2024年4月29日月曜日

2024.4.28 牧師室便り

 ~ 主と共に出かける時を待ちつつ ~

先週の昼食後、15名ほどの方々が能登半島地震支援活動のために酒井姉の指導のもと、マッサージ訓練を行いました。頭のつぼから肩、脊椎の方へ、そして手マッサージへと広がる中で、参加した皆さんの顔に笑みが浮かびました。^―^ まだまだ上手になるには時間がかかるとは思いますが、これから仕えていく方々の笑顔を思い浮かべながら、喜びをもって備えていきたいものです。

諸事情によって一か月ほど遅れてしまいますが、これから長い支援の歩みになると思うので、できることを一歩一歩としっかり身につけておくべきでしょう。

一つ忘れてはならないことは、主イエスがいつ「出かけなさい」と言われても、躊躇することなく従うということです。今もなお試練の只中にある被災地の皆さんのために、主の御手の憐れみと助けを祈り続けることです。

本日は2024年度の定期総会が開かれます。コロナ下の中では神の家族が互いに重荷を担い合うことを願って主題を掲げていましたが、その御言葉の前に立つと小さくなってしまう私たちです。
2024年度の主題標語として「主の憐れみに生きる教会」を提案します。収穫のために働き手を求めるようにと命じられた主は、いつどこにいても、深い憐れみをもっておられ、弱く病んでいる人々、また疲れ果てている人たちと関わり、癒しと力を与え、神の国をプレゼントされました。それに倣って、小泉町教会の神の家族の今年度の歩みにおいても、主と同じく深い憐れみが働きの動機となり、力となりますように。「わたしに従いなさい」と手を差し伸べられる主イエスと共にハイタッチできることを祈ります。シャローム!
               

2024.4.28 本日の宣教

 『 主の憐れみに生きる 』          

                     哀歌3章22~24節

哀歌は、紀元前586年のエルサレムの滅亡を目撃した証人が、バビロンによって滅ぼされ、捕虜として連れ去られる屈辱を目の当たりにし、涙をもって歌った嘆き歌です。哀歌のヘブライ語原典のタイトルは、本書物の最初の言葉である「エーカー」です。これは「ああ、なぜ、なにゆえ」という意味で、驚きと悲しみを表す感嘆詞です。

詩人の目に入るのは、崩れ落ちたエルサレムの城郭や建物、また殺された死体が転がる町、親を失くして泣き叫ぶ子ども、寂しく死を待っている老人たちの姿です。どこを見ても希望を見出せない状況の上に詩人は立っていました。

しかし、詩人は決して現実の中で絶望に陥ることはありませんでした。本日の御言葉は詩人が希望を抱いていたことを教えます。「再び心を励まし、なお待ち望む」(21節)と。…それでは、その希望の根拠はどこにあったのでしょうか。詩人はその希望を神の慈しみと憐みに置いています。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。(3:22~23a)」

詩人は徹底的に悲惨な状況に嘆き苦しみながらも、決して諦めず、心深くに抱いていた希望への確信がありました。それは「主の慈しみと憐み」でした。旧約聖書の中で神様の愛を紹介する時に最もよく用いられる言葉が「慈しみ(ヘブライ語:ヘッセード)」と「憐み(ヘブライ語:ラハム)」です。 “慈しみ「ヘッセード」”とは、神と人との関係において、神が人々に示す無条件の愛、慈悲、忠実さを指す愛の言葉です。詩人は、主のヘッセードの愛は決して絶えないと断言します。今、目に見える現実は絶望で悲惨な状況であろうとも、ヘッセードの愛をもっておられる神は神の民を見捨てず、必ず共にいてすべてを美しく変えてくださるという確信をもっています。

さらに、“憐み「ラハム」”とは、父なる神が試練の中にある子どもたちに示す深い憐れみと同情を指す言葉で、人間同士の関係においても、他者に対する思いやりや慈悲、同情を示す行為を表現する際にも使われます。これは「子宮」や「内臓」を意味する言葉と関連しています。つまり、感情や深い愛、思いやりは体の内臓の深いところから湧き出るものと考えられていたのです。詩人は、神の子どもたちを思う憐みも決して尽きないと断言することで、神の慈しみと憐みにこそ、決して変わることない希望があることを歌っています。

