『 誰かが祈っている 』
ヘブライ人への手紙 7章25節
人生には、病や肉体の弱さ、人間関係の葛藤などによって深く傷つき、「神様、助けてください」という言葉さえ出てこない夜があります。祈る気力も失い、ただ沈黙するしかないとき、私たちは神から見放されたのではないか、一人きりなのではないかという孤独に襲われます。しかし、忘れてはならない真実があります。それは、私たちが祈れないときも、主イエス・キリストが私たちのために祈り続けておられるということです。
牧師や教会の兄弟姉妹、愛する家族が祈ってくれることは、大きな慰めです。しかし、それ以上に確かな支えは、神の右におられる主イエスご自身が、私たちのために執り成してくださっていることです。
「執り成し」とは、苦しむ人のそばに立ち、その重荷や弱さを担い、父なる神に執り成すことです。主イエスは私たちの苦しみを遠くから眺めておられるのではありません。私たち同様に、人として地上での生活を歩まれ、疲れ、裏切られ、苦しみ、死の恐れを経験されたのです。ゲツセマネの園では深い苦悩の中で祈られ、弟子ペトロには「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」(ルカ22章32節)と言われました。この愛と祈りは過去のものではなく、今も私たち一人一人のために続いているのです。
また、「この方(主イエス)は常に生きていて、人々のために執り成しておられる」と教えています。 旧約時代の大祭司は死によってその務めを終えました。しかし、死を打ち破って復活された主イエスは、永遠に生きておられる大祭司であり、「常に」執り成しておられるお方です。
私たちが健康なときも、病床で不安と闘うときも、年齢を重ねて以前のように奉仕できなくなったときも、主の愛は変わりません。信仰が揺らぐときにも、主は私たちを見捨てることなく支えてくださいます。
さらに主イエスは、「御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになる」と記されています。これは将来の救いだけでなく、人生の最後まで、あらゆる困難の中で私たちを支え、救いへと導いてくださることを示しています。苦しみがすぐに取り除かれるとは限りません。しかし、どのような状況にあっても、主の愛から見捨てられることはないのです。
ローマの信徒への手紙8章も、苦難や危険、死も、現在のことも将来のことも、私たちを十字架と復活のキリストの愛から引き離すことはできないと宣言しています。その理由は主イエスが神の右におられ、私たちのために執り成してくださるからです。
「誰かが祈っている」…祈れない夜にも、あなたは一人ではありません。言葉にならない涙も、深い沈黙も、主はご存じです。私たちの真の希望は、自分の強さではなく、今も生きて執り成してくださる主の変わらない愛にあるのです。アーメン