2025年11月23日日曜日

2025.11.9 本日の宣教

 『  光の子として主の日を待つ 』

                   テサロニケの信徒への手紙一5章1~6節

使徒パウロは、主イエス・キリストの再臨、すなわち「主の日」について、キリスト者がどのような心構えを持って生きるべきかを語っています。私たちもまた、終わりの時代に生きる者として、この教えを真剣に受け止めなければなりません。聖書は、主の日は「夜中の盗人のように来る」と語ります。それは突然であり、人間の予想や都合を超えて到来するものです。では、私たちはただ恐れながら怯えて待つべきなのでしょうか。いいえ、パウロは語ります。「あなたがたは光の子、昼の子である」と。つまり、主の日は私たちにとって裁きの日ではなく、救いの完成の日、栄光の主と顔と顔を合わせる希望の日なのです。問題は、その日がいつ来るかではなく、私たちがどのような者としてその日を待っているかにあります。

「光の子、昼の子」として生きるとは、日々み言葉に照らされ、祈りによって心を目覚めさせ、主の臨在を意識して生きる生活です。光は隠されません。暗闇に輝き、周囲を照らします。キリスト者の生活は、単に道徳的に正しくあることではなく、暗闇の世界の中で神の光として輝く使命を帯びているのです。もし私たちが光の子であるならば、自分の信仰を隠すことはできません。私たちの言葉、態度、生き方そのものが、主の再臨を待つ者の姿として現れることになるでしょう。

主イエスは山上の説教の中でこう言われました。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あ なたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5:16)

 闇の中では、人は隠れ、ごまかし、自分の都合の良いように行動します。しかし、光の子は隠れる必要がありません。真理が私たちを覆い、愛が私たちのすべての行動の動機となり、希望が私たちの道しるべとなるからです。

主の日が来たとき、闇に属する人々にとっては予期せぬ「盗人」に襲われたように思えるでしょう。しかし、光の子である私たちにとっては、待ち望んでいた愛するキリストとの「再会」の日、勝利の日なのです。ですから、私たちのアイデンティティが「光の子」である以上、もはや闇の中で眠ることは許されません。目を覚まし、身を慎み、日々、私たちの視線を永遠の光であるキリストに向けつつ、キリストの光を反射する者として立ちたいものです。

願わくは、子ども祝福式を迎える富山小泉町教会の子どもたちが、「光の子、昼の子」としてのアイデンティティを持って育まれ、暗闇の世界にあって真の光である主イエスを人々にプレゼントできますように。神の家族の皆さんが、祈りと愛をもって見守ってまいりましょう。

日々、暗闇が深まっている季節です。二千年前、救い主を待ち望んでいた人々に光として来られたクリスマスの恵みが、神の家族の上に豊かに注がれますように。

ハレルヤ!


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