そこで詩人は、もう一歩進んで、「朝ごとに」これらの「主の慈しみと憐み」を確かめ、その希望を朝ごとに新たに味わいながら生きることを宣言します。

今私たちの周りに目を向けましょう。哀歌の詩人が歌っていたように、悲惨な状況の中で苦しみ、絶望の中で泣き叫ぶ人々の姿を見ます。しかし私たちは、そのただ中で、深い慈しみと憐みをもって交わっておられる主イエス、すべての罪、悲しみ、苦しみ、絶望を背負い十字架にかけられた主イエスに希望を抱きます。

本日は2024年度定期総会が開かれます。願わくは、神の家族お一人おひとりが、朝ごとに新たに注がれる主の慈しみと憐みに浸される体験をし、そこで新たな力と希望を得、主の慈しみと憐れみに生きる生活へと進みますように…。ハレルヤ!



2024.4.28 小さな泉の恵み

 主の御名を讃美します。

「主に自らをゆだねよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。(詩編37:4)」

私は毎日この御言葉を黙想しながら暮らしています。すると心に平安な思いが出てきます。御言葉によって励まされています。

クリスチャンになって御言葉を知ることができてイエス様に感謝しています。

世の中で暮らしていると自分にプラスになることもありますが、マイナスの心になることが多いです。先日観た映画には「主の御名によって」祈ると記されていました。自分だけでなく主が私と共に戦っていてくださると思うと、心が平安になります。         

                              M.T.姉

2024年4月21日日曜日

2024.4.21 牧師室便り

  ~ 憐みを身につけて歩む~

今から17年前、富山に赴任した時のことです。息子を保育園にあずけた後、半年ほど経ってから息子が同じ年ごろの男の子たちからいじめられていたことを知りました。当時、息子が目の前で男の子たちからいじめられている姿を目の当たりにした時のショックは大きいものでした。息子が半年間何も言えずに一人で涙を流していたことを考えると、胸が張り裂けるような痛みを感じました。その時の経験は息子にとって大きな傷となり、友だち作りに苦しんでいたことを覚えています。

小学校に進学することで、息子に今までの嫌な記憶を忘れ、新しい環境で新しい友だちを作ればいいのだと励ましました。しかし、今度は息子が韓国人であることで、数人の男の子たちから嫌がらせを受けたり、脅されたりすることが続き、息子の友だちを作りたいという望みは再び挫かれてしまいました。

その後、息子との対話の中で、息子は「もう、一人でいい。彼らの言葉や行動を無視すればいいから。」と話していました。その言葉に、深い悲しみを覚えながら、次のような言葉をかけました。「息子よ、君は神の子どもだよ。あなたの苦しみをイエス様はよく知っておられる。だから、いつも傍らのイエス様を見なさい。それから、嫌がらせをする彼らを可哀想に思いなさい。彼らはイエス様の愛を知らない本当に哀れな子たちだからね。」と・・・。それから、いつの間にか息子は成長し、一人のクリスチャンとして生活していることに感謝します。

 「誰かを憐れむ」ということは、自分が上からの目線で抱く思いではありません。主イエスが十字架の上で釘うつ兵士たちに向かって、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」と祈られたように、その人や対象を主イエスの目で見、主の御心に照らしてその人を受け入れることです。主の憐れみを身につけて歩む人は幸いです。    シャローム!

              

2024.4.21 本日の宣教

 『 聖霊に助けられて祈る 』          

               エフェソの信徒への手紙6章18節

使徒パウロは、神の国の福音の働きを妨げる悪魔の策略を見抜きながら、クリスチャンと教会に向けて「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」と命じています。続けてパウロは、「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするもの」であることを強調しています。先週の礼拝後「祈りのちから」という映画でも大切に扱っていた主題が「霊的戦い」ということでしたね。

そこでパウロは、霊的な戦いにおいてしっかりと身につけるべき武具として「真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の履物、信仰の盾、救いの兜、聖霊である御言葉の剣」を挙げています。

しかしパウロは、神の武具を述べるだけでなく、「聖霊に助けられる祈り」を付け加えています。その理由は、いかに強く素晴らしい武具を身に着け武装しても、勝利を与えるのは神であるということ、だから、祈りによる神との親密な交わりがなければ、霊的な戦いで敗北せざるを得なくなることを示しているのです。その通り、祈りとは神と繋がるホットラインのようなものです。その祈りのホットラインが切れてしまったら、神からの御心を受け取ることができず、悪魔サタンに振り回されてしまうことになるからです。

