2025年6月20日金曜日

2025.6.15 牧師室便り

~父の不安を祈りに!~

 本日は父の日。父である皆さんに、心からお祝いを申し上げます。

私は父親として、昨年12月からの半年間、軍隊に入隊している息子のことを思い、祈りつつも、不安と恐れ、そして落ち着かない日々を過ごしてきました。なぜなら、その当時、韓国の大統領が非常戒厳令を発令し、いつ戦争が起きてもおかしくないような緊迫した状況にあったからです。

息子は昨年10月に入隊し、兵役の任務を果たしている場所は、38度線のすぐそばでした。ですから、もし戦争が起これば、真っ先に、そして最も厳しい戦場へと送られる可能性があったのです。一人の指導者によって国全体が危機に陥る状況を目の当たりにしながら、そのただ中で、国家の義務を果たすために軍に入隊している息子のことは、父親である私にとって、何よりも大きな悩みであり、心の重荷であり、祈りの課題でした。

父親として、この6ヶ月間、何もしてやれない無力さを痛感しながら、私にできたことは、ただ息子のために執り成し祈ること、そして、すべてを神様に委ねることだけでした。

それから幸いなことに、大統領は弾劾され、今では「あのような事態が本当にあったのか」と思うほど、平穏な時が戻ってきています。

そして今日の礼拝には、息子が入隊して初めての休暇を得て出席しています。感謝です。

お父さんである皆さんも、それぞれに抱えている重荷や願いがあると思います。そのすべてを、真の父なる神に委ねつつ、父としての役割に励んでまいりましょう。そして何よりも、家族の救いのために最善を尽くす、これからの日々となりますように。シャローム。



2025.6.15 本日の宣教

 『 祈りと賛美に生きる幸い 』

                     ヤコブの手紙5章13~16節

「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。(5:13)」

本日の御言葉は、私たちの日常に直結する非常に実践的な勧めです。ヤコブの手紙は、信仰が行いと結びついてこそ本物であることを強調している書簡ですが、その締めくくりの部分にあたるこの箇所では、特に「祈り」と「賛美」の大切さが語られています。

13節でヤコブが使っている「苦しみ」という言葉には、病気だけでなく、人生のさまざまな困難や重荷、心の痛みが含まれます。信仰生活を歩む中で、私たちは思いがけない試練に遭うことがあります。病、家庭の問題、人間関係の苦しみ、孤独、経済的な困窮、心の中の葛藤…。しかしそのような時こそ、私たちにできる最も確かな行動は、「祈る」ことなのです。

祈りとは、神との対話であり、神のもとに自らを運び出す信仰の行為です。祈ることで、私たちは神に自分の思いを打ち明け、心の重荷を委ねることができます。そして、祈りを通して神の平安が心に訪れ、状況が変わらなくとも、心が変えられていくことを経験するのです。

同じく13節の後半、「喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい」と続きます。これは、ただ感情的に「嬉しい から歌う」という意味ではありません。ここで言う賛美とは、父なる神への感謝と喜びを帰す行為です。

私たちは、良いことがあった時、感謝の祈りや賛美を忘れてしまうことがしばしばあります。苦しみの時には神を求めるけれど、喜びの時には神を忘れてしまう。まるで、自分の努力や頑張りでそれを得たかのように錯覚し傲慢になってしまうのです。

しかし、ヤコブははっきりと、「喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい」と命じています。喜びの源がどこから来たのかを見つめ、それを神に返すことが、賛美の本質です。祈りと賛美は、私たちの信仰生活の両輪のようなものです。苦しみの中で祈り、喜びの中で賛美することで、どんな状況でも私たちは神と共に歩むことができるのです。

「祈りなさい、賛美しなさい」。このシンプルな勧めの中に、神と共に生きる信仰生活の核心があります。苦しみの中では神に助けを求めて祈り、喜びの中では神を賛美する。さらに、祈りと賛美があなたの人生のあらゆる時に現れるなら、あなたは幸いな人として、主と隣人に喜ばれることでしょう。ハレルヤ!


