信条の内容を振り返り、これからの学びに備えたいと思います。
まず、「わたしは信じます」(ラテン語でCredo)という言葉で使徒信条は始まっています。Credoという言葉は、 Cor(心臓、心)と do(する、献げる、固定する)という二つの言葉が合さった言葉です。すなわち、「Credo」という言葉は、“わたしの心臓を献げ、心を固定して生きる。”という意味になるのです。
それでは、私たちが心臓を献げ、心を固定して生きるべき、信仰告白の内容はなんでしょうか。
使徒信条には三位一体と言う言葉はありませんが、しっかりと「父なる神、子なる神、聖霊なる神」の三位一体の神への告白という構造になっていることが分かります。
まず、「天地の造り主、全能の父なる神を信じます」という告白です。信仰の出発点こそ「創造主なる神」を信じることです。天と地、宇宙万物を造られた創造主なる神が、御姿にかたどって私をも造られ、全能の力をもってお父さんのように私を愛し見守ってくださるということを信じる信仰です。また、創造主なる神の創造の業は今もなお続けられていることを信じ、自分自身を献げていくことを心がけるべきです。
次に、「神のひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます」という告白です。天地を創造された創造主なる神が、罪の中で滅びるべき人類の罪を赦し救うために独り子を遣わされた、また御子を十字架にかけ死なせられた、そして墓に葬られた御子を死者の中から復活させられ、天に昇らせ、全能の父なる神の右に置かれたということを信じる信仰です。神は、その御子を信じて罪赦され神の子とされた人々を永遠の御国へ導き、永遠の命を与えると約束してくださっています。この信仰の上に立ち、今も希望と命に満ち生きているのです。ハレルヤ!
2020.7.26 小さな泉の恵み
わたしは小学生の頃から、途中ブランクありながらも、30年くらい合唱を続けてきました。特にここ15年くらいはかなりハードに活動していましたが、今年の2月の初めにいろいろあり、しばらくお休みすることにしました。個人的な合唱休止でした。 それが、なんと、2月末から新型コロナ感染症が流行し、全世界で合唱のみならずいろいろな音楽活動が休止するという想像もしなかった状況となりました。どんな有名な演奏家だろうと演奏会はすべてキャンセル。個人にどんなに素晴らしい演奏能力・技術があっても、人と人とが共に集まることが出来なければ、演奏会場に音楽は鳴り響かないということを思い知りました。 7月から、感染防止に配慮しながらメンバー集まっての合唱練習が再開し、わたしもまた、合唱に復帰することにしました。マスクつけて、間隔をあけての練習ですが、メンバーと共に歌えることはやはり嬉しいことです。「息のあるものはこぞって 主をほめたたえよ。ハレルヤ」(詩編150:6) 小泉町教会の礼拝賛美も会堂に満ちはじめました。兄弟姉妹方の健康が守られつつ心から主を共に賛美できますように。 S.M姉 |
2020.7.19 牧師室便り
~ Go To キャンペーンを考える ~
先日、海の向こうアメリカから届いたニュースによると、若者たちの間でコロナパーティーが開かれ、誰よりも早くコロナに感染した人に賞金を渡すという、どんでもない賭けをしていたところ、実際30歳の若者がコロナに感染し、結局死んでしまったという考えられないことが起こりました。その若者は死ぬ前に「私は本当に愚かなことをした」と後悔の言葉を残したそうです。…そして、7月に入って急激に増えている日本におけるコロナウイルス感染者のうち、7~8割を占めるのが、東京を中心とした首都圏の2,30代の若者であるそうです。彼らも先ほどのアメリカの若者たちのように、“自分たちはコロナにかかっても軽く済むし、たいしたことがないんだ!”と、まさに聖書が言っている通り、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(Ⅰコリント15:32)という誤った道を走っているのです。その結果、自分だけでなく、周りのお年寄りや両親、体の弱い人を危険にさらすようなことになってしまっているわけです。
主イエスが言われたことを覚えていますか。「そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。」(マタイ24:12)という御言葉の成就を目の当たりにしています。愛が冷えていき、人の欲望と不法がはびこっている世界です。
今日本中が、政府が打ち出している「Go To キャンペーン」に混乱を極めています。首都圏を中心に日に日にコロナウイルス感染者が増え続けて、全国各地から反対の声をあげているのに、それらに目と耳を閉ざし、経済復興という目標だけを掲げている現実です。そこに欠けているのは「愛」であって、「人の命」です。日本の政治家たちと日本の民らが、究極の愛と命を優先するようになり、その中で新型コロナウイルスとの共存の知恵を得、また、大雨による災害に遭われ生きる希望を失っている地域の方々を励まし勇気づけるように執り成したいものです。シャローム!
2020.7.19 本日の宣教
『星と輝く』 (ダニエル12:3)
暗闇がますます力を増している世界です。新型コロナウイルスが収まることを知らず広がっていますし、世界規模の自然災害、リーダーシップ不在と社会倫理の崩壊、様々な領域における差別などなど、そんな中、民らは無気力に陥り、生きる希望さえ失ってしまっているような状況が続いており、どこを見ても出口の見えない深い暗闇に覆われています。しかし忘れてはならないこと、“光は闇が深ければ深いほど求められるものであり、その輝きは力を発揮する”ようになるということでしょう。
本日与えられたダニエル書12章の御言葉には、終わりの時に訪れる苦難と復活、裁き、最後の命令について記されています。今こそ、世界の終わりを生きているような苦難の時、私たちはどうあるべきであり、神は私たちに何を求めておられるでしょうか。その時、示されている神の人へのビジョンこそ、「星と輝く」ことです。 “目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々はとこしえに星と輝く」(ダニエル12:3)”…ここで「目覚めた人」とは、思慮深く分別のある賢い人のことを指します。神の知恵をいただき、時代と歴史を見極め御心にふさわしく生きる人が、大空の星のように輝くことになるのです。それに加え、星と輝く人は、「暗闇の中にいる多くの者を、神の救いの方へと導く人である」と教えます。
すなわち、今がどのような時代なのか、自分が置かれている状況における神のお望みはなんなのか、とりわけ新型コロナウイルスがもたらしているメッセージはなんであるか、今世界が失い見逃しているものは?世界のキリスト教会とキリスト者への神のメッセージがなんであるかなどについて、慎重に、注意深く見極め、それらを理解し人々に伝えることです。しかし、今現在、世界中の多くのキリスト教会とキリスト者が、暗闇に染まり、光としての使命を失っているのも事実です。
そこで私たちの模範として立つ人が「ダニエル」です。ダニエルは幼い子どもの時にバビロンに連れ去られたけれども、暗闇の中で滅びていく祖国のために執り成しを忘れることはありませんでした。彼は一日3度、祖国イスラエルの方に体を向けてひざまずき、神の憐れみと助けを祈り続けました。そのように祈っていたダニエルを神は用いてくださったわけです。この世の力を恐れることのない人は祈る人です。
暗闇の中で輝く星は、神が配置なさったもので、自分の置かれた場所を離れず、太陽の光を受けその光を反射することで輝き始めるのです。新型コロナウイルスの時代が、世界の人々にとっては暗闇の時ですが、私たち富山小泉町キリスト教会の神の家族にとって「星と輝く」時となりますように、また神の家族お一人お一人を通して周りの多くの者が救いへと導かれる希望を抱きつつ歩みましょう。ハレルヤ!