「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(18節)…はっきり言いますと、祈らないクリスチャンは勝利することができません。また、祈らない教会は復興、リバイバルを経験することができないのです。だから祈りに励むことです。

ここで「どのような時にも」とは、時を選ばず祈りなさいという意味です。問題が生じてから祈るのでも、困難に直面してから祈り始めるのでもありません。平穏な時にも賛美と感謝で祈りを満たすべきです。困難な時には何も心配せず、必要なことを神に知らせるべきです。神と常に繋がっていれば、どんな状況に遭遇しても慌てたり落胆したりする必要がありません。神との緊密な祈りが続けば、突然の困難に直面しても心配する必要はありません。絶えず祈ることで、問題解決の力を得ることができるからです。

続けてパウロは、「霊に助けられて祈る」ようにと勧めます。他の宗教を信じる人たちにも祈りがあります。しかし、彼らの祈りは御利益だけを求める祈りであり、焦点はいつも自分自身に向けられています。 しかし、私たちの祈りの焦点は神です。常に神の御心と御業を考え、神が喜ばれることを求めるのです。これが「霊に助けられて祈る」人の姿です。そうです。聖霊こそが私たちの祈りを真の祈りにしてくださり、私たちの祈りが神に受け入れられるにふさわしいように導いてくださいます。ですから、聖霊の中で祈るときに確信と大胆さを得ることができます。それにより、霊的戦いに勝利する力強い祈りを経験することができるのです。ハレルヤ!



2024.4.21 小さな泉の恵み

 桜も散り、本格的に暑さが増している様な気がしますが、皆さん体調は如何でしょうか?

  皆さんの小さな泉の恵みを読みながら、この記事を書いているのですが、果たして自分は、神に対して何ができたのだろうか?応答出来ているのか?と考えながら書いて居ます。全く、神に問いかけに対し応答できてます。と自信が持てない自分がいます。

皆さんが書かれた小さな泉の恵みを読んで、御言葉をしっかりと受け止め、日々過ごしているんだなぁと。自分も、御言葉の意味をしっかりと受け止め日々過ごしたいと思います。         

                                 Y.H.兄

2024年4月17日水曜日

2024.4.14 牧師室便り

  ~ どのような花を咲かせますか ~

先週、暖かくなったおかげで、教会の花壇にさまざまな種類の花が一斉に競い合うように咲き続けましたね。その中でも、昨年11月から花が咲き、厳しい冬の雪と寒さに耐え、花壇いっぱいに広がっているバンジーとビオラを見ると、心が温まります。それに、今年に入って勢いよく芽を出して綺麗な黄色と白色の花を咲かせている水仙や、春の花壇の主役のように目立つチューリップ、そして今年初めて目にするヒヤシンス、また花壇の周りを飾る濃いピンク色の芝桜、種も蒔いてないのに可愛い姿で咲いているムスカリやハナニラなど・・・。それだけではありません。昨年の冬に蒔いた野菜の菜の花も咲き、花から漂う香りに心が魅かれます。また、牧師館の方にはレンギョウの花が鮮やかな黄色を誇っています。そしてこれから花壇一杯を綺麗に咲かせてくれるはずのアヤメとシラン、マリーゴールド、ミルトスなど、考えるだけで嬉しくなります。大自然における創造されたものの中で、創造者なる神の愛と美しさを最もよく現している作品を挙げるとしたら、花ではないかと思います。とりわけ、復活と命の季節である春に咲くこれらの数多くの花を見るのは大きな喜びです。

 私たちの教会共同体も神が大切に管理し育てられている花壇に例えられるでしょう。あなたはどのような花を咲かせていますか。創造者なる神は、神の家族一人ひとりがそれぞれ、神に喜ばれる花を咲かせることを喜ばれるでしょう。そして、皆さん一人ひとりの咲く花が素敵な調和を成し、その放つ花の香りが神の家族に喜びと慰めをもたらし、さらに教会の周りに良い香りを漂わせ、神が備えられた幸いを与えることができますように…。そのために、皆が御言葉による命の栄養と祈りによる恵みの雨をいただき、素敵な神の国の花壇を作っていきましょう。シャローム!