2025.6.15 小さな泉の恵み

 ~『小さな泉』に伝道を学ばされ~

最近わたしの教会にある「被災地支援チーム」というのに入りました。メンバー三人でチーム成立というルールがあるんですが、メンバー不足で解散しかかったので、入ったんです。それで、毎月第一火曜日の「能登被災地支援を覚える祈り会(中部連合有志主催)」にもZoom参加することになりました。家の事情で終始ミュート参加ですがお赦しを...。

 そこで北陸三教会による能登支援活動の報告を伺い、改めて感謝の思いです。特に、小泉町教会の「小さな泉のカフェ」で懐かしいみなさんの姿が大きな恵みです。夜8時からってちょっとしんどいと思って今まで出てませんでしたが、主に襟首つかまれて連れて来られてよかったです。

 その中で、片道三時間もかかって能登に出向く目的について閔先生が「能登のお一人おひとりが神さまの大切な存在であることを知らせたい」と説明されたのが深く心に残っています。「それは間違っている、これが正しい」ではなくて、「教会で礼拝すべし」でもなくて、「あなたは神さまに愛されている!」このメッセージが「伝道」の基本である、それは相手が苦しむ人であっても、満足している人であっても変わらない。小泉町教会でそれ、学んだはずだったんですが、今の教会で「伝道」を模索しているうちにどうも薄れていたようで、そこから再スタートだな、と学ばされた最近でありました。

                         S.M.姉


2025.6.8 牧師室便り

 ~日本のリバイバルを信じて~  

本日はペンテコステ、聖霊が初代教会の上に臨まれ、教会が誕生した日です。その日以来、聖霊は教会にリバイバルを与え、時代を変え、国々を新しくしてこられました。そして聖霊は、終末の時にも人々の上に臨み、神の国の御業を現されると約束されました。今私たちは、まさにその終末の時代を生きているのではないでしょうか。                      

世界では自然災害が頻発し、戦争の噂も絶えません。また、愛が冷え、堕落した文化が社会を覆っているのが現実です。その中で、日本のクリスチャン人口は今もなお1%に満たず、多くの人々が救いを知らずに歩んでいます。

このような状況の中で、私たちにできることは何でしょうか。人の力では限界があります。だからこそ、今最も必要なのは「聖霊によるリバイバル」です。圧倒的な力で教会と人々の上に臨まれる聖霊こそが、人々を救い、町を変え、国を変えてくださる唯一の希望です。私はこの終末を生きる者として、また伝道者として、聖霊の働きを心から待ち望んでいます。小泉町教会の上に、また日本各地の教会の上に、聖霊が豊かに注がれますようにと祈ります。

サタンの働きは今もなお強く、教会とクリスチャンを打ち砕こうとしています。だからこそ、聖霊に満たされ、聖霊によって生きることが、私たちにとって最も大切なのです。

「聖霊なる神よ、どうか約束通り、私たちの上に臨んでください。私たちを造り変え、悔い改めの霊をお与えください。そこから一人が変えられ、共同体が変えられ、聖霊の清さとリバイバルがこの地に満ちあふれますように。」・・・シャローム。



2025.6.8 本日の宣教

 『 皆一つになって 』

                    使徒言行録2章42~47節

ペンテコステ(聖霊降臨)、おめでとうございます。

使徒言行録2章に記されている聖霊降臨の出来事は、教会の誕生を告げる日であり、キリスト教会の宣教の新しい時代の幕開けでもありました。

主イエスが昇天される前に約束されたとおり、五旬祭の日、弟子たちが一つ心で祈っていると、突然、激しい風のような音が天から聞こえ、炎のような舌が現れて、120人の弟子たち一人ひとりの上にとどまりました。弟子たちは皆、聖霊に満たされ、異なる言葉で語り出すという驚くべき出来事が起こりました。これは単なる神秘体験ではなく、神の救いのご計画がユダヤ人だけでなく、あらゆる国の民に開かれたことを示す、象徴的な出来事だったのです。さらにペトロの説教の結果、悔い改めてバプテスマを受けた人が三千人に及んだことが記されています。

神の霊が臨むとき、人は変えられ、教会はただの集まりから、神の宣教の器へと生まれ変わります。本日の御言葉は、聖霊によって始まった教会が、今もなお神の使命に生きる共同体であることを、私たちに思い起こさせてくれます。

教会の歴史を振り返るとき、リバイバル(霊的覚醒)は単なる熱狂的な集会や奇跡の連続ではなく、「悔い改め」の霊が一人ひとりの心を打ち砕き、共同体全体を神の前に立ち返らせることだと分かります。

本日の御言葉には、聖霊降臨によるリバイバルと悔い改めによって誕生した初代教会の姿が描かれています。その姿の中には、キリスト教会が備えるべき六つの柱が示されています。すなわち、①礼拝 ②聖書の学び ③祈り、④交わり ⑤伝道 ⑥慈善です。そして、これらをつなぐ大切な言葉が強調されています。それが「皆一つになって」です。

「皆一つになって」…、それは神の願いであり、教会の証しであり、私たちの目指すべき姿です。これらは今の私たちの教会にとっても大切な課題であり、同時に大きな恵みでもあります。私たちの力では難しいかもしれません。しかし、聖霊が私たちのうちに働いてくださるなら、それは可能です。

願わくは、今日の御言葉に応えて、祈ることができますように…。「主よ、私たちを聖霊によって一つとしてください。皆一つになって、主の栄光と救いの福音を現してください。」

ハレルヤ!

  


2025.6.8 小さな泉の恵み

 皆さん、こんにちは。

先月25日、強風が吹く天候の中、第25回富山県障がい者スポーツ大会「陸上競技会」に参加しました。ジャベリックスローという投てき競技に出場し、今回は2m92㎝という記録を収めることができ、大変感謝しています。これも皆様のお祈りのおかげと心から嬉しく思っています。来年もぜひ参加したいと願っています。

また、総会資料にも書いた通り、家がかなり乱雑な状態になっており、今週12日の木曜日に神の家族の皆さんに片付けを手伝っていただくことになりました。イエス様とともに祈りながら、楽しく片付けをしたいと思っています。これからは、神の子どもとして、心も体も、家も整えて過ごしていきたいと願っています。

いつも神の家族の皆さんのお祈りと支えに、心より感謝申し上げます。

アーメン。

                       M.T.兄

2025.6.1 牧師室便り

 ~ 聖霊の臨在に生きる~

先週の日曜日、金沢教会での宣教奉仕のために車を走らせていた時のことです。朝から肌寒く小雨が降る中、小矢部の辺りに差しかかると、突然大雨が降り出しました。その大雨の中、心の奥底からこみ上げてくる感動がありました。「父なる神が私を愛し、私を用いてくださる。今私のそばにいて、この道をともに走っておられる。」…。そう確信した瞬間、涙が溢れ出し、胸いっぱいの感動の中で賛美をささげながら車を走らせました。

愛する皆さん、私たちは日々の生活の中で、神の愛と聖霊の臨在を感じているでしょうか?

父なる神は、私たちの内に聖霊を与えてくださいました。聖霊は、私たちが疲れ果て寂しい時に「あなたは一人ではない、わたしがともにいる」と語りかけ、また意欲を失いそうな時には、「勇気を出しなさい。あなたの心から、初めの愛に燃やされなさい」と励ましてくださいます。

来週はペンテコステ、聖霊降臨日です。二千年前、約束された聖霊を待ち望んでいた弟子たちの姿を思い起こします。恐れと不安の中にいた彼らに聖霊が臨み、彼らは大胆に福音を語る者へと変えられました。今は聖霊の時代。私たちの上にも、聖霊の導きと満たし、油注ぎが必要です。

どうか神の家族お一人おひとりが、日々聖霊の感動とともに、イエス・キリストの臨在に満たされ、喜びと力にあふれた歩みをされますように。心から願い、祈ります。シャローム!



2025.6.1 本日の宣教

 『 その方(聖霊)が来れば 』

                      ヨハネによる福音書 16章7~14節

今日与えられている御言葉は、主イエスが十字架にかかる直前に弟子たちに語られた、深い慰めと希望の約束です。

主は、「わたしが去って行くことは、あなたがたのためになる」と語られました(ヨハネ16:7)。一見矛盾しているように思えますが、その理由は、「わたしが去って行かなければ、弁護者(助け主)はあなたがたのところに来ないからである」という言葉にあります。この「弁護者」とは、聖霊なる神です。

弟子たちは、目に見えるイエスと共に歩んできました。しかし、主イエスが天に昇られた後、彼らに与えられるのは、見えない神の霊、すなわち聖霊でした。では、「その方がくれば」、何が起こるのでしょうか。主は三つのことを語られました。①罪について、②義について、③裁きについて、です。

聖霊は、人々に「神を信じないこと」が最大の罪であると示されます。また、主イエスが父のもとに帰られたことは、その義が神に受け入れられた証しです。聖霊は、信じる者がこの義にあずかることを証ししてくださいます。さらに聖霊は、サタンがすでに裁かれたことを私たちに示します。悪が一時的に勝利するように見えても、すでに十字架と復活によって裁かれており、神の人には勝利が約束されている確信を与えてくださるのです。 聖霊が罪と義と裁きについて悟らせる理由は、ただ一つ。一刻も早くキリストを受け入れて救われるためなのです。聖霊は、福音が伝えられるところならどこででも、今も罪に染まっている人々がその誤りを悟れるように導き、その導きに応答しようとする者を起こされるのです。

さらに13節では、「真理の霊」が来ると、「あなたがたを導いて、真理をことごとく悟らせる」と語られています。聖霊は、ただ感情を高揚させる存在ではなく、真理へと導く教師です。混乱するこの時代にあって、主イエスの言葉を思い起こさせ、信仰の道を照らしてくださいます。

聖霊は、苦しみや恐れの中でも私たちと共にいてくださり、私たちを慰め、キリストを証しし、その栄光を現してくださいます(14節)。

ペンテコステの日、弟子たちは聖霊を受け、恐れから大胆な歩みへと導かれ、世界に福音を宣べ伝えることになりました。私たちも同じです。聖霊は今も生きて働き、信じる者の内に住まわれます。

「その方がくれば」、それは過去の出来事ではなく、今この時にも有効な神の約束です。聖霊を求め、耳を傾け、キリストの栄光を現す生き方を選び取りましょう。

ハレルヤ!


2025.6.1 小さな泉の恵み

 ~AI時代を迎えて~

現代社会は現実空間とバーチャル空間とが融合した社会で、私達はこの現実空間とバーチャル空間の二つの空間を行き来しながら生活しています。AIが発達しており、知りたい情報や答えを直ぐに導き出せ、AI情報を疑うことなく受け入れ、使ってしまう。似たような価値観を持つ者同士がバーチャル空間で知り合い、納得し合い、自分を肯定し、楽しむことができます。そこでは異なる意見は入りにくく、自分の入っている空間があたかも真実で正しい空間であるかのように錯覚してしまう危険性があります。

私達はこれから先、AIを信頼し、活用して、AIが提供してくれる情報を受け入れ、それによって自分の価値を構築し、またAIが作り出す空間で楽しみ、憩い、癒されることもできるでしょう。AIに任せれば、何でも解決してしまう。AIがあたかも私たちの神であるかのような役割を果たしてしまいます。しかし、それでいいのでしょうか?神は私たちと親しい関係を持つために人間を作られたのではないでしょうか?また私達はそのための時間を持っているでしょうか?AIに神の座を渡してもいいのでしょうか?神は命をかけて私たちを神との関係回復に導いてくれたのではないでしょうか?今一度AIとの関わりを考えてみる必要がありそうです。   

                                S.H.姉        

2025.5.25 牧師室便り

 ~種まきから学ぶこと~

先週は、真夏のような暑さと肌寒い日が交差する一週間でした。

春になってだいぶ暖かくなったと思い、用意してあったマリーゴールドの種や、いろいろな種を買ってきて畑に蒔きました。しかし、種を蒔いた後に寒さが続き、雨も降り続いたため、芽が出ることなく、そのまま消えてしまいました。

毎年、春になると放っておいてもすぐに成長していく花や草がある一方で、心を込めて手間をかけて育てようとしているものほど、なかなか芽を出す気配が見えない――本当に難しいものです。

神の教会も、同じなのではないでしょうか。

牧師や信徒が皆、力を注いで最善を尽くしても、なかなか身を結ぶことができないことがあります。また、一人の成熟した信仰者を育て上げようと尽力しても、すぐには成長が見られないこともあります。それでも、特別に力を注がなくても、うまく進んでいく出来事もあるのです。

本当に、キリストの共同体を形成していく中で、私たちが優先すべきものは何なのでしょうか。神のご計画は、どこにあるのでしょうか…。心が悩まされます。


それでも私は、再び種を蒔きます。また、成長の芽が出ることを期待します。そして、自分にできる最善の働きを、これからも注いでいきたいと思います。

まことに、聖書の御言葉は真実です。

「大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。(コリント一3:7)」という御言葉の通りです。 

シャローム



2025.5.25 小さな泉の恵み

 私のいる福岡の平尾バプテスト教会には、西南学院大学を退職されたた青野先生という協力牧師がいます。青野先生は、パウロを研究し「十字架の逆説」を主張します。簡単に言えば、「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」パウロⅡ12:9。私は青野先生の信仰に助けられています。

以下は私の解釈になります。例えば、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる」ルカ6:20-21。私は呼吸困難のために大学4年生の頃から、教会にも通えず、ずっと寝込んでいました。夜は体が痛くて疲れが取れず、朝起きても体が痛くて眠り、家の近くのお寺から昼の鐘が鳴り、夕方の鐘が鳴り、夜になり朝になり。この中で私は自分の無力さを知り、ただ神様に祈るしかありません。私の呼吸困難の苦しみを理解する人はほとんどいません。私は大学3年のときに洗礼を受けましたが、クリスチャンになっても体調が回復するわけではありません。ただ、神様は私のこの目を逸らしたくなる弱さをも含めて愛してくださります。それは、私の信仰や行いの故ではなく、神様が私たちを愛してくださるからです。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」マタイ5:45。

                            N.Y.兄

2025.5.18 牧師室便り

 ~外なる人と内なる人の筋肉をつけよう~

昨年の健康診断であまり良くない結果が出たことを受け、今年に入ってから運動により力を入れるようになりました。特に、加齢とともに減少する筋肉の重要性を認識し、「健康のバロメーター」とも言われる筋力の維持と増強が必要であると実感しています。

私は今、50代後半に差しかかろうとしています。心は今も青春時代であり、信仰の面でも聖霊によって日々励まされていますが、それを支える体力が衰えていては、牧師としての働きにも支障が出るからです。聖書には「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされる」とありますが、体と心のバランスが崩れると、互いに悪影響を与えることもあるでしょう。

だからこそ、私は意識的に筋肉を鍛える努力をしています。最近では筋肉量の増加も確認でき、「まだ大丈夫だ」と安心しつつ、これからも継続していこうと決意を新たにしています。

皆さんはいかがでしょうか?「もう年だから」「筋肉なんて今さらつけられない」と諦めてはいませんか?

「体が動かないから」と、その場でただ時間を過ごしているだけになってはいませんか?

ぜひ、筋肉をつけることで「外なる人」を鍛えましょう。そして同時に、「内なる人」も日々新たにされるよう、挑戦を重ねていきましょう。そうすることで、私たちは神のために、御業のために用いられる「期間(とき)」を、さらに延ばすことができるのではないでしょうか。

誰しも、健康でありたいと願っています。そして皆さん一人ひとりが、体の筋肉と魂の筋肉をしっかりとつけて、主の前に、また人の前においても、チャレンジを続けていけますように。

シャローム。



2025.5.18 本日の宣教

 『然りか、否か』

                    ヤコブの手紙 5章 12節

私たちは日々、さまざまな言葉を交わしていますが、自分の言葉が他の人にどれほど信頼されているか、立ち止まって考えたことがあるでしょうか。私たちの言葉は、事実をそのまま伝えているでしょうか。あるいは、曖昧な言葉になってはいないでしょうか。特に信仰の告白や真理を語るとき、自分の言葉が相手の心にきちんと届いているかどうかは、とても重要な問いです。

ヤコブは手紙の中で、信仰と行いが一つであることの大切さを語ったあと、「言葉と行動が一致している人こそ、真のキリスト者である」と教えています。そこで彼は「何よりもまず」という言葉を用いて、キリスト者同士が常に心がけるべきことを語ります。「何よりもまず」とは、「最も大切なことの一つとして」という意味であり、ここでの教えが信仰者の生き方において非常に重要であることを示しています。

その最も大切なこととは、「誓いを立ててはならない」ということでした。当時のユダヤ人社会では、誓いが日常的に行われていました。「神殿にかけて」「天にかけて」「エルサレムにかけて」などの表現が、人々の言葉に信頼を加えるために用いられていたのです。しかし、その実態は、言葉そのものに「重み」がなく、信頼されていなかったことの裏返しでもありました。ヤコブはここで、主イエスがファリサイ派の人々の罪に対して語られた警告の言葉を思い起こさせます(マタイ5:34〜37)。

「あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。(12節)」・・・ここでの「誓いの禁止」は、神 への従順を口先ではなく、行いによって示すようにという勧めでもあります。つまり、「然り」と言ったことは「然り」となるように実行し、「否」と言ったことは「否」とするという、言葉と行動の一致が求められているのです。

特に、誓いの禁止は「主が来られる日が近い」という前提で語られている命令であることを心に留めましょう。自分が語るすべての言葉について主の裁きがあることを覚えているなら、私たちは安易に誓うことをしなくなるはずです。

現代社会では、言葉が軽んじられる傾向があります。SNSでは、匿名性の中で誤解を招くような発言が簡単に飛び交い、約束が破られても「仕方がない」とされてしまいます。しかし、キリストの体として建てられた教会共同体は、「真実の言葉」「誠実な言葉」によって支えられています。たとえ小さなことに見えても、私たちが日々交わす「然り(はい)」と「否(いいえ)」は、神の家族一人ひとりとの信頼関係を築く柱となるのです。

ただし、忘れてはならないことがあります。御言葉の中には、「然りか、否か」という問いに正しく答えきれず、心と言葉が乖離してしまった人々の姿も描かれています(例:ペトロ)。そうです。キリスト教会は「完全な人の集まり」ではありません。むしろ、「赦された罪人たちの集まり」であることを覚えつつ、主イエスの赦しと御言葉への誠実な実践を心がけながら歩む日々であるように…。

ハレルヤ!


2025.5.18 小さな泉の恵み

 5月16日、金曜日の午後のことです。

私は市営駐車場に車を止めて用事を済ませ、車に戻って駐車場を出ようとしたとき、駐車料金が450円でした。ところが、財布の中には385円しか入っていなかったのです。前日にお米やコーヒー等を買っていたため、財布にお金が残っていなかったことをすっかり忘れていました。1,000円札も一枚も入っていませんでした。

私は焦ってしまい、「どうしよう」と思いながら、駐車場の係のおじいさんに「すみません、お金がありません」と謝って、車を駐車場の隅に止めて、歩いて近くのコンビニまで行き、お金を下ろして駐車料金を支払い、やっと駐車場を出ることができました。

本当に、笑い話ですよね。

最近は、物忘れや失敗がよくあります。

家に帰ってしばらくすると、閔牧師が猫のミー助を見に来られました。猫としばらく遊んだあと、牧師はお祈りをしてくださり、帰っていかれました。

駐車場での失敗で心がささくれていたので、突然の牧師の訪問と祈りが嬉しかったです。

5月の暗唱聖句を思い出しました。

「あなたがたの中で苦しんでいる人は祈りなさい。喜んでいる人は賛美の歌をうたいなさい。」 (ヤコブの手紙5章13節)

                         N.Z